「アーカイブ」・・・亜細亜の片隅より ② : アジアの片隅より…Second
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アジアの片隅より…Second

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「アーカイブ」・・・亜細亜の片隅より ②

先の戦大から、70年の時を経て、『戦後70年』『被爆から70年』と、言う言葉を、毎日の様に耳に致します。


 広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。



 8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



【2015年1月22日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】

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 被爆後の御幸橋




 そして、昭和20年(1945年)8月6日、勤労奉仕 で、疎開家屋の解体作業をしていた、市役所付近で被爆し、16歳の夢多き命を奪われました。


 翌日の早朝、祖父や親戚の方に伴われ、伯父を探す為に同行した父達は、祖父の舟で広島へ向かい、元安川を遡って鷹野橋に舟を係留して、伯父の捜索に向ったのでした。


 ほんとうに奇跡の様に ・・・ 何かに誘われる様に ・・・ 折り重なった黒焦げの遺体の中に、伯父を見い出す事が出来たのでした。


 祖父は、慟哭しながら、焼け焦げた丸太の様になった伯父を
帆布 で包んで抱きかかえると、誰の手も借りず、舟まで連れ帰りました。

 手漕ぎが殆んどだった当時、
焼玉エンジン を搭載した祖父の舟の、エンジンの音が無性に大きく聞こえ、泣きながら耳を塞いで、音戸まで帰ったのだと、父が話して呉れました。



「アーカイブ」・・・亜細亜の片隅より ②_a0336934_10171487.jpg
 広島高校生平和ゼミナール の活動の様子



 高校生の頃、広島高校生平和ゼミナール に関わっていた私は、伯父の遺品を見せて頂く為に、墓参りも兼ねて、父の実家を訪ねました。




 倉橋島に在る、小さな漁港の、海沿いの実家には、お盆の度に行くのですが、それ以外で訪ねるのは久し振りでした。

 

 伯父さん ( 次男 ) や伯母さん達と、父や家族の近況を交えながら、亡くなった伯父の写真など拝見して、想い出話を伺いました。



 伯父さんは、写真を見ながら、



 「 こんに (彼) もそうじゃし、ビルマ で死んだ叔父さん ( 広島女子高等師範学校で助教授を務めて居りましたが、徴兵され、ビルマで戦死しました ) も、頭が良ぉて、優しい人じゃったが、皆、死んでしもぉた。」


 
「 ピカ (原子爆弾の俗称)
だけじゃのぉて、戦争で死んだなぁ、頭がえぇ人やら、人柄がえぇ人ばっかりじゃ・・・残ったなぁ、根性が悪りぃ、勉強も、ほろくに出来ん、儂等みたぁな、働くしか能が無ぁぁろくでも無ぁモンばっかりよ!」


 「こがいな事じゃぁけぇ、日本が、えぇ国に成るわきゃぁ無ぁよのぉ! ・ ・ ・ 小ずるい事ぉして、わら (自分達) だけが、生き延びゃぁがった政治家と、皆を殺しゃぁげた進駐軍 の奴らが、法律 ぅ作って、戦争に負けた後のドサクサに紛れて、ヤクザ紛いの奴等が、隠匿物資 やら、金片景気 で大儲けぇして、大企業の社長に収まっちょるんじゃけぇ、えぇ事にゃぁなりゃぁせんよぉのぉ!」と、笑いながら伯父さんが言いました。・・・続く・・・アジアの片隅より

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by ajianokatasumiyor | 2015-08-02 08:15 | 反核・平和

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