原鹿の江角家は、戦前までは県内有数の大地主。江戸中期に平田灘分から分家し斐川原鹿に移り住みますが、水害の影響で明治30年代初め頃に現在地・・・原鹿に移動したとされています。つまり、ここのお庭は明治30年代に原形が作られたと言うことが判ります。お庭は書院の南から西側に展開し、西側は斐川平野に特徴的な築地松(屋敷林の一種)によって世間から隔絶されます。
いわゆる出雲流庭園とは(実はよく判らないのですが)、要するに近代の豪農庭園(と、それに影響を受けた商家の庭園)で、書院の南から西側に広い白砂の敷砂とその真ん中に巨大な短冊石や石臼を置いた、出雲地方に特徴的な庭園のことと理解しています。
幕末の松江藩は商品作物栽培を奨励し、それによって現金収入を得た農家は、小作制による大土地所有の豪農に成長して行きます。豪農は、財力はあるのに藩によって贅沢禁止が徹底され、それが解き放たれたのが近代と言うことになるのでしょう。私の大好きな左桟瓦が宍道湖周縁部に大量に供給され、斐川平野の屋敷林は、その機能とは関係のない装飾的な刈り込みが始まり、築地松へと成長して行き、そして、このいわゆる出雲流庭園が作られていくようです。
豪農屋敷です。・・・何部屋あるんだ?その向こうが、いわゆる出雲流庭園。白砂の部分が広いので、照り返しで部屋も明るくなります。
現在では電気があるので、たいした問題ではありませんが、電気が来る以前には合理的!
立手水や沓脱石も1面に2つずつ・・・しかも1方を自然石で置くと、もう1方は切石にするお約束。
出雲地方が豊かだった頃の証拠です。・・・神話と神社だけじゃないぞ出雲。
- 2013/07/07(日) 18:05:27|
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お庭にはまり始めた当初のテーマが「いわゆる出雲流庭園」でした。その出雲地方に特徴的な庭園には、大名茶人として有名な“不昧公”こと松平治郷にどれほど関係があるか?を考えてきました(で、ほとんど関係ないと言う結論です)。
その不昧公(と言うか松江藩)が、確実に関わったお庭がこの櫻井家庭園でして、そこにはこんなすてきな延段があります。
不昧公の延段と言うと、今は非公開になってしまった茶室菅田庵にある、両袖を竹で区切った霰こぼしの延段がよく知られていますが、個人的にはこっちの方がより不昧公チック(松江藩チック)だと信じています。で、どの辺が?と言うと、このなんだか実験的な感じが岡山の頼久寺の延段を思い起こさせるからです。
高梁市の頼久寺のお庭は小堀遠州の作庭と言われ、西洋的な刈り込みで有名ですが、ここにあるのがこの実験的な延段?
雨落ちの中に飛石を配して延段風にした何か?ここを通ってどこかに行ける訳でもなく・・・。二条城二ノ丸庭園や桂離宮なんかよりも、こう言うものの方がむしろ小堀遠州らしい気がするのですが・・・。その小堀遠州フェチが不昧公でして、小堀遠州の隠居所(?)である、京都大徳寺の孤篷庵忘筌の再建に尽力したりしてます。
だから、この延段が小堀遠州の影響だ!っていうのは、「友達の親戚に芸能人がいる」見たいな話で恐縮ですが、それでも、どこかに小堀遠州を感じてしまうのでした。
お松:げ!びっくり!おどろきです~。なんとまだ、このカテゴリは続いていたんですね?
やや:う?驚いたのはそっちか?櫻井家庭園と小堀遠州の関係じゃないのか?
お松:そっちはよく分かりませんが、カテゴリの方は1年ぶりぐらいですか?ほぼ終わったと思ってました。
やや:実は、私もそう思ってましたが、以前から気になってたこの延べ段の話をしたくなってですねぇ・・・。
お松:それで、小堀遠州なんて?
やや:小堀遠州が何か?
お松:よく知らないんですけど、友達の親戚の知り合いか何かですか?
やや:・・・。
- 2013/04/19(金) 20:20:10|
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藤間亨『格式と伝統 出雲の御本陣』出雲市民文庫19には、本陣宿を勤めた9軒の商家や鉄山師の邸宅が紹介されています。この本は、本陣宿がお殿様をお迎えするのに大変な調度品などを準備していた事を紹介した本ですが、お殿様を迎えるための「御成門」から前庭、御成書院の様子も記されていることから、庭フェチにもたまらない感じです。
出雲市の山田家庭園では、巨大な手水鉢が景石として置かれていることが紹介されています。この手水鉢は、大きく丸い自然石を使ったもので、木幡家の片袖の手水とは印象が違いますが、巨大な手水を景石として据えると言う点では共通点があるかもしれません。
巨大な手水を景石として使う手法は、旧本陣記念館(木佐家)庭園でも、陰陽石の反対側に(目立ちませんが)見られますし、峰寺庭園はまさに手水鉢を主景に置いたお庭になっています。
木幡家庭園の片袖の手水は松江藩家老大橋家との関係から明治初めの整備と言うことが判っていますが、峰寺庭園の手水は江戸後期には据えられていた可能性があります。もちろん寺院庭園は商家のお庭とは違うでしょうが、もしかするとそうした寺院庭園のデザインが商家のお庭に影響を与えたかもしれません。
同様に気になるのが「陰陽石」です。木佐家の他に、大社の藤間家でも中庭の主景石に使用されている様子が前出の本に紹介されています。武家ほどシビアにお世継ぎで騒いではいないと思いますので、シビアな願いと言うよりは、少し変わったデザインをおもしろがったのではないでしょうか?こうした現象も明治から大正の自由な雰囲気を繁栄しているようで興味深いですね。
写真は、峰寺庭園。出雲らしからぬ巨大でごつごつした飛石が続き、その先にはやはりごつごつした石材を使用した手水。
残念ながら、峰寺庭園は石がほとんど残されておらず、花壇の跡など改変が著しいのですが、らしくない感じだったことはよくわかるお庭です。
- 2012/06/09(土) 19:02:50|
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商家や農家で御本陣を勤めた所は、現在も続いて住んでいらっしゃる家も多いので、公開されている御本陣はそう多くはありません。木佐家の旧本陣記念館は移築なので・・・櫻井家や絲原家と言った鉄山師の他には、え~っと・・・松江市宍道町の八雲本陣、つまり木幡家庭園があります。八雲本陣は近年まで旅館を営まれていたこともあり、それなりの改造は受けていますが、江戸時代の御成庭園と現在見ることのできる庭園の関係を判りやすく伝えている可能性があります。
八雲本陣では御成門の他に明治40(1907)年に皇太子(後の大正天皇)行啓に際して造られた「行啓門」を備えています。外から見ると2種類の門が並んでいます。前庭から見ると、御成門の方から続く市松模様の飛石がすてきです。現状では、行啓門の内側に園路が続いていませんので、明治40年以降に園路を御成門側に戻したと思われます。市松模様は、明治・大正期のハイカラなデザインを感じますよねぇ。
さて、八雲本陣には、皇太子をお迎えした明治40年の飛雲閣の写真が(当然!)残されています。それを見ると、自然石と切石の沓脱石が並ぶ様子や、高く小振りな飛石、(やや小型で斜めに置かれてはいますが)切石の短冊石など、いわゆる出雲流庭園の要素がふんだんに記録されています。
一方、八雲本陣と言えば、宝筐印塔の笠を使った見立てものの手水や、不昧公垂涎の「片袖の手水」が有名ですよね。この内「片袖の手水」は藤間亨先生の『格式と伝統 出雲の御本陣』によれば、明治維新を経て東京へ移り住む松江藩家老の大橋家から譲り受けたものとされています。同様に大橋家から譲り受けた伝利休茶室(!)は、明治5年に木幡家に建てられましたが、明治40年の皇太子の行啓に際して解かれ、保管されていました。現在、この茶室は松江市に寄贈され、松江歴史館に再建されていますね。
ところで八雲本陣のお庭では、有るべきものが無い!と言う点が気になります。八雲本陣は、宍道の町屋のど真ん中に位置しています。なので、防火用水としての池泉が必要だと思うのですが、八雲本陣に限らず、御本陣を勤めた商家・農家のお庭に池泉がありません。斐川平野の農家には農業用水があり、鉄山師のお庭はいずれもしっかりと池泉庭園ですが、町屋のど真ん中ではあった方が良いに決まっている!と思うのです。でも、それが無いと言うことは、もしかしたら松江藩では「池泉は、贅沢」と見ていたと言うことでしょうか?池泉を備える場合は、幕府・松江藩が贅沢禁止を訴える以前からあったか、明治維新以後に新たに作られる場合が多かったと思われます。
さて、
八雲本陣庭園は要素が多すぎて、この話を続けるといつまでも終わりませんが、おおざっぱに言えば、片袖の手水鉢を主景石に据える奥庭は明治5年頃の改造。行啓門や市松の飛石や、新書院前のいわゆる出雲流庭園の部分が明治40年頃の改造だと言うことが判ります。・・・え江戸は?・・・具体的には判りませんが、江戸の御本陣のお庭というのは、巨大な景石や人工的な切石などは多く使わない、ごくごく質素でシンプルなお庭だったと想像されます。八雲本陣で言えば、見立てものの手水なんかの周辺がそれっぽいと思うのです。
- 2012/05/12(土) 18:40:08|
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前回は櫻井家庭園に見られる延段の設置に松江藩の関与が疑われる、というお話をしましたが、今回はもう一つの鉄山師のお庭のお話を・・・。
御本陣も勤めた絲原家庭園には、巨大短冊石や石臼形の飛石、『出雲流庭園[歴史と造形]』にT字形石組みの祖型と記された石組みなど、いわゆる出雲流庭園の要素がふんだんに見られます。それに、巨大短冊石の横には、ちゃんと「出雲流庭園」と説明版が置かれています・・・あれ?おめ~、話が違うじゃねぇか?と、突っ込まれそうですが、そうじゃありません。
お庭は生き物。ちゃんと管理されているからこそ改造が加えられるのは当然のことです。と言う訳で、このお庭、よ~く見ると3つのパートからなっている事に気づきます。
お庭の中心は、背後の山から滝を落とし、大きな池を配した池泉庭園。T字形石組みの祖型が置かれたり、灯籠が置かれたり、滝の位置が変えられるなど、後の改造は加えられているかもしれませんが、櫻井家庭園などと同様に水を自在に操る鉄山師らしい立派な池泉庭園です。ただ、この池泉庭園の部分は書院や新座敷から全体を見ることができません。おそらく元々は、この庭に面した書院があったのでしょうが、後に建物の方が変わってしまったのでしょう。
二つ目のパートは、前回も紹介した長い延段の周辺。このすぐ横には御成門があり、御成書院へと続いています。書院へ上がる沓脱石の横には巨大で変な形(失礼)の手水。いかにも松江藩が関与した御成庭園らしい部分が続いています。
で、もう一つの部分が大正時代に建てられたという新座敷の前の部分。白砂が敷かれ、巨大短冊石と石臼形の飛石があり、手水鉢が景石として置かれている部分・・・つまり、いわゆる出雲流庭園の部分があります。この出雲流庭園の部分と御成庭園の部分は向かい合ってはいるのですが、その間の低い築山と植栽によって視覚的には遮られています。
なぁ~んだ?そう言うことなんだ・・・つまり、もともと鉄山師の池泉庭園があって、江戸後期にお殿様の御成に備えて松江藩が関与した部分が追加され、さらに後の大正時代になって「いわゆる出雲流庭園」な部分が造られたんだなぁって・・・てなことが一目で見て取れるのです。・・・このお庭、すげーや!
- 2012/04/07(土) 08:02:37|
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