宍道湖の北岸、朝日山の麓近くに松江市西谷町「牛切」と言う地名があります。なんだかすごい地名なので気になって現地に行ってきました。
この地名については、昭和24年に旧古江村が刊行した『古江村誌』や平成22年に古江公民館が作った『地名が語るふるさと古江』などに記されています。それによると、「ここには酒の涌く泉(『古江村誌』には「醴泉ホウセン」:甘酒の泉)があり、どこからともなくやって来た牛(!?)が飲んでいたが、慶長年間(約400年前:古江公民館の『地名が語るふるさと古江』では今から150年前・・・慶応年間?と間違えた?)に井原大膳守の家来がその牛を殺してしまった。すると泉はただの水になった」のだとか。で、牛を斬り殺したので牛切・・・。酒の涌く泉と言うびっくりネタを置いておいて牛を切ったことの方を地名にしちゃったと言う・・・。その、酒が涌いたという泉が今も残されています。
ところで、酒の涌く泉の伝承は全国各地に知られています。中でも超有名なのは『養老の滝』。「親孝行の息子が酒の涌く泉を発見し、親に飲ませたと言う話が元正天皇に伝わり年号を養老に改めた」と言うもの。
お松:ムチャクチャ端折ってますね。
やや:「養老」は奈良時代初めの実際の年号です。元正天皇が改元したのも事実ですが、『続日本紀』養老元年には元正天皇が美濃国に行幸した記録が記されており、それによれば
多度山の美泉で手や顔を水に浸すと肌が滑らかになり、痛いところを浸すと治った。後漢の光武帝の時代に醴泉が湧き出し、これを飲むとば病気が治ったと聞く。で、元正天皇は霊亀三年を養老元年に改元した。
とされています。滝ではなくて泉で、酒ではなく水です。醴泉は中国のことなので、それをごちゃまぜにして『養老の滝』伝説が成立したようです。
お松:滝はどこにもないですよね。
やや:万葉集の巻六に大伴宿祢東人(おおとものすくねあずまひと)が読んだ歌に「従古人之言来流老人之変若云水曽名尒負滝之瀬(いにしへゆひとのいひくるおいひとのをつといふみづそなにおふたぎのせ)」と言うのがあって、「昔から言われる老人が若がえる水。その名のとおりの滝の瀬よ」ってな意味なので、平安時代には滝として知られていたようです。
お松:古典はふりがなが面倒くさいなぁ。で、『養老の滝』はわかりましたが「牛切」は?
やや:牛切には五輪塔の残欠とともに牛頭天王の石仏が祀られていて、切られた牛の供養のためと伝えられています。牛の供養のために牛頭天王というのも納得しがたいものがありますが・・・。
お松:関係があるんでしょうか。
やや:牛頭天王はスサノウと同体とされる疫病に関する神です。通常は3つの顔を持ち、頭上に牛を載せた姿をしています(←お松:あ!牛?)。疫病除けとして祀られた牛頭天王像が先にあって、それに何かが加わって地名になったのではないでしょうか?
お松:なるほど。で、なにかって?
やや:それ以上の何の資料も無いのにわかるわけないじゃん。
- 2024/11/04(月) 10:16:06|
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お松:昨日まで好天が続いた山陰地方ですが、今日は朝から雨の山陰地方です。
近頃すっかり更新が滞っていますが、めずらしくややさんの仕事が激しく忙しいのと、そのせいで休日には大山にしか行っていないのが原因です。なので、また大山?
やや:とりあえず山頂でお茶を点ててきました。で、同じネタでもつまんないので下山神社です。
大山寺の長~い石畳の参道を登っていくと大神山神社奥宮の巨大な拝殿に突き当たりますが、大神山神社奥宮は昨年度より修理中。そのため神様もお隣の下山神社を仮殿としてお引っ越し中ですが、
お松:なぜかややさんはこの下山神社が大好きです。その訳は下山神社がお稲荷さんだから?小泉八雲の次くらいにお稲荷さんが大好きなややさんです。
やや:そうじゃなくって・・・下山神社は大山寺でも最も古い神社の一つです。大智明権現(大山寺の神様)の言葉を伝える白狐を祀る神社です。大山寺には7世紀代にさかのぼる金銅仏が3体もあるのですが、そのうちの1体は文和元年(文和は南北朝期の北朝の元号:1352)にこの下山神社の境内から出土したんだとか。
稲荷は、中世から近世にかけて武家の崇敬を集めており、この下山神社も例外ではありません。現在の社殿は文化二年に津和野藩主亀井家の寄進により建てられています。
本殿と拝殿を繋ぐ幣殿の下には、人間共の生活を偵察し、その状況を神様に伝えるために出入りする狐さんたちの入り口、狐穴があいています。狐穴を護る狛狐さんたちの配置も時々換わっているようです。
下山神社拝殿前の巨大狛狐さん。
現在は仮殿として大神山神社奥宮の神様もいらっしゃるので責任重大!
- 2024/05/12(日) 06:54:34|
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三瓶山を降りてきたところでシャア専用を東へ走らせます。が、クラッチを踏む左足がプルプル。やばい、痙攣しそう・・・。
お松:クラッチってなんでしたっけ?・・・いったいいつの時代の車に乗ってんだか?
やや:好きで乗ってんだ、やかましい。
さて、
三瓶山の外輪山の東側には神戸川(かんどがわ)が流れています。その神戸川の上流側、南に向かってしばらく走ると飯南町八神の集落。この辺りは1957年まで志々村だったあたりです。目的地は八神集落の南端近く。
『出雲国風土記』では、ここは飯石郡波多郷の南端近く、来島郷との境に近い場所のはずです。でもこの辺りのことは・・・『出雲国風土記』には波多郷・来島郷のことはあまり詳しくは記されていません。
波多郷は、波多都美命(ハタツミノミコト)が降りたとところなので波多と記されていますが、実は、波多都美命を祀ったとみられる神社が記載されていないんです。で、波多郷中に記されるおそらく唯一の神社が志志乃村社(シシノムラノヤシロ)です。
お松:シシノムラ・・・なんだからしくないっていうか、不思議なお名前の神社ですね
やや:でも、志々村の地名そのものですね。
古代の波多郷の中心地はおそらく現在の波多地区。八神は、冒頭でも言ったとおり波多郷の端っこにあたります。それもなんだか不思議な気がしますが、実はこの辺りの最も有力な古墳は波多地区ではなく八神(志々村)にあるんです。
お松:どう言うことでしょう?
やや:この辺りの古墳時代以来の伝統的な中心は八神(志々村)周辺だったのでしょう。それが、6~7世紀の再開発に伴って多くの人が(強制的に?)移住してきて新たな村ができた。なので、新しくできた村には古い神社がなく、伝統的な集落に古い神社が残ったということなのだろうと思いますが。
お松:思いますが?
やや:証拠はない。・・・って言うか、遺跡からはそんな感じに見えるけど、確証はない・・・。
お松:久しぶりにディープな古代史ネタでした
- 2024/03/17(日) 08:41:50|
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先日の大雪で出張の予定がぶっ飛んでしまって、おかげで余裕をぶっかましていましたが、
お松:出張がキャンセルになって慌ただしく・・・ではなく、余裕だったんですね?
やや:かわりに週末の岡山へ出張です。冬タイヤ規制で路肩に雪の残る米子道を南へ向かうと・・・、でも湯原ICを過ぎると別世界。山の上にも雪は見えず、瀬戸内に来たなぁ・・・。
で、ひと仕事片付けたところで若干の時間が・・・。と言う訳で、前から行きたかったところへ寄り道です。
お松:よ、寄り道って、なんだか山の上ですが?
やや:7世紀。三国時代だった朝鮮半島では唐の支援を受けた新羅が徐々に勢力を伸ばし、660年に百済が、676年には高句麗が滅亡します。日本は仲の良かった百済を救援し、朝鮮半島に足場を確保するために大軍を派遣するのですが、663年、いわゆる白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗します。
お松:遠い昔に歴史の授業で習った気がします。
やや:実は日本は5~6世紀はイケイケで朝鮮半島進出を企てていたのですが、白村江で大敗しちゃいます。
お松:それはわかりました。
やや:そこで初めて気付く訳です。今までは朝鮮半島で軽く勝ったとかちょっと負けたとかの問題だったのが、大敗を喫してしまって・・・
お松:統一新羅になったんですよね。
やや:逆に、唐・新羅が日本列島進出を企てるかもしれない事態になったことを・・・。
お松:え?そっか!
やや:そこであわてた当時の朝廷は対馬に金田城、太宰府には大野城や水城といった防衛施設を整備します。今まで攻めることしか考えていなかったのに、攻められる危険に気づいてかなりビビったんだと思います。
この岡山県総社市にある鬼ノ城(きのじょう)跡は、その時に築かれた山城の一つだろうと言われているんですが
お松:言われている?
やや:実は、『日本書紀』にはこの城のことは書かれていません。発掘調査によって時期が推定できるのですが、文献に登場しない歴史です。
お松:そんなこともなんだかすごいですね。行ってみたかったと言うのもわかる気がします。
やや:山の上を駆け足で1時間見て回りましたが、
お松:ましたが?
やや:じっくり見るには全然足りな~い!
お松:はい、また次回。仕事のついでではなくしっかり見に行って下さい。
- 2024/01/27(土) 18:25:23|
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お松:こにゃにゃちは~。昨日から好天の山陰地方です。なんと、12月も間もなく終わり。明後日は新年だというのに更新されていません。
やや:げ!ホントだ。忘れていた!
お松:にもほどがあると思います。
やや:さて、大東探検の続きです。
お松:何事もなかったかのように始めちゃったよ。
やや:何しに大東を探検していたかと言うと、大東鉱山を見たかったので。
お松:大東鉱山?大東に鉱山があるんですか?
やや:ずいぶん以前の話ですが、1989年に奈良の東大寺大仏殿の回廊西地区で発掘調査が行われ、大量の木簡が出土したんですが、その中に「大原郡佐世郷郡司勝部(スグリベ)・・・」ってのがあって。
お松:大原郡のカツベさんの名前が書かれていたんですね。
やや:ここで出土した木簡は、奈良時代の大仏鋳造に関わる資料と言われていて、つまり、大原郡の勝部(スグリベ)さんが大仏鋳造になにか関係していた?銅の調達に関わっていた?って考えられているってんです。
で、大原郡には大東鉱山があるんで調べていたという。
お松:大東鉱山で銅を採掘していたんですか?
やや:してました(←お松:お~!)。ただし、昭和の頃(←お松:あ、あれ?)。大東鉱山はモリブデン鉱山で、副産物として銅も製錬していたそうです。
お松:もしかして、それが奈良時代にも行われていたなんて?
やや:残念ながらないな。大東鉱山の銅鉱は硫化銅鉱なので、奈良時代の技術では製錬が難しいし、そもそも探鉱できないらしい。ま、現地に行ったところで、それがわかるわけではないですが。
お松:じゃぁ、銅の調達に関わったカツベさんは?
やや:わかりません。木簡には名前しか書かれていないので、どんな関わりなのかわからないし。もしかしたら外国産の銅を調達できたのかもしれない。他に可能性があるとしたら・・・。
お松:あるとしたら?
やや:大原郡には加茂岩倉遺跡があります。
お松:たくさん銅鐸が出土した弥生時代の遺跡?大仏が作られた奈良時代とは違いますよねぇ。
やや:だから、もし、仮に・・・
お松:仮に?
やや:もしもそんな遺跡が他にもあったとしたら・・・
お松:あったとしたら?
やや:知られていない弥生時代の青銅器の遺跡があって、奈良時代に発見されていたりしたら?でぇ、それを鋳つぶして東大寺に納めた人がいたら・・・とか
お松:え~?え~?え~?
やや:ま、ありえませんけどね。
お松:・・・。
- 2023/12/30(土) 09:18:12|
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