「アーカイブ」・・・瓦片への思い ②
先の戦大から、70年の時を経て、『戦後70年』『被爆から70年』と、言う言葉を、毎日の様に耳に致します。
広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。
8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。
【2015年1月25日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】
こうして、実家までの15㎞程の道のりを、意気揚々と帰ったのでした。
実は、拾い集めた瓦片の一つを、記念にしようと、持ち帰って居ました。
私が、その瓦片を、納める為に、刷毛で泥を落として居りますと、父が、
「何ぃしよるんなら・・・?」と、聞きましたので、それまでの経緯を話しました。
「わりゃぁ(お前は)、それが、何か分かっちょるんかぁ?」と、非常に不機嫌な、顔と口調で言いましたので、
「ほいじゃけぇ、原爆ん時に吹き飛ばされた瓦なんよ・・・平和公園のはたり(傍)の、元安川の河原で拾ぉたんじゃ・・・平和活動の為に使うんじゃ。」と、言いますと、
「それが、何か、分かっちょるんか言ぅて聞きよるんじゃぁ!・・・わりゃぁ、何にも分かっちょらんのぉ!・・・その瓦の上やら下やらで、人が殺されたんじゃろぉが!・・・そりゃぁ、墓石みたいなモンじゃろぉがッ!」
「そがいなモンを家ぇ拾ぉて帰りゃぁがって!・・・何が平和運動ならッ!・・・死んだ人を粗末にする様なモンは、平和運動やなんかじゃぁ在りぁぁせんよぉ!」
「すぐに、在った所へ返してこい!・・・分かったかッ!」と、蹴り飛ばされるのではないかと感じたぐらい、物凄い剣幕で怒鳴られました。
私は、呆気にとられて声も出せずに頷き、すぐに支度をすると、自転車で平和公園へ向かいました。
自転車を漕ぎながら、色々な事を考えて居りました。
父の言う事は、尤もだと思いました。
無学で、短気な、広島の漁師でしたが、勤勉で、人の道理を弁えた、誰からも慕われる人でした。
厳しい言葉で怒鳴られた事よりも、原子爆弾によって兄を奪われ、その直後に、阿鼻地獄 と称された、あの惨劇の地に立ち、あの惨劇を目の当たりにした人間の、その思いに圧倒されて居りました。
浮かれていた自分の浅墓さと愚かさが、悔やまれて成りませんでした。
夕暮れの街を自転車で走って、元安橋 の袂に着いた頃には、すっかり陽が暮れていました。
橋を渡って公園に辿り着き、左に折れて、瓦片を拾う為に河原に下りたガンギ(桟橋や海へ下りる石の階段)の所へ行きましたが、既に潮が満ちていて、河原に下りる事は出来ませんでした。
申し訳無いと思いながら、ポケットからハンカチに包んだ瓦片を取り出して、手の平に取ると、一度、額に当てがって思いを込めた後、河原に向かって高く放り投げました。
瓦片は、川面の中央に落ちて、小さな同心円を描きました。
それを暫く見つめながら、皆で瓦片を拾い集めていた時の事や、父に怒鳴られた事など思い返して居りましたが、蚊に刺されるのが嫌だったので、河原に向かって手を合わせ、御題目を唱えてから、帰路につきました。
国道31号線を呉方面に向かって暫く行くと、海田湾 越しに、広島の街灯りが見えました。
今は、殆んどが埋め立てられて、商業施設 や病院 や工場群が立ち並んで、面影さえ在りませんが、当時は、チヌ(黒鯛) や鱸 や鰈 が沢山獲れる、豊饒の海でした。
その景色を、心細い気持ちで見詰めながら、家に帰りました。
流石に、へとへとに疲れて、冴えない気持ちで、家に入ると、父が、
「遅かったのぉ、しんどかったじゃろぉがい・・・腹が減っちょろぉが・・・飯ぃ食えや。」と、コップ酒を飲みながら、言いました。
私は、また何か言われると思って居りましたので、父の、いつに無く柔らかい口調を、意外に感じながらも、ほっと致しました。
夕食を食べ終わった後に、焙じ茶を飲みながらテレビを観ていると、父が、
「お父さんはのぉ、ワレが色々と頑張っちょるんは、ぶち嬉しぃんじゃ・・・じゃがのぉ、自分は、えぇ事をしよる思ぉてする事でも、他の人にとっちゃぁ迷惑じゃったり、心ぉ傷付けられたりする事も在るんよ。・・・じゃけぇ、何かしょぉ思う時ゃぁ、そがいな事まで考えてからせにゃぁ、結局は、ワレが冴えん目ぇ見る様になるんでぇ。・・・ほれに、死んだ人ぁモノを言えんけぇのぉ・・・何が正しゅうて、何が違ぉちょるかは、分かり難いんじゃが、それぇ分かる様に成る為に学校へ行きよんじゃろぉがい・・・しっかり勉強せぇよ。」と、染み染みと言いました。
私は、何も語れず、ただ頷いて、父の話を聞いて居りました。
その後、風呂に入って、湯船に浸かって居りますと、色々な思いが込み上げて来て、何故か涙が溢れて止まらず、何度も何度も、顔を洗い流して居りました。・・・続く・・・アジアの片隅より
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