そろそろコートがじゃまな気候になってきましたが、春と言えば人事異動。で・・・私の関係は・・・ちょっと、それはないでしょう?

何の関係もありませんが、画像は・・・先週の石見銀山豊栄神社です。毛利元就像を保存していたため、お寺から神社から変わったという、不思議な経緯の神社。氏子さんがいないと言う事もあり、残念ながら管理が行き届いていません。いくつかの瓦の落ちた随神門。目に見えて傾いた拝殿。ぼろぼろの石造物・・・。

春になって、もう今年の雪は終わったと思う頃に、毎年思う。「あぁ~良かった、この冬もなんとか乗り越えた・・・。」

関係者の皆様。早くなんとかしていただけないでしょうか?
- 2014/03/29(土) 10:01:53|
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お松:こにゃにゃちわ~。(←やや:また、なんちゅうあいさつやねん?)さて、久しぶりに石見銀山に連れて行ってもらいましたが、なんだかすっかり春ですねぇ。
やや:石見銀山も冬眠から覚め、観光客も増えてきましたね。
お松:忙しくって、ほとんどどこにも行けてない中で、今回もずいぶん写真を撮ったことだし、当分は石見銀山ネタだけで・・・
だ・け・で回していくんですよね。(←やや:ぎく!)
豊栄神社に矢滝城、石見銀山にいろいろあることは判ってきましたが、そもそも銀山本体の部分って、このページではまったく紹介されていませんよね?坑道とかは?
やや:だって、あんまりおもしろくないような・・・。
お松:観光客が必ず行くのが龍源寺間歩ですね。ここが、かつて銀をバンバン産出した石見銀山の中心?
やや:龍源寺間歩は正徳5(1715)年に開発されたと言われる「五ヵ山」つまり代官所直営の坑道の一つと言われています。
お松:1715年というと・・・。
やや:18世紀・・・ぶっちゃけ、17世紀前半までの銀山最盛期をとっくに過ぎた後の坑道です。石見銀山の銀の産出量は激減し、銅の割合が増えた頃です。
お松:あれ?
やや:石見銀山には約600カ所の坑道・間歩が知られていますが、公開されているのは、ガイド付き限定ツアーで行く大久保間歩とこの観光坑道龍源寺間歩の2カ所だけですね。
お松:2カ所だけ?なんで?
やや:江戸時代の坑道は、幅2尺(約60cm)、高さ3~4尺(約90~120cm)が標準です。立って歩くことはもちろん、服を汚さずに出入りすることは不可能です。これが戦国時代のものだと、坑道の形状自体も不整形で、もっと狭く、そもそもすんごく危険です。鉱山に入ること自体が命がけだったからです。
龍源寺間歩は、近代に再開発されていて、トロッコを入れるために大幅に拡張されています。だから、大人が立ったままで服を汚さず、安全に出入りできるんです。
お松:それで、おもしろくないと?
やや:だめって言うつもりもないですが・・・。龍源寺間歩を行くと、途中何カ所も小さな坑道を横切っていますよね。ああ言うのが古い坑道ですよね。鉱脈に当たると掘り進めていった狭くて暗い坑道。ああいうところを見て、江戸時代の山師どもの苦労を想像して欲しいものです。

おまけの画像は、町並み地区のど真ん中。観世音寺から見た町並みです。
お松:そう言えば以前にも似たようなカットを使ったことがあったような・・・定番スポットですね。
やや:だはは。町並みの屋根は、最近では、赤くピカピカの石州瓦が主体ですが、昭和以前には黒い宅野瓦と赤い石州瓦が混在する景観でした。きれいすぎるのも、ねぇ?
お松:ねぇって言われてもねぇ。
- 2014/03/23(日) 18:24:45|
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世界遺産石見銀山遺跡の構成要素の一つである戦国時代の山城、矢滝城跡に登ってきました。矢滝城跡は石見銀山本体がある仙ノ山の南西。石見銀山と温泉津を結ぶ、石見銀山街道温泉津沖泊道を見下ろす山の上です。
石見銀山の歴史を伝える『石見銀山旧記』には、大内義興が享禄元(1528)年に石見銀山のおさえの城とし、その3年後に川本の武将小笠原長隆に奪われた事が記されています。 近世城郭と異なり、戦国時代の山城の多くは、戦時の際の施設に過ぎず、詳しい記録のあることの方がまれであり、矢滝城に関しても、16世紀前半台の事がわずかに記されているだけで、戦国末期の様相はまったく判りません。要衝に築かれているので、戦国末期にも使われていたのだろうとは思われますが・・・。
この場所には、その後・・・ずいぶん飛んで、戦後には駐留米軍が通信施設を設置し、さらにその後にNHKがアンテナを建て、そして放棄され、現在ではその廃墟が残っています。
お松:ややさんは「廃墟もえ~」の人なんで、こう言うのは大好きですよね。
やや:誰が廃墟もえ~か!?・・・。でもこれ、アンテナの基礎はレンガなんですね。た、たまらん・・・。
お松:・・・。
やや:さて、ここからの風景はと言うと、眼下に見下ろすこのこんもりとした山が石見銀山の本体である仙ノ山。画面の左端に切れているのが銀山を守る山吹城跡。右奥に霞んでいるのが『出雲国風土記』に「出雲と石見の堺なる佐毘売山」と記される三瓶山ですね。
お松:お~。国引きの時の島根半島を繋ぎ止めた西の杭ですね。ここは、仙ノ山を完全に見下ろす高さなんですね。
やや:ここの標高は634mです。どこかで聞いたことがあるでしょ?
お松:634m・・・あ、ムサシ?東京スカイツリーと同じ高さ?
やや:正解!
お松:へぇ~。東京スカイツリーって高いんですねぇ。
やや:・・・いや、「矢滝城って高い」って言って欲しかったんですけど・・・。
- 2014/03/22(土) 06:58:12|
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一昨日はぽかぽか陽気。昨日は冷たい雨。今日は・・・雪が混じるかもしれない山陰地方です。

画像は、一昨日(3月19日)の石見銀山清水谷製錬所跡の梅です。平野部はもちろん、石見銀山でも町並みから銀山公園辺りは、満開から散り始めていますが、標高の高い谷間で、日照の短い清水谷では、まだ8分咲きと言った所です。
清水谷製錬所跡は、石見銀山最末期の明治28(1895)年に、藤田組が莫大な費用を投じて建設した製錬施設の残骸です(←お松:また、そう言う事を・・・)。当時としては最新最強の施設でしたが、思ったほどの品位のある鉱石を得られず、わずか1年半で放棄されたのだそうです。現在では、8段に組まれた石積みの基礎部分だけが、当時の様子を伝えています。
お松:なんだか、強者どもが夢の跡ですね。
やや:ドイツから導入されたこの技術は、石見銀山では失敗しましたが、秋田の小坂鉱山では一応の成功を見ましたし、その延長に都市鉱山のリサイクル技術が繋がっているのだそうですよ。
お松:都市鉱山?
やや:捨てられた携帯電話やパソコンからレアメタルを取り出して再利用する技術です。要するに、様々なものが混じる鉱石からある金属だけをだけを取り出す技術がそれなんです。
お松:へ~ぇ。ところで、最近、同じようなタイトルで引っ張る傾向が顕著ですが、なんか疲れてません?
やや:う~ん。なんか、思いつかなくって。
お松:では、次回はがんばってください。
やや:・・・。
- 2014/03/21(金) 07:05:55|
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2~3日毎に暖かくなったり、寒くなったりを繰り返している山陰地方です。今日、明日は暖かそうですが、週明けからは・・・。そう言えば、先日はウグイスの初鳴きを耳にしました。まだ、へったくそでしたが、それもまた良い感じです。
画像は、石見銀山豊栄神社、随神門の壊れた門扉とちょっと傾いた拝殿です。

豊栄神社は、石見銀山の銀山町にあります。明治維新までは長安寺というお寺だったのですが、毛利元就の木象が置かれていたことから、神社に改装されたものです。そのため、本殿も土蔵造りの少し変わった建物になっています。
明治に改装された建物は、近年になるとさすがに傷みも著しく・・・。
お松:この門扉とか、わずかに傾いた拝殿とか・・・。
やや:いい味出してますよね。
お松:そうじゃないでしょ。
- 2014/03/15(土) 09:01:46|
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先日は吹雪。昨日からは穏やかな、でも肌寒い出雲です。
PM2.5も気にはなりますが、どこに出かけたくなる季節ではあります。

画像は・・・
何にも無いので、石見銀山の駒ノ足の民家です。駒ノ足は大森の町並み保存地区の中心近くです。駒ノ足という地名は、荷物を積んだ駒のお足、つまり、運搬用牛馬の税を徴収した場所が始まりだとも伝えられています。
お松:だから、荷車が置かれているんですね。
やや:・・・たぶん、違うと思います。
- 2014/03/09(日) 07:39:19|
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お松:タイトルがむちゃくちゃですが、前回の続きで、廃仏毀釈のお話でしたっけ?
やや:廃仏毀釈の話っつ~か、神仏判然令の話です。(←お松:同じでしょ?)同じような話っぽいですが、違います。そのあたりがミソなんで・・・。そもそも、神仏分離令とか神仏判然令とかって言うのは、後の明治政府となる新政府が慶応4年から明治初年頃に出した一連の太政官布告などのことで、神道と仏教を分ける事を通達したものです。ところが、それが廃仏毀釈運動・・・お寺や仏像の破壊活動にまで繋がったこともありました。
時代は江戸から明治へ移ろうとする慶応4年に新政府が出した神仏判然令は、廃仏毀釈運動を引き起こし、各方面・・・特に地方のお寺には壊滅的な被害を及ぼした場合もあります。中でも特に抱擁性の高かった天台宗の寺院では、本地垂跡思想(ほんちすいじゃくしそう:神道の神々を仏教の仏とそもそもは同一のものすると言うよう考え方、ex:スサノウ=蔵王権現とか)により、神道的神々=権現を多く取り入れ、神道的な施設も少なくなかったからです。
神仏判然令が出された時、鰐淵寺では、鎮守である摩多羅神が本地垂跡思想によりスサノオやオオクニヌシと同一視されていたこともあり、鰐淵寺の境内自体が神地であり、僧侶を放逐し仏堂を廃して寺領を出雲大社へ返納すべき、と言う主張まで聞こえてきたのだそうです。
摩多羅神は天台寺院の常行堂において阿弥陀の背後に祀られる神です。非常に霊威が強いとされ、後には芸能の神としても崇敬を集めます。全国各地の摩多羅神像の多くは秘神となっており、公開されることはめったにありません。近年、安来市の清水寺で鎌倉時代の
摩多羅神像が発見されましたね。鰐淵寺の場合は摩多羅神社となっており、神像があるかどうかは判りません。

で、鰐淵寺では、摩多羅神は仏教発祥の地であるインドの天台仏法擁護の神であって、日本神道の神とは無関係であると主張し、寺院消滅の危機を、なんとか回避したのだそうです。(←お松:つまり、仏教と同じインドの神なので、仏教の仲間!っと主張した訳ですね。)

神仏判然令は、全国各地で廃仏毀釈を引き起こし、県内でも隠岐諸島などでは仏教寺院に大きな被害があったようです。鰐淵寺で「摩多羅神はインドの神」という主張がなければ、現在の鰐淵寺とは違ったものになっていたかもしれません。神仏判然令を出した後、新政府は廃仏毀釈を意図していないことを通達し、廃仏毀釈運動は徐々に沈静化していきました。

ところで鰐淵寺では、当時の「知事等が摩多羅神社を調査しようと鰐淵寺に向かったところ、四方の山より石塊が落下し、すこぶる危険であったために引き返した。一畑寺の調査でも同様に失敗したため仏教排撃を断念した」と言う話が残されているそうです。
お松:どっひゃ~!ま・摩多羅神のたたりじゃないですか?
やや:だっはっは・・・。
さて、摩多羅神社は、常行堂と連結された建物になっています。前方に見える建物が常行堂ですね。2つの別の建物みたいに書かれたものもありますが、そもそも摩多羅神像は天台寺院の常行堂に置かれる神像ですので、常行堂と摩多羅神社は一体のものです。
お松:なにを言ってるんですか?摩多羅神が引き起こした落石じゃないんですか?
やや:・・・はいはい。確かに、摩多羅神は得体の知れない感じはありますがね。
お松:でも、天台擁護の鎮守って言ったじゃないですか?霊威が強いって!その摩多羅神が、お寺を守るために・・・
やや:おもしろい話ですねぇ。さて、そう言った訳で、神社と言う名の建物ですが、当然、鳥居も無く、神社っぽくもあり、神社っぽくはなし・・・なんだか不思議な建物ではあります。
お松:たたりの件は、全否定ですか?だいたい、この手の話はややさんとしては、基本、全否定ですねよ。おもしろくないって言うか、夢が無いって言うか?
やや:え~。全否定です。却下です。それがどうした?
お松:ぶぅ~。
- 2014/03/02(日) 18:15:15|
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今週になって出雲地方はずいぶん春めいてきて、PM2.5も飛び交っていますが、先週の・・・まだ残雪の残る鰐淵寺の続きです。(←お松:なんか、2とか言っているくせに、タイトルが微妙に違ってますが?)

鰐淵寺は、島根半島の西の方の山塊の真ん中あたりに位置しています。島根半島の西の山塊は、『出雲国風土記』の「国引き神話」では新羅の国の余りとされる場所です。・・・が、この国引き神話は、中世には違う神話に転換されたこともあるそうです。
それは、「釈迦が初めて法華経を説いて仏教が始まったとされる霊鷲山(りょうじゅせん)の艮(うしとら)の一角が欠け、漂っていたものを、スサノオが引き寄せて浮浪山(島根半島)を造り、自ら出雲大社を造って鎮まった」と言うものです。
鰐淵寺の山号はまさにその「浮浪山」。「鰐淵寺縁起」には蔵王権現が引き寄せて浮浪山を造ったとされる話が記されています。鰐淵寺は出雲大社とは山一つ隔てた位置にあり、その間を地元で「天平古道」と呼ばれる古道が通じています。
中世には、出雲大社の祭神がオオナモチ(=オオクニヌシ)からスサノオに転換しており、スサノオを祭神とする出雲大社が、スサノオを蔵王権現と同一視している、出雲での蔵王信仰の拠点である鰐淵寺との結びつきを強めたようです。神仏習合の時代で、鰐淵寺には権現が多く祀られ、塔を始め、仏殿も多く建つ出雲大社では大般若経が転読され、そうした出雲大社での仏事を鰐淵寺が担っていたようです。

ところが、近世に入ると、出雲大社では祭神を再びオオクニヌシに改め、社殿の改築の際に仏教色の強い堂宇が撤廃され、神仏分離が進みます。そのため、次第に鰐淵寺との関係は薄れていくようです。
慶応4年、明治政府は「神仏判然令」を出し、これによって、一部地域では熾烈な「廃仏毀釈」が行われ、多くの堂宇や仏像が失われる事になるのですが、鰐淵寺でも大変な衝撃を受けたのだそうです。
え~、長くなりましたんで、この話は後日に続く・・・。
お松:うっそぉ~!今日は終わりですか?
やや:す、すんません。鰐淵寺はエピソードが多すぎて、まさに波瀾万丈なんです。説明するのが大変で・・・。
お松:ま、いいや。ところで、なんと、もう一つの国引き神話?
やや:中世という時代は、なんか全然違う事を突然言い出して、突然やめちゃう不思議な時代のようです。
この神話のベースはお寺の「縁起」です。お寺の「縁起」と言うのは、当然ながら歴史的事実ではなく、お寺の造立者等の、お寺を建てるにあたっての思いの反映なのだと思うのです。
お松:単に奇想天外な空想だけではないのだと?
さて、
続くって事で、次回は「廃仏毀釈」ですか?明治の話ですよね。ややさんがあんまり得意じゃない近代史の話ですね。
やや:得意じゃないとか言うな!
(・・・ま、得意ではないですが。)
- 2014/03/01(土) 08:31:21|
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