益田にあるもう一つの伝雪舟庭園。万福寺です。医光寺とは異なり、広々とした平庭に、大きな池と低い築山。ごつごつした岩を置いた須弥山などからなるお庭です。
万福寺は、平安期に創建された天台宗安福寺が前身とされています。その安福寺は、万寿三(1026)年の地震に伴う大津波で流出しました。その後、時宗の道場、万福寺として再建され、益田氏の庇護を得て発展し、現在に至っています。
お庭だけでなく、本堂も室町時代の建築を残した建物で、豪壮な室町建築の雰囲気を現代に伝えています。
万福寺は、幕末・・・慶応二(1866)年には第2次長州征伐の益田口の戦いの戦場となり、幕府軍の陣営に使用されたため、兵火によって総門が焼け落ちるなど、様々な歴史を伝えている点も重要です。
お松:で、やっぱり雨の中です。
やや:雲に覆われた空を背景に撮ると、空のぼんやりした反射で・・・このレンズじゃダメだなぁ。で、モノクロ加工でごまかしてます。
お松:雪舟さんの水墨画の世界を目指しているかのかと思いましたよ。ほど遠いけど。
やや:・・・雪舟の絵は・・・、けっこうカラーです。
- 2017/10/29(日) 10:16:20|
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島根県の西の端、山口に近い益田市には室町時代に活躍した画聖雪舟が作庭したとされるお庭2件が残されています。一つは、万福寺庭園。もう一つがこの医光寺庭園です。
雪舟は、国宝に指定された作品が最多という方でして、日本画の基礎を築いた方です。山口の大大名である大内氏をスポンサーに、近頃なぜかベストセラーにもなっている応仁の乱のさなかに明に渡り、帰国後は、数々の名作を送り出した方ですが、なぜか、お庭を多く作庭したとされていて、西日本各地に50件ほど、伝雪舟庭園が残されています。
さて、医光寺は、室町時代には崇観寺と言う寺の塔頭の一つでした。本堂の背後に斜面を利用したお庭があり、右手には枝垂れ桜の巨木。中央の池には亀島。左手には鶴石と枯れ滝が配されているのですが、この日は大雨、枯れ滝だけでなく、その両側にも滝が流れ落ちてます。
お松:どわぁ~!お庭ネタって何年ぶり?そう言えば、お庭ブログでしたっけ?(←やや:やかましい!)しかも雨の中?わざわざ益田まで行ったんですか?
やや:実は、仕事で益田に行く用事があって、一瞬の隙をついて・・・。
お松:一瞬の隙にお庭巡りしたんですか?しかも雨の中?
やや:仕事で行ったんだから天気は選べないの!
お松:雪舟の話も久しぶりですねぇ。ややさん的には、雪舟は作庭はしてないんじゃないか?てな立場でしたよね。
やや:伝雪舟庭園の多くは、雪舟とは無関係だと思いますが、雪舟が活躍した室町期に作られ、共通の特徴を持つお庭が数件あるのは事実です。で、そんなお庭が、どうやってできたんでしょうねぇって、考えても結論は出ないので・・・。
お松:てなことを、大雨の中で考えてたんですね。
やや:・・・。ま、他に人がいなくって、一人静かに鑑賞できた点は快適でしたが、大雨で、滝はバンバン流れるし、池はオーバーフロー!ま、変わった一面を見ることができましたわ。
- 2017/10/15(日) 17:15:01|
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室町時代に活躍した画聖、雪舟の代表作の一つと言えば国宝『天橋立図』です。
お松:せ・雪舟?!だ・誰ですかぁ?い・いったい何の事ですかぁ?
やや:リアクション芸人か?・・・とは言っても、「雪舟を探して」カテゴリの最終更新は・・・。
お松:え~っと・・・2015年3月ですね。つまり、2年以上放置してた?
そう言えばこのブログ、西日本各地にある伝雪舟作のお庭は、はたして雪舟が作庭したのか?みたいなテーマだった事もあったような・・・。
やや:・・・。ま、それは、そういうことで、え~と。
室町時代に活躍した画聖、雪舟の代表作の一つと言えば国宝『天橋立図』です(←お松:デジャブ?)。日本三景天橋立と阿蘇海、宮津の町を俯瞰した絵ですが、実は、なんと、下絵。完成作品は伝わっておらず、作品直前段階の下絵にもかかわらず国宝!と言う代物です。
絵そのものは、「雪舟」「天橋立図」とかで検索していただくと京都国立博物館のページで見ることができます。以前からぜひ現地を見たいと思っていましたので、竹生島の帰りに、ちょっくら寄ってきました。
お松:お~。天橋立ですな。股覗きとかするところですよね。
やや:皆さんやってらっしゃいましたよ。
お松:興味なさそうですね。
やや:雪舟の『天橋立図』は、天橋立を真正面から見た構図になってます。なので、もっと右手の方から見たいのですが・・・。と言う訳で、車を走らせると、「雪舟観展望所」なる所がありまして、そこに上がってみると。
お松:よく見えませんねぇ。
やや:夕方だったというのもありますが、雪舟の『天橋立図』にはほど遠い構図ですね。
お松:何が違うんでしょう?
やや:この上空に、ドローンでも飛ばせば、雪舟の構図に近づけるかもしれませんね。
お松:そうか、雪舟は、高~い所から見て書いたんですね。と言うことは、雪舟はドローンを使って?
やや:んなはずねーだろ(←お松:でっかい凧に乗ったとか?←やや:それは名古屋城の柿木金助とか石川五右衛門とか・・・)。
つまり、雪舟が描いたのは、写生ではなかったと言う事です。
お松:何のことだか、余計にわかりませんが・・・。
やや:雪舟を現代的な感覚で芸術家だと思うと理解できないのですが、筆も絵の具も高価だった室町時代。絵を描くにはスポンサーが必要です。雪舟の場合は、山口の大大名大内氏です。応仁の乱を経て戦国時代に突き進む15世紀です。なので、仏画は臨済宗のお寺のために、肖像画や花鳥画は、大内氏にとって利害関係のある人たちへの贈答品として、そして風景画は、重要な場所の地図の役割も持っていたと考えられます。写真のない時代。詳細な風景画は各地の様子を大内家に伝える、現代で言えば偵察衛星の代わりですね。なので、『天橋立図』も、ただの写生ではなく、地域全体を俯瞰し、お寺などの重要施設が名前付きで描かれています。
お松:なるほど~。で、この構図は、雪舟に近いんじゃないですか?
やや:ホテルの窓から撮りましたが、もっと高さが欲しいですね。
お松:雪舟は、どうやって描いたのでしょうか?
やや:おそらく、全体の構図は、写生的に、それぞれの建物は、それぞれの建物の近くで描いて、合成したのではないでしょうか?「天橋立図」は、相当研究されていて、かなり高齢になってからの絵なのだそうです。
お松:雪舟は、高齢になってからも、パワフルに活動していたのですね。
やや:働かされていたとも言えますけどね。
- 2017/05/14(日) 11:58:13|
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お松:こにゃにゃちわ~!って、この挨拶から始めるのも久しぶりですねぇ(←やや:それがどうした?)。
さて、
なぜか、久しぶりに雪舟のお庭探しを復活させる件について、も少し確認おば。
雪舟が日本画の祖と言われ、多くの国宝絵画などを残した方だというのは間違いないんですね(←やや:へい、そのとおりでやんす)。で、その雪舟が作ったと言われるお庭って、何件ぐらいあるんですか?
やや:ざっと40~50ヶ所。京都・広島・山口・福岡・大分そして島根の1府5県にあります。で、「こりゃ確かに雪舟作庭説もあり得るわ」っちゅうお庭から、「そりゃありえんだろ!ない、100パーない!」っつ~お庭まで様々です。
お松:それにしても40~50って、尋常な数じゃないですよね?そんだけあるんなら、少しぐらいは雪舟がってことは?
やや:ふ・ふ・ふ(←お松:ナゾの不敵な笑い?)。そもそも雪舟って、画僧としては有名ですが、雪舟自身は大寺院のトップに立った人ではありません。大名とかでもなく、しかも主に活躍した場所は、都から遠く離れた豊後府内(大分)や周防山口です。なのに、雪舟の生涯は割と詳しくわかっています。
お松:それは、雪舟の生涯を記録した人がいたって事ですか?
やや:そうです。いっしょに明へ渡った呆夫良心(ほうふりょうしん)や了庵桂悟(りょうあんけいご)といった禅僧が雪舟の様子を詳しく記しています。特に大親友の了庵桂悟は、今、知られている雪舟のエピソードのほとんどを記しているのですが、それは、雪舟自身が了庵桂悟に語ったからなんです。
お松:自分で語っているのであれば、それは間違いないですよねぇ。
やや:でも、当然ですが、自分に都合の悪いことは、一言も語っていないようですね(←お松:ありゃ?)。なので、鳴かず飛ばずの京都修行時代の事は、ほとんどわかりません。
雪舟は1420年、備中(岡山)生まれです。若いうちは京都の相国寺や東福寺で修行するのですが・・・その後、西国の大大名大内氏を頼って周防(山口)へ移ります。そこで大内氏の遣明船に滑り込み、明へ渡ると、そこで突然未来が開けるというシンデレラストーリー・・・シンデレラって言っても、この時すでに48才のおっさんですが・・・。
お松:そこからが画聖雪舟と言うことですか?
やや:そうです。明で大暴れ(と言っても絵のことですが)し、応仁の乱真っ盛りの日本に帰国して、まずは大分で、その後は山口を拠点に絵を描きまくってます。で、多くの傑作を世に送り出し、16世紀初め頃に、そのデンジャラスでワンダーな人生を終えていると言う・・・。
お松:わかっているんなら、それで解決じゃないですか?
やや:いや、呆布良心や了庵桂悟が記したものには、雪舟がお庭を作ったとは、まったく記されていないんです。
お松:ん?つまり・・・。
やや:そう。つまり、わからないんです。
お松:・・・。でも、伝雪舟作庭園は40~50ヶ所もあると・・・。いかにも、ややさんが好きそうな気がしてきました。
やや:どう言う意味か?
画像は、山口市吉敷にある凌雲寺跡です。このお寺の遺跡は、知られている雪舟の生涯のほとんどを紹介した、雪舟の大親友である了庵桂悟が永正4年(1507年)頃に開山したとされています。了庵桂悟はこの年に、雪舟の死を悼み懐かしんだ詩を雪舟の山水図に記しています。
今は、その石垣だけが残されています。
- 2015/03/01(日) 19:10:24|
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お松:お仕事の方は一段落したんだと思ってましたが、また、ずいぶん更新が滞っているようで?
やや:じ・実は、久しぶりに雪舟にはまってしまって、いろいろ資料を読みあさってます。で、これがまた、か・漢字が読めない・・・(←お松:漢字のせいですか?)。
お松:雪舟?って、なんだかずいぶん前にしていた話ですよね。すっかり忘れちゃいましたよぉ。確か、室町時代頃のお坊さん?日本画の人?
やや:15世紀後半に活躍した臨済宗の画僧なんですが、一般的には「日本画の祖」とか「画聖」と呼ばれている方です。現存するその作品のほとんどが重文や国宝になっていて、もしかすると、個人としては最も多くの国宝を製作した方じゃないかと思ってます。
で、その雪舟作と言われるお庭が西日本各地にあるのですが・・・。
お松:それに難癖をつけていると?
やや:だ・は・は・・・。まぁ、実際に、雪舟が作ったという確実な証拠のあるお庭はまったく無いわけで、そのあたりを・・・。
お松:おもしろがってちょっかい出していると?
やや:・・・まぁ、そうです。雪舟や雪舟の絵の研究は山ほどあって、伝雪舟庭園についても、お庭としての研究であれば、色々あるのですが・・・。
雪舟がお庭を作ったかどうかについての研究は、非常に少ないんです。雪舟庭をウリにしている観光地も多いので、やりにくいのかもしれませんが・・・。とにかくこれは、おもしろい。
お松:なので、当分は「ブログそっちのけ」と言うことでしょうか?
やや:う?いや、そっちは細々とは続けていきますので・・・。
画像は、伝雪舟庭園の代表である、山口市の常栄寺庭園(季節外れでゴメン)です。ごつごつとした岩を上向きに立てているところなんぞが、雪舟の絵に通じるのだそうですが・・・。
- 2015/02/28(土) 11:39:13|
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