「アーカイブ」・・・亜細亜の片隅より ① : アジアの片隅より…Second
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アジアの片隅より…Second

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愚者のブログ

「アーカイブ」・・・亜細亜の片隅より ①

 先の戦大から、70年の時を経て、『戦後70年』『被爆から70年』と、言う言葉を、毎日の様に耳に致します。


 広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。



 8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



【2015年1月21日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】

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 雪の原爆ドーム




 昨日、数少ない、このブログの一般読者の方から、


「ブログのタイトルの、『アジアの片隅より』は、吉田拓郎『アジアの片隅で』 からとったものですか?」との、質問が在りました。


 ファンと言う程では在りませんが、、吉田拓郎氏は、ほぼ 広島県人 ( 鹿児島県出身 ) ですし「広島フォーク村」 の発案者であり、好きな曲も沢山在るのですが、これからとったモノでは在りません。



 
 『アジアの片隅より』 は、原爆で亡くなった、伯父の残した手記に依るものです。



 私の父は、11人兄弟 ( 兄4人・姉6人…当時としても多い方でしたが、富国強兵の時代でしたから、今の様に、テレビで取り上げられる程、珍しい事では無かったそうです) の末っ子として生まれ、原爆で亡くなった伯父は、5歳年上の三男に当たります。


 伯父は、大変な秀才だった様で、尋常小学校の3年生の頃には、既に教師から学ぶ事が無くなり、中学校の教科書の他、独逸語や英語も独学で勉強しており、幼少期を過ごした中国語も堪能でした。


 教諭が休みの時には、代わりに教鞭をとっていたとか、学校の式典の際、吃音症 の校長に代わって、教育勅語 を暗唱していた等の、数々の逸話が残って居ます。


 父の実家は、現在の呉市の音戸町に在り、当時、祖父は、海軍を退役し、呉海軍工廠 に勤務しながら、代々の家業である、漁業に従事して居りました。


 祖父の、釣友だった、広島の老舗百貨店・福屋 の創始者である香川源兵衛氏と、マツダ の創業者・松田重次郎氏 との三人で、祖父が舟を出して鯛釣りに出た折に、手伝いの為に同舟していた、伯父の秀才振りに驚嘆し、祖父に、伯父の進路について聞いた処、祖父が、地元の実業学校 に進学させる心算だと話したので、両氏は、『これほど勉強の出来る子には会った事が無い。中学校 に行き、高等学校大学予科 を経て、帝国大学 に進むべき!』と、祖父に進言し、翌年、両氏の計らいに依り、広島県立広島第一中学校(広島県立広島国泰寺高等学校 )に、飛び級で入学致しました。・・・続く・・・ アジアの片隅より


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by ajianokatasumiyor | 2015-08-01 08:15 | 反核・平和

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