旅行で、山形県は酒田に来ていた。
旅行二日目、泊まるところを決めていないことを思い出した。旅行の最も基本的な事項をすっかり忘れていたのである。僕は、どこかに行きたくて航空券を取るというよりは、安いチケットがあるからそこに行くことにするタイプであり、宿もまあ行ってみればどこかしらに適当に泊まれるでしょといった感じの楽天的旅行者だったので、いつも旅程が場当たり的なのだ。
うーん、どこに泊まるかなあとスマホをいじる。そういえば、この間、別府で遊郭建築に泊まったな、酒田にはそういった旅館はあるのだろうかと検索をしてみた。
Googleによれば、どうやら酒田にも昔、遊郭があったらしく、松山旅館という所が、その遊郭的意匠を残しているということを知った。ネットから予約はできないようだったので、電話をかけてみることにした。
トゥルルルルトゥルルルルトゥルルルルトゥルルルルトゥルルルルトゥルルルルトゥルルルルトゥルルルルトゥルルルルトゥルルルルトゥルルルルトゥルルルルトゥルルルル
全然でない。海に近い街というのは、なんだか色素が薄い建物が多い気がするなあなどと酒田の街を一人眺めながら、電話をかけ続ける。もしかしてもう廃業しているのだろうか、じゃらんにも情報がなかったしなあと半ば諦めかけた時、スピーカーに応答があった。
「はい、松山旅館です」
「あ、もしもし、突然なのですが、今日って泊まれたりしますか」
「え、はい?宿泊ですか」
太く威勢のよい声がした。スピーカー越しでも一瞬で相手が豪放な人柄であることがわかった。
「はい宿泊です、いきなりすみません」
「いつ?」
「今日です」
「え、いつ?」
「今日です」
「え、私耳が遠くてよく聞こえないんです」
「今日です!!!」
酒田の街中で大声をあげてしまった。
「え、ああ、今日ね、はいはい」
「大丈夫ですか?あいてますか?」
「え〜っと何人?」
「二人です」
「え、何人?」
「二人です」
「え、よく聞こえないよ」といった問答が何往復か続いた。スマホを耳につけてしゃべるのをやめて、口の前にスマホのマイクをすえて、でたらめな大声で喋った。酒田の百貨店の下にいる、明るい色のコートを来た女性たちが怪しげな視線をこちらにむけていた。
「はいはい、二人ね。ご夫婦?」
「いえ、違います。友人です」
「はいはい? はい、わかりました。耳が遠くてね、すみませんね」
「いえいえ」
「じゃあ、ちょっと電話変わるから」
「あ、どうも」電話越しの声が女性に変わった。
「あ、すみません、ええと」
「夫が耳が遠いもので、本日でよろしかったですか」
「はい、本日これから伺います、突然すみません」
「いえいえ、お待ちしておりますので」
ふたたび男性に変わった。
「ふははは、じゃあ、待ってますんでね、待ってますんでね」
宿の主は豪快な声で、なぜか、そう二度繰り返した。
一時間後、大学時代の後輩が埼玉からやってくることになっていた。しばし酒田の街中で何をするでもなく、フリーWi-Fiの飛んでいるちょっとした休憩所のベンチに座っていると、彼は小さなスーツケースを持って小走りでやってきた。働き始めてからというもの、全員の予定をあわせるのも難しくなり、旅行をすると現地集合のことが多くなった。
「おお、お疲れ様」
「どうも、ひさしぶりですね」
後輩の田中と会ったのは半年ぶりくらいのような気がした。
「宿とっておいたよ」
「ありがとうございます。どんなところなんですか」と後輩田中は特徴的な少し高めの声で言った。
「なんか、端的に言えば渋いところみたいだよ」
「そうなんですか、いいですね」
田中は、別にどこでも構わないのですがといった表情を隠さずにそう言った
「じゃあ、いったん、宿に荷物起きに行きますかね。着いたばかりだし疲れてるでしょ」
「そうですね、その方が助かります」
松山旅館は中心地から少し外れたところにあったので10分ほど歩くことになった。旅館は少し入り口が奥まっていて、なんとも素朴に入りにくい印象を与えた。
「たしかに、渋いですね……」と後輩田中がすこしビビりながら言った。
「そうなんだよ、とにかく渋いんだよ。まあ入ってみよう」と言いながら、僕も想定の三倍くらい渋かったことにややビビっていた。
戸を開けるとめでたい雰囲気の巨大な綱がどーんと目の前に現れた。
「すみませーん」綱でかいな、と思いながら、誰かいないだろうかと呼びかけてみた。
人がいる気配は微塵も感じられなかった。玄関口は時が止まっているかのように静かで、あたりの調度品もひっそりと眠りについているかのようだった。
かといってぼーっとつっ立っていても仕方ないので、もう一度呼びかけてみた。「すみませーん」
宿は一貫して静謐であった。
「宿の人が出払ってるんですかね」
「そういえば、この宿予約した時、宿の人の耳が遠いらしくて、電話がなかなかうまく通じなかったんだよね。もしかして、どこかにいるけど、気がついていないのかもしれないな」
カバンからペットボトルを出して水を飲んだ。何を急いでるわけでもないしなあと思い、玄関に二人で腰掛け、積もったちりのような近況について話をした。最近、あの人が大変なことになっているらしい、それはそれは、寿司をたべた、寿司はうまい、仕事がだるいような気がする、あのころ、あの夜のカラオケボックスでは、などと10分ほどだらだら話をしていると、奥の方から宿の主が現れた。
「ああ、すみません、すみません。きくちさんですか」
「はい、数時間前にお電話したものです」
「すみませんね、待ちましたか。すぐ部屋に案内しますからね」
おっちゃんは世俗化された勝新太郎のような風貌をしていた。眉毛があるがままビヨンと伸び、その面持ちには放埒の雰囲気があった。電話で想像していた通りのイメージだった。
「足下気をつけてくださいね。どこからいらっしゃったんですか」とおっちゃんはくしゃっと笑いながら言った。
「東京からきました」
「え、どこ?」
「東京です!」
世俗化新太郎風のおっちゃんとメンテナンスされなくなった木管楽器のようなぼそぼそ声の僕は会話の相性がよくないようだった。
板張りの天井に、おだやかな電球。廊下には大きな円窓が嵌め込まれていた。意匠のひとつひとつに小さな洒脱さをかんじさせた。
「古くからやられてるんですか」
後輩田中が聞いた。
「そうですね、それはもう古くからやってますよ。お部屋はこちらですのでね」
声の高い後輩田中は、おっちゃんとの相性がよいようで、僕よりも会話がスムーズだった。会話は田中に任せようと思った。案内された電気の落ちた部屋に、赤い障子が覗いた。障子越しに陽が差し込んでおり、赤い光が布団ににじんでいた。日本型の暗愁の雰囲気があった。なんだかとても刹那的感じがした。
「あれ、そういえば、お二人はご夫婦じゃなかったんですね」
「そうなんですよ、すみません、男二人で」
2枚の布団は極めてぴっちりと並べられていた。まあ別に構わないのだけどと思いながら、一応少しだけ隙間をあけておいた。
「今日はこの後どうされるんですか」とおっちゃんが尋ねた。
「すこし休んだら夕飯でも食べに行こうかと思うんですけど」と後輩の田中が答えた。
「そりゃいいですね、酒田は美味しいものたくさんありますからね。私に聞いてくれればなんぼでも答えますから。あ、そうだ、ちょっと待っていてくださいね」
おっちゃんは新太郎風に踵を返し、そそくさと部屋を出て行った
「なかなか、愉快なおっちゃんだね」僕は荷物をおろして、布団に横たわった。
「いやあ、いいキャラクターですね。最初はちょっとおっかなびっくりでしたけど、こういう宿けっこう好きですよ」
おっちゃんが戻ってきた。
「はいはい、これどうぞ」
「ウェルカムドリンクですよ」
主は、酒田の地元の濁酒をおちょこに注いでくれた。
「どうぞ、どうぞ、飲んでください」
「ありがとうございます!」といって僕は一息に酒を飲んだ。
「そういえば、バーケルンって何時からやってますかね」
昨日も行ったのに、僕は今日もバーケルンに行きたいなと思っていた。
「もうそろそろ開くんじゃないかね。あそこのマスターとは古くからの知り合いでね。昔はいろいろなことがあったもんですよ。雪国ってカクテルあるでしょ、あれは実はね……」
そういっておっちゃんは、カクテル雪国についての昔話をしてくれた。雪国のちょっとした秘密のようなことを知った。このことは心の中にしまっておこうと思った。
「夜、戻ってきたら、私も飲んでると思いますのでね」
「はい、日付が変わる前には戻ってくると思います」
「まあ、私も飲んでいるのでね、つまりまあ、お客さんたちもお酒を買ってきて、飲んでもいいってことでね。ええ、もし良ければ、ね」
おっちゃんは去って行った。後輩田中が酒をくっと飲んだ。
「このチョコTimTamじゃん。TimTamめっちゃ好きなんだよね。そして意外なことにけっこう濁酒ともあうもんだね」
僕はとにかくチョコレートが好きなのだ。元々遊郭だった宿で、日本酒を飲みながらオーストラリアのお菓子を食べているというのもなんともしみじみと不思議なことであるなあと思う。なにはともあれTimTamはどこで食べてもやたらとおいしい。
夕飯を食べに街に出ることにした。いい居酒屋があると友人に聞いていたので、そこに行ってみることにした。
酒を飲む。なんでも慶応時代から営業をしているらしい。100年をゆうにこえる居酒屋である。常連の客さんたちもフレンドリーで、どこから来たんですかなどと声をかけてくれる。机がガラス張りで、小鉢がたくさん置いてある。これください、と告げると店員さんが机のしたからほいと小鉢を出してくれるシステムである。
日本酒を少しずつすする。体が徐々にあったまっていく。
地元の人たちの話を片耳に酒を飲む。居酒屋というのは不思議なもので、客同士が声に声を重ねて、どんどん声量が大きくなっていき、ふとある瞬間に全体が一気に静まり変えることがある。居酒屋にはなにか統一の意思があるかのようである。
つみれ汁を注文する。さっぱりとしたスープに薬味が聞いていて大変美味しい。東北の寒い夜にはシンプルに体が温まるものが良いのだなあと思う。こういう祖父母の家的安住の居酒屋に出会ってしまうと、きっとまた酒田に来なくてはならないなと思う。
いろいろな店をはしごして、かじかむ指をこすりながら、松山旅館に戻ることにした。
「宿を出る時、おっちゃんが私も飲んでますからねと言っていたけど、きっとあれ、暗に一緒に飲もうということを言おうとしていたんだよね」
僕は酒飲みの醸す邪な欲望を察知していた。
「そうですね……僕もそうなんじゃないかと思ってました。何本かビールでも買っていきましょうかね」
「結構、酔っているけどね」
「そうですね、結構酔ってますね」
「飲みすぎたね」
そんなことを話しながらコンビニで缶ビールを何本か買って、寒空の下、宿に戻った。酒田の夜は交通量も減って、たおやかに静まり返っていた。23時くらいのことであった。
「すみませーん、戻りました」
宿の中からは物音一つしなかった。
「すみませーん、戻りました」
やはりなんの反応もなかった。
おっちゃんに、普段はここにいるのでいつでも声をかけてくださいと言われた部屋を覗きに行った。テレビの音が聞こえた。なんだいるじゃないか、どれどれと戸を開けると、電気を落とした部屋の中で主人はテレビ付けっぱなしにしたまま、すやすやと眠っていた。
「ビールどうしよっか」
「まあ、しょうがないですね」
部屋に戻り、間延びした夜のただなかで、申し訳程度にビールを一本開けて、どろどろの酔眼をたよりに布団に潜り込んだ。
明朝、朝ごはんを食べに、広間へ向かった。
旅館の朝ごはん!といった感じの朝食が並べられていた。
おっちゃんがやってきた。
「おはようございます」
「ああ、どうもどうも、食べてくださいね」
僕たちは黙々と朝ごはんを食べた。
「昨日は楽しかったですか。どこに行かれたんですか」
「久村酒場とか、あと白ばらとかにいきました」とおっちゃんとの相性のよい田中が答えた。
「おお、そうですか、それはそれは。白ばらの支配人はね私の大学の後輩なんですよ。白バラも昔はね……」話好きのおっちゃんは長い眉毛を揺らしながら、酒田の街の歴史を滔々と話してくれた。話を聴きながら、僕は黙々とウインナーを食べた。
「そういえば、この辺って昔は遊郭だったんですよね」と僕が尋ねると、主は「そうですよ、ここの宿にもいろいろ残っていてね、講談社の人とが取材にきたことがあるんですよ」と少し誇らしげに言った。
「へえ、すごいですね」
「ああ、あれを見せましょうか」
そう言って、おっちゃんは立ち上がると、部屋の脇においてあった四角い箱の布をめくりあげた。
「これね、ひこばあさんの人形なんですけどね、この辺の遊郭の長だったんですよ」
ガラス張りの箱に、人形が正座していた。背筋がきりっと伸び、商売人の力強さのようなものを感じさせた。なんとも精巧でいまにも動き始めそうである。じっと見てみると、失われた情景が浮かび上がってくるような気がする。
「このへんではなかなかの有力者だったんですよ」
「すごいですね、貴重なんじゃないですか」後輩田中もしげしげと眺めていた。
「研究者の人も見にきたりしますからね。みなさんも写真撮ってくださいね」
そのあと、おっちゃんに遊郭の長の人生について教えてもらったのだけど、もう半年近く前なので詳しい話を忘れてしまった。メモしておけばよかった。
当時この人はどんなことを思い、考え生きたのだろう。モナリザの表情が色々な形で読み込まれてしまうように、人形の表情も見れば見るほど如何様にも読み取れるような気がした。僕たちは、世紀を超えて突如現れた酒田の遊郭の長に見つめられながら、もそもそと朝食を食べ続けた。