今朝は一面の銀世界。昨日は職場の仕事納め・・・なのに、某所へHelp出動中。降りしきる雪の中、ようやく帰り着いた職場で残務を片付けていると・・・
「今年も1年、大変お世話になりました。」
「では、お先に。良いお年を。」
職場のあちこちでそうした挨拶が交わされる中・・・私の周辺だけが、ただの金曜日でした・・・。
画像は・・・近頃、まったく無いので、一昨年の石見銀山大森の町並みです。真冬の石見銀山は静かです。
大永六(1526)年に石見銀山が発見されて、シルバーラッシュに沸くのは、実は100年ほど。江戸時代初頭には銀はほとんど枯渇し、幕末の慶応二(1866)年には、年産わずか45kg。石見銀山が世界史に轟いたのは、一瞬の輝きでしかありませんでした(だからこそ重要なのですが・・・)。
シーズンには、多くの観光客が押し寄せる大森の町並みは、実は石見銀山盛期とは関係がありません。現在の町並みは、町の1/3が類焼したとされる寛政十二(1800)年の大森大火以後の建物が大半で、特に2階建ての建物は近代に入ってからの建築です。それでも多くの観光客が、なぜか銀山盛期を勝手に想像し、古い町並みを楽しんでいます。古いと言ってもたかだか100年前ですが。
お松:シーズンオフの、この時期の大森は静かですよね。
やや:すてきな町並みを独り占めって感じで・・・
お松:静かすぎて、あちこちのお店がお休みなんですよね。
やや:う・・・。
お松:さて、もしかして、今年の更新はこれが最後でしょうか?
やや:げ・・・。
お松:では、今年1年、大変ありがとうございました。来る年もよろしくお願いいたしま~す。ほら、ややさんも!
やや:・・・します。
- 2013/12/28(土) 10:17:07|
- ネタ切れにつき在庫処分
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今日の画像は、石見銀山の銀山町にある豊栄神社です。元は長安寺というお寺だったのですが、慶応二(1866)年に進駐した長州軍との関わりもあり、神社に改装されます。
お松:明治維新前後のごたごたの話ですね。あ、そうか。石見銀山は天領だったので、長州が攻めてくるんですね。
やや:ええ。でも天領なので、大森代官所にはわずかな兵力しか無く、さっさと笠岡へ避難してます。長州軍は石見銀山へはほとんど無抵抗で進駐してくるわけです。
お松:で、それで、なんでお寺が神社になっちゃうんですか?
やや:実はこのお寺には、毛利元就の木像が置かれていたんです。長州藩の藩祖である毛利元就です。永禄五(1562)年、石見銀山を手中に収めた毛利元就は、自らの木像を石見銀山支配の中心である山吹城に置いたのだそうです。それを毛利輝元が山麓の長安寺に移し、それが幕末まで残っていたんです。残っていたとは言え、ずいぶん荒廃していたようで、長州軍は驚いたんでしょうねぇ。それに加え、長安寺からの要望もあって、改装して豊栄神社となったようです。
お松:お寺の住職が、神主になりたいって言い出したんですか?
やや:そう言う資料があるようですね。
お松:へ~ぇ。ところで、随神門の前に、見慣れないものが・・・。
やや:用水桶です。石見地方では、他に益田市に2例あるそうですが、出雲地方には全くないですね。でも、山口へ行くと多くの神社で一般的に見られますよ。
お松:と、言うことは、これは長州軍が?下に「中隊力勇」って書いてありますけど?
やや:反対です。右から読むんです。
お松:あ、そうか。水用ではなく、「用水」ですね。下のは「勇力隊中」?
やや:そうです。勇力隊は、力士による部隊だそうです。この豊栄神社にはたくさんの石造物がありますが、多くは勇力隊を始めとする長州軍によって寄進されたものだそうです。山口風のものがいろいろ持ち込まれているんでしょうね。
お松:それで、どことなく雰囲気が違うんですね。ところで石造物もそうですが、社殿もずいぶん傷んできているようで・・・。
やや:もう一度、長州軍に来てもらった方が良いですね。
お松:できるだけ早くお願いします。
おまけ、
もう1個。別の日の画像です。
- 2013/12/21(土) 09:38:09|
- 石見銀山で散歩
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やや:明日からの仕事は、なんだか、いろいろと無い!
お松:予算とか時間とかが無いのは、今に始まったことでもなく・・・。
やや:現地へ近づく道が無い!駐車場がない!もちろん公共交通機関はない!しかもトイレがない!
お松:ひょえ~!そんなんで仕事ができるんですか?
やや:できるか、できないかが問題ではない。やらねばならないのだ~!
お松:なんだか、悲壮な覚悟のようですが、まぁ、がんばって下さいませ。
やや:・・・他人事だよなぁ・・・。
無いと言えば、今日の画像は雲南市三刀屋町の飯石神社です。いろいろ無いのですが・・・。
お松:知ってますよ!本殿が無いんですよね。本殿の代わりに岩があるんですよね。
やや:本殿の代わりに岩という神社は、ここ以外にもいくつかあるのですけど、飯石神社は他にもいろいろ無い。何だか、不思議なこの光景・・・判りませんか?
お松:何でしょう?確かに何かが無い気がしますが・・・。
やや:この神社、注連縄が無いんです。随神門が無いし、摂社、末社が無い。灯籠が無くって、狛犬だっていない。
お松:あ!ホントだ!いろいろ無いんですね。
やや:伊毘志都弊命(いいしつべのみこと)が天下ったとされる磐石を、本殿として、二重の玉垣で囲んでいます。説明版によると、伊毘志都弊命が降臨した聖地なので注連縄を用いない、とされていますが、社殿を用いなかった頃の、古い社の形を今に伝えていると言うことなのでしょう。
お松:ややさんの明日からの仕事も、交通機関を用いなかった頃の仕事を今に伝えようとしているのでしょうか?
やや:そんなはずないし!そんなんどうでも良いし!でも、片付けなければ正月がやってこな~い!
お松:まぁ、がんばって下さいませ。
やや:他人事だよなぁ・・・。
- 2013/12/15(日) 18:35:45|
- プチ巨石ブーム
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石見銀山の盛衰を今日に伝える『銀山旧記』によると、大永六(1526)年、博多の商人神谷寿亭は日本海を行く船上から光り輝く山を見て、石見銀山を発見したと記されています。石見銀山の福石鉱床はとても不思議な鉱床なので、大量の自然銀の露頭があった可能性も無くはないですが、だからと言って、銀程度の反射光が海上の船から見えるはずもなく・・・まぁ、その話はともかく、博多の商人神谷寿亭は、何で日本海を航行していたのかと言うと、出雲国の鷺浦の銅山に、銅の買い付けに向かっていたことになっています。
お松:石見銀山よりも前に、銅の鉱山があったのですか?それも出雲に?
やや:実は、出雲に限らず、石見銀山以前は、銅鉱石は日本からの主要な輸出品の一つでした。でも、銅鉱石を輸出して、それで銅銭を輸入したりしていて・・・つまり、日本に銅の製錬技術が無かったって事ですよね。15~16世紀初頭の状況って、おもしろいですね。で、その鷺銅山の坑道の一つが、こんな所に開いています。道のすぐ脇に開口していて、縦坑もあり、こりゃ危ないな。
お松:こんな所って言われたって、どこか判らないじゃないですか?え~っと、ここは、出雲大社の真裏の山を越えて、曲がりくねった山道を登って・・・下りきった辺りですね。出雲大社からは車で10分ほどでしょうか?ウサギ?って言うところです。ほんの道路際にあるんですね。
やや:ウサギは、鵜峠(うど)と鷺浦が一緒になって鵜鷺(うさぎ)です。それもおもしろいですね。道ばたに開口している坑道は、操業最後・・・近世から近代頃のものでしょう。大永年間に操業していたのは、おそらくもっと山の上の・・・今ではよく判りませんが・・・。
お松:ちょっとした道ばたとかに、意外な歴史の証拠が転がっているのも出雲っぽいですね。
やや:これ自体は後の時代のものですが、ここから引っ張り出される歴史は、石見銀山に博多商人、明への銅輸出・・・って何だかすんげ~グローバルです。グローバルな話は出雲っぽく無いかも?
お松:そんなのが、道ばたに転がってていいんですか?
やや:やっぱり出雲っぽいかも・・・。
- 2013/12/13(金) 20:13:07|
- お松との会話
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ついこの間まで、熱中症で倒れるかと思うくらいの日が続いていたのに、先程からは、冷たい雨が降り始めています。すっかり冬ですね。ヒートテックにモコモコの防寒着を重ね着して仕事に励んでおります。
・・・何か、忘れているような・・・確か、去年までは、真夏と真冬の間に何か別の季節があったような・・・。
そう言えば、
去年の今頃はと言うと、確か雪舟のお庭を求めて、山口市内を徘徊しておりましたっけ。伝雪舟作庭と言われる常栄寺庭園を眺め、雪舟関係の本をいろいろと読んで・・・。おそらく、雪舟は作庭はしていないんだろうな、と言う展望は掴めましたが、じゃあ、なぜ多くのお庭が雪舟作と言われるようになったのか・・・。雪舟の生涯を追っかけていくと、これがいろいろとおもしろい!で、当然のように雪舟の絵を・・・雪舟の絵から狩野派へ・・・ってな訳で、美術史の本とかまで読み始めて、気がつくと岩佐又兵衛あたりに来て、遭難したことにやっと気づきました・・・こ、ここはどこ?
なぜか、毎年この時期は非常に忙しく、また天気も悪いことから、ほとんど出歩いておりません。なので、画像は、去年の常栄寺(山口市)の小さな手水です。
- 2013/12/07(土) 15:57:21|
- 雪舟が見つからなくって
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