朝山神社のある宇比多伎山の麓には神戸川とその支流の稗原川が流れており、それらの川が削った岩の露頭がそびえています。『出雲国風土記』ではそれらの山々を「大神の御稲」とか、「大神の御冠」などとしており『古事記』『日本書紀』のオオクニヌシに当たる所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)との密接な関係を説明しています。ちなみに宇比多伎山は「大神の御屋」です。
その6つの山のうち「大神の御影」とされるのがこの岩山です。岩陰には岩根寺という小さなお堂が建てられています。明治の廃仏毀釈の際に本尊の十一面観音は神門寺に移され、一旦は廃寺となっていましたが、明治22年に地元の方々の尽力により現在のお堂が復活しています。
お堂の横には、まるで天から降りてきたかのようなノウゼンカズラの幹が伸びています。
お松:ノウゼンカズラですよね。真夏に咲く橙色の花が美しいノウゼンカズラですよね。確か、以前にもこの時期に見に来て、「次はノウゼンカズラの真っ盛りに見に行こう。」って言ってましたよね?
やや:お~!よく見ると、いくらか残ってませんか?かろうじて咲いてませんか?
お松:見えないし。確か「真っ盛りに」って言いましたよねぇ。
やや:そうでしたっけ?そもそも花とかよく知らないし・・・。ま、いいか。今度は真っ盛りに来ましょうね。
お松:もぉ~!
- 2014/08/30(土) 09:27:23|
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出雲市街地の南側、神戸川の支流稗原川に面した宇比多伎山の山頂近くに朝山神社はあります。『出雲国風土記』「神門郡条」に記される朝山郷の地名の由来は、この地にいらっしゃった真玉着玉之邑日女(マタマツクタマノムラヒメ)の元に所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ≒オオクニヌシ)が毎朝通ったので朝山なのだそうです。
ちなみに『古事記』のオオクニヌシは、スセリヒメと言う正妻がありながら、因幡の素兎の一件でヤカミヒメを娶ったり、高志のヌマカワヒメに、宗像のタキリヒメなど、あちこちに出かけては、そのいろいろとがんばっていらっしゃいました。一方の『出雲国風土記』でも、綾門日女(アヤトイヒメ)命に振られたり、正妻であるスセリヒメの元に通ったのもこの神門郡だったりします。こうした神話はそれぞれの地域の間の結びつきを反映したものであろうとは思いますが、現代的な感覚で言えば
うらやましいなんだかなぁ?です。
朝山神社のある宇比多伎山はわずか標高約160mの山ですが、山頂近くから小さな小川が流れ出ており、(夏場は近づけませんが)滝があったりします。また、周辺にある6つの岩山はそれぞれ「大神の稲積」とか「大神の御冠」と言うような、所造天下大神に関わる説明がされています。神戸郡・朝山郷が所造天下大神と深い関わりがあり、付近の山塊そのものが信仰の対象であった事が想像されます。
朝山の地名の由来に関しては、深山の反対の意味としての「浅山」と言う言い伝えもあるようです。確かに朝山神社周辺は比較的なだらかで、水の便もあり、古代の人々も生活できる、山深くない浅い山であったかもしれません。そんな所に住んでいた人々が真玉着玉之邑日女や所造天下大神を祀っていたのでしょうか?
やや:マタマツクタマノムラヒメは、朝山神社さんによれば「容姿が美しく玉のように麗しい心を持った女神」だったそうで、「当社への参詣により容姿いよいよ美麗になるとの伝承がある」のだそうです。
お松:お~!一生懸命お参りしております。なにとぞよろしくです。
やや:「真玉着」は「玉」の枕詞なんだそうで、だから玉之邑の女神なのですが、特別な村の女神のことですね。この宇比多伎山の上にあった村のことかもしれません。
お松:で「容姿いよいよ美麗になる」と言うのは、いったい何の文献に出てくるんですか?
やや:・・・朝山神社さんのパンフレット。
お松:・・・。
やや:・・・。
お松:信じる者には御利益があるに決まってる!
やや:・・・今回は、いつになく強気なようで・・・。
- 2014/08/24(日) 18:45:03|
- 神話の足跡探し
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パワースポットとして近年急にメジャーになった須佐神社の境外摂社で、県道沿いにある小さなお社です。須佐神社からは出雲方面へ車ですぐの所にあります。市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命のいわゆる宗像三女神を祀っています。
鳥居の真っ正面にはぴかぴかの御本殿。右手に神楽殿が建てられていますが、左手は巨大な岩そのもの。岩の割れ目に「稲荷大明神」の小さな祠が置かれています。いつから厳島神社と呼ばれたかは判りませんが、この巨大な岩が信仰の対象となり三女神が祀られであろうことはまちがいないでしょう。
現在、県道が通っているところには荒井戸と呼ばれる井戸があったとかで、別名「洗度(あらいど)社」なのだそうですが、もう一つの別名、「祓戸(はらいど)社」の方がらしいですよね。本来の宮の名前は、井戸にちなむものだったようですが・・・。
お松:厳島神社って言えば、安芸の宮島ですよね。海のイメージがありますが、佐田は海からはずいぶん離れていますよ。それに、立派な岩で、こっちもパワースポットっぽいですよね。
やや:島根県内にも厳島と呼ばれる神社はいくつかありますが、確かに海の近くが多いですよね。温泉津周辺など石見銀山がらみの厳島神社は毛利氏が勧請したのだと思います。そもそも宗像三女神は海上交通の神様として祀られることが多いので港に建てられるのが一般的ですよね。それから、厳島神社の場合、添え木のある鳥居を建てるのですが、ここは、通常の鳥居ですね。いろいろ特殊です。
お松:う~ん。例によって、パワースポットはスルーのようですが・・・。厳島神社であることについては、ややさん的には、何か思うところもあるんでしょ?
やや:まぁアレですわ、要するに子孫繁栄に繋がる何かの・・・
お松:言いにくい事なんですか?
やや:・・・。岩の割れ目とあふれる井戸!おそらくそれが信仰の対象です。だから女神が祀られ、交通路上なので後に宗像三女神と言うことになって・・・なんて事が想像されますが、実際には、まぁ判りません。
お松:・・・。要するに岩なんですね。古代人が岩に何かを見て、何かを願ったんですね。
やや:おそらくそれ自体は自然な事だったんでしょうが、それに理屈をつけようとすると、具体的な神名が出てきて、ちょっとエッ・・・。
お松:ややこしい話になると!
やや:ばっさり切りましたね。
- 2014/08/23(土) 07:25:29|
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近年、なぜかパワースポットとして注目を浴びる出雲市佐田町の須佐神社です。須佐神社と言うからには、もちろん御祭神は須佐之男命(いろんな字がありますが、須佐神社の説明板に従っています)です。県指定文化財となっている御本殿はあまたの大社造りの中でも比較的大型で、見上げる高床は迫力満点です。
さて、
『古事記』『日本書紀』に見えるスサノオは、天の岩戸事件の原因を作って高天原を追放されたかと思えば、その先でヤマタノオロチを退治しちゃったり、後には大国主にいろいろな試練を与えたりと、しっちゃかめっちゃかの荒ぶる神であったかのように記されますが、『出雲国風土記』にはそうしたことを思わせる様子は記されていません。むしろ出雲の山間部では、意外なほど穏やかな、地域を鎮めた神として信仰されていた様子がうかがえます。そうした信仰の中心地と思われるのがこの須佐の地です。『出雲国風土記』「飯石郡条」によれば、出雲各地を巡行し、最後に訪れた須佐郷に、スサノオが自らの御魂を鎮め置いた。なので須佐と呼んだと言う、実に穏やかなイメージの地名説話があります。
パワースポットの源となっているのは本殿の後ろにあるこの大杉です。須佐神社では鎮守の森が大切に守られ、本殿の背後は鬱蒼としているのですが、中でも、樹高約30mと言われるこの大杉はひときわ立派で、高天原を目指すかのようにそびえ立っています。
お松:説明板には推定樹齢1,300年ってありますよ。って事は奈良時代?苔むした根も神々しいと言うか、さすがにスピリチュアルな何かを感じさせますよね。
やや:気のせいですけどね(きっぱり!)。
お松:・・・。
やや:何か?
お松:・・・。
やや:・・・。
お松:こういう所にこの人と来ると
つまんな~い!
- 2014/08/17(日) 17:10:13|
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先週は台風。今週の山陰地方は雨です。今朝はすんごい雷でした。過ごしやすいのは確かですが・・・稲の病気とか、普通の夏でない話もちらほら聞こえてきています。
画像は・・・どっか行きたい病が深刻なのに、どこにも行けないので・・・過去の画像から季節感とか無関係に、も一度行きたいところ・・・
お松:な、なんですか、これは?ギリシャ建築のような?でも小さいっつ~か、これ、コンクリート?
やや:台湾の北東部、金瓜石(ジングワシー)にある金瓜石山神社、通称「黄金神社」です。金瓜石は、一時はアジア最大級の金・銅鉱山があったところで、黄金神社は戦前にここを操業していた日本企業によって建てられ、鉱山の神様である金山彦命、それに猿田彦命と大国主命を祀っていました。昭和初期は大変な賑わいだったそうですが、戦後は台湾でも日本支配に関わるものの多くが破壊され、この神社でもコンクリートの柱と灯籠、いくつかの鳥居に参道の石段を残すだけになってしまいました。
現在の金瓜石鉱山は、黄金博物園区と言う金瓜石鉱山を学習する広大な公園になっています。黄金神社は博物園区を見下ろす山の中腹にあり、博物園区主要部からはけっこうな石段を登った先にあります。ちらっと見えているのは、散歩の人が連れて上がったワンコです。
お松:ヨーロッパじゃなくって台湾。しかも神社?確かに、灯籠は日本の神社ですね。しかし、この柱は何っつ~か?
やや:このワンコが、ムダに元気でして・・・(←お松:あのぉ?ワンコはどうでもいいので)。・・・拝殿の柱ですね。屋根も床もなくなって、柱だけ残されています。
お松:向かいの山の上にも建物があるんですか?
やや:あれは、固まった溶岩ですね。急須とかヤカンのシルエットに見えませんか?現地では茶壺山と呼ばれています。金属鉱山が火山だと言うことがよくわかる光景ですね。
お松:あ!下の方にUFOが!
やや:・・・。博物園区の施設の屋根です。その横に鳥居が残っていますね。いいなぁ、も一度行きたいなぁ。
お松:UFOじゃないんですね。ところで、これ、ススキ?何月の風景ですか?
やや:12月だったかな?真冬ですね。
お松:・・・。
やや:あ~ぁ、どっか行きたい!
- 2014/08/16(土) 10:18:14|
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台風も、どうやら通過したようなので、神魂神社へ行ってみました。
お松:なんで、わざわざ雨の中?
やや:いや、県立美術館に浮世絵展を見に行ったので、そのついでに・・・。
神魂神社は、松江市大庭町の意宇平野を見下ろす斜面にあります。この辺りは古代出雲の中枢部。付近には国造屋敷があったことが知られています。
境内はさほど広くはありませんが、大社造りの巨大な本殿は、出雲大社本殿と共に、島根県内に2件しかない国宝建造物。棟札の写しから天正11(1583)年の建築とされています。もちろん、出雲大社本殿とよく似ていますが、より古い様式を残していて、宇豆柱(うずばしら:正面中央の棟を支える柱)が側柱よりも前に出ており、独立棟持ち柱に近い形状になっています。
お松:どくりつむな・・・まぁ、ややさん以外には、ほぼどうでも良い話です。
やや:・・・。さて、この神魂神社は、古代出雲の中枢である意宇の地にあって、出雲国造の祖とされる天穂日命(アメノホイノミコト)が創建したとされ、出雲国造家と深い関係のある神社だと言うことが判っていますが、『延喜式神名帳』や『出雲国風土記』に記載が見られません。
お松:何でですか?
やや:一般には、出雲国造家の私的な社、私的な斎場だったからでは?と、言われていますけど・・・。ところで、平成の大修理で話題になった出雲大社本殿の八雲の図の話を覚えていますか?
お松:私、見ました!本殿の天井に極彩色の雲の絵が描かれているんですよね。
やや:そう。雲が7つ。
お松:あれ?八雲なのに7つ・・・だったっけ?
やや:この神魂神社の本殿には9つの雲の絵が描かれているそうです。もちろん見たことはありませんが。
お松:そうでした!確か、出雲大社の雲が1つ飛んでいったとか?
やや:そういう説明がありましたねぇ。神魂神社本殿の方が古いんですけどねぇ。
お松:また、その、どうでもいいような理屈を捏ねるぅ。
- 2014/08/10(日) 17:02:25|
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すでに大変な事になっているところも多いようですが、山陰地方も台風接近中。一昨日から昨日は雨の中での仕事でした。今日は、雨はさほどでもありませんが、強風が吹いています。・・・で、どこにも行けず、ネタも無いので・・・。
春の出雲大社です。
- 2014/08/09(土) 18:15:13|
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大田市仁摩町宅野に関しては、江戸時代に入ってすぐ、初代銀山奉行大久保長安がその繁栄を喜んだ書状が残されています。世界遺産には含まれていませんが、戦国末期~江戸初期頃から栄えた石見銀山の港町のひとつです。その宅野の町を見下ろす高台には真言宗波啼寺があります。
波啼寺は、海中から出現したとか、大和の長谷寺から譲られたとかと伝わる十一面観音をご本尊とし、延喜十七(917)年の創建とされているのですが・・・石見銀山との関わりで言えば、天文五(1536)年の棟札の記録があります。現物がどこにあるかは判りませんが、この棟札には「天文五年丙申五月十五日上棟、筑前国石城府袖之湊博多津之住人神屋寿貞建立」と記されているそうで、この時点での本堂が天文五年に作られ、博多の神谷寿禎が建立したとされているのです。
博多商人神谷寿禎と言えば、この辺りでは石見銀山の発見者として知られる人物!『銀山旧記』によれば、大永六(1626)年に、日本海を航行する船上から山が光るのを見て石見銀山を発見したとされているんです。多分に伝説的な内容を含む『銀山旧記』ですので、神谷寿禎の存在そのものも疑われたこともありましたが・・・この波啼寺や、博多での記録から実在の人物だったことは確実です。神谷寿禎が波啼寺本堂を再建(?)したとされるのが1536年ですから、石見銀山での銀生産は急増し、神谷寿禎はうはうはの左うちわだった頃だと思われます。なので、お寺の一つや二つは・・・。
やや:波啼寺から宅野の町を見下ろしていますが、何か変だと思いませんか?いや、変ではないんですが・・・。
お松:・・・ん?
やや:屋根が黒い。
お松:あ!本当だ。石見地方なのに石州瓦の赤い屋根が少ないですね。
やや:宅野は黒い宅野瓦の産地です。邇摩郡。つまり、天領石見銀山御領の中枢部は、元々は、赤い石州瓦と黒い宅野瓦が混在する地域なんです。
お松:今ではすっかり赤い屋根が主流になってしまいましたが、なんか、かえって新鮮なような・・・。
やや:宅野瓦自体は激減中で、事実、この波啼寺の屋根も宅野瓦ではなく、黒い石州瓦ですね。ま、色にこだわりが残されているという事でしょうか。
お松:う~ん。屋根フェチもそこそこ深いですね。
やや:そこそこって・・・。
- 2014/08/03(日) 06:09:15|
- 石見銀山で散歩
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大田市の宅野港の沖に浮かぶ韓島(からしま)には韓島神社があり、港から鳥居が見えています。でも、船が無いと近づくことができません・・・。
この島については、天岩屋戸事件を経て高天原を追われた素戔鳴尊(スサノオノミコト)が新羅(朝鮮半島にあった国)へ天下ったとする『日本書紀』の「一書に曰く」の続きの話が伝えられています。それによると、素戔鳴尊は新羅から出雲に向かう途中、この島に立ち寄り、濡れた衣を着替えた後に、大浦から上陸したとされています。
大浦の港にはあの
グロを行う韓国新羅神社が知られていますが、温泉津から大浦にかけて、大田市の海岸部には「韓国新羅(カラクニシラギ)」「韓島(カラシマ)」「唐島(カラシマ)」「唐人島(トウジンジマ)」と海の向こうの彼の国を想像させる地名が点々と見られるのです。
お松:これだけ点々とあるんですから、きっと来てるんですよね。アチャラの方々が?
やや:う~ん・・・。「韓国」は、基本的には五十猛命(イソタケルノミコト)に関係する云われだと思うのですが・・・。五十猛命は『日本書紀』の「一書に曰く」に登場する神様で、スサノオの御子神とされています。高天原を追われたスサノオが新羅に天下るのですが、そこをいやがって出雲に向かおうとします。その間、行動を共にするのが五十猛命です。大田市五十猛町を始め、この地域の神様として、そもそもは新羅と関係があったかもしれませんが、考古学的にはそれらしきものは判りません。また、「唐島」については「韓国」と同じ次元で考えて良いかどうかも・・・。
お松:でも、釣り場情報の本を見ると、本当にあちこちに「唐人島」とかがあるんですね?
やや:なんで、釣り場情報を見てるんですか?
・・・みんな小さな無人島ですよね。それにまつわる伝承はすっかり忘れ去られているようですが、海と深く関わった地域だったことは間違いないのでしょう。
お松:この海の向こうは、「韓国」や「唐国」なんですね・・・。
- 2014/08/02(土) 08:17:23|
- 石見銀山で散歩
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