ミニクルで行く47都道府県制覇の旅
2022年7月12日に海岸線ルートで日本一周を達成したので、次の旅の目的を日本の真ん中を旅する「日本縦断の旅」に決定しました。
【旅の概要】
1.北海道を一周してきたばかりなので、まずは日本一周した海岸線ルートで走行しなかった、海のない8県を旅することで、47度道府県を制覇します。
2.2022年11月から8県全部を旅するのは、時期的に山間部の道路凍結が想定されるので、冬用タイヤに履き替えてまで、慣れない雪道を旅をするのは危険なので、今回は5県に絞って旅することにしました。5県の内訳は、近畿・中部地方の奈良県・滋賀県・岐阜県・長野県・山梨県です。
2022/11/16(水)
”かずタビ”のご訪問ありがとうございます。
今回は、「薬師寺」から「法隆寺」を旅しました。
【立ち寄りスポット】
1.法隆寺
2.中宮寺
【移動ルート】1.法隆寺
2.中宮寺
1.法隆寺
用明天皇が自らの病気平癒を祈って寺の建立を発願しましたが、崩御されたため、その遺志を継いで、推古天皇と聖徳太子が607年に完成させたと言われています。「日本書紀」によると、670年に焼失したとされ、その後、現在の場所に再建されたと考えられています。
境内は、金堂や五重塔を中心とした西院伽藍と、八角堂の夢殿を中心とした東院伽藍があります。東院伽藍は、聖徳太子一族が移り住んだ斑鳩宮の跡地に、739年頃に行信僧都が太子の住まれていた地が荒れているのを悲しんで建立したものです。また、金堂に安置されているご本尊の釈迦三尊像は、「623年に聖徳太子の冥福のため鞍作止利(くらつくりのとり)が造った」という光背銘があり、太子の姿をうつしたと伝えられています。
法隆寺パンフレット。
<南大門>
法隆寺南大門は室町時代中期の1435年(永享7年)に焼失し、1438年(永享10年)に再建されました。その後、江戸時代初期の1606年(慶長11年)、江戸時代中期の1697年(元禄10年)、1914年(大正3年)に修理が行われたと言われています。なお法隆寺南大門は、法隆寺創建時に中門前の石段上に建立されていたが、その後子院の増加に伴う寺域の拡大により、平安時代中期の長元年間(1028年~1037年)に現在の場所に移されたと言われています。なお南大門には二王像(金剛力士像)が安置されている場合が多いですが、法隆寺は創建当初から中門に二王像が安置されています。
<中門>
石段を上ると木の柵が巡らされています。中門を入ると、金堂や五重塔のある西院伽藍なのですが、西院伽藍への入口は中門の左手に用意されています。つまり、現在中門は参拝客に開放されていません。
建築の際には、南大門より中門に力が注がれたそうで、より仏様に近い中門に重きが置かれ、参拝客の主な出入口となる南大門は比較的簡素な造りになっています。事の真偽は分かりませんが、どこか納得できるところがあります。
<金剛力士像>
中門向かって右側の、口を開いた「阿形」の金剛力士像。和銅4年(711)の作と伝えられる仏像です。朱色に塗られた塑像ですが、風雨にさらされた結果、今ではすっかりその色彩を失っています。高さは3m30cmで、中門の下から見上げると迫力があります。法隆寺創建当初のものではありませんが、日本最古の金剛力士像として知られます。
中門向かって左側の、「吽形」の金剛力士像です。造立当時は黒に塗られた塑像でしたが、その傷みは激しく、16世紀に顔以外の部分は木造に造り替えられています。
<五重塔>
現存する世界最古の木造五重塔で、特徴として初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高く、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分になっています。一見六重塔のように思えますが、一番下の屋根は塔を支える役割をもつ裳階(もこし)であるため数えません。醍醐寺(京都府)、瑠璃光寺(山口県)に並ぶ日本三名塔の一つに数えられている美しい塔です。
五重塔初層には、東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる約80体の塑造の群像を安置しています(国宝)。和銅4年(711)に造られており、釈迦に関する四つの説話から四つの場面を塑像の小群像で表しています。
塔本四面具(国宝)
<金堂>
金堂は西院伽藍最古の建築で、飛鳥時代に建てられました。一見金堂は2階建てに見えますが、見た目だけの2階建てで実際は1階のみです。柱の途中が膨らんだ形のエンタシスの柱はその美しさが特に有名で、金堂の柱の数は回廊の柱の本数と同じです。また軒の重量を支える雲斗・雲肘木の美しさも必見です。堂内には釈迦三尊像(国宝)、阿弥陀三尊像(重文)、四天王立像(国宝)、吉祥天・毘沙門天立像(国宝)が安置されています。
<堂内の像をWebサイトから掲載>
〇釈迦三尊像(国宝)
〇阿弥陀三尊像(重文)
〇四天王立像(国宝)
〇吉祥天・毘沙門天立像(国宝)
<大講堂>
西院伽藍最大の建築物で金堂・五重塔の奥に建てられています。創建時は北側の回廊の外に独立して建っていましたが延長3年(925)に焼失し、正暦元年(990)ほぼ元の規模と同じ大きさに再建されました。堂内には薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重文)を安置しています。
<堂内の像をWebサイトから掲載>
〇薬師三尊像(国宝)
<大宝蔵院>
大宝蔵院は百済観音堂を中心に東西の宝蔵からなる建物で、法隆寺の寺宝を収蔵、公開しています。中でも百済観音像(国宝)、玉虫厨子(国宝)など法隆寺を代表する文化財指定されている宝物がたくさん展示されています。
<堂内の像をWebサイトから掲載>
〇百済観音像(国宝)
〇玉虫厨子(国宝)
<東院伽藍(夢殿)>
聖徳太子没後、供養するために高僧行信によって創建された法隆寺の東院伽藍。
夢殿として有名になっている奈良時代の八角円堂には、聖徳太子の等身大とされる観音菩薩立像(救世観音)が安置されています。救世観音像は国宝に指定されていて、普段は一般公開されてなく拝見できませんが、春秋に開催される特別開扉のときに見ることができます。
観音菩薩立像をWebサイトから掲載。
2.中宮寺。
創建時以来の尼寺。聖徳太子が母、穴穂部間人皇后のために建てた御所跡を寺にしたと伝えられ、大和三門跡寺院の一つにあげられています。飛鳥時代後期の作である本尊の菩薩半跏思惟像(国宝)は、モナリザ、スフィンクスと並ぶ世界三大微笑像の一つ。右足を組み、右手の指を頬に触れようとする半跏思惟の美しい姿、気品のある微笑みは和辻哲郎もその著書「古寺巡礼」で絶讃するほどです。
<菩薩半跏思惟像をWebサイトから掲載>
以上で法隆寺の旅を終了します。
帰る頃には、多くの修学旅行生が参拝していました。
用明天皇が自らの病気平癒を祈って寺の建立を発願しましたが、崩御されたため、その遺志を継いで、推古天皇と聖徳太子が607年に完成させたと言われています。「日本書紀」によると、670年に焼失したとされ、その後、現在の場所に再建されたと考えられています。
境内は、金堂や五重塔を中心とした西院伽藍と、八角堂の夢殿を中心とした東院伽藍があります。東院伽藍は、聖徳太子一族が移り住んだ斑鳩宮の跡地に、739年頃に行信僧都が太子の住まれていた地が荒れているのを悲しんで建立したものです。また、金堂に安置されているご本尊の釈迦三尊像は、「623年に聖徳太子の冥福のため鞍作止利(くらつくりのとり)が造った」という光背銘があり、太子の姿をうつしたと伝えられています。
法隆寺パンフレット。
<南大門>
法隆寺南大門は室町時代中期の1435年(永享7年)に焼失し、1438年(永享10年)に再建されました。その後、江戸時代初期の1606年(慶長11年)、江戸時代中期の1697年(元禄10年)、1914年(大正3年)に修理が行われたと言われています。なお法隆寺南大門は、法隆寺創建時に中門前の石段上に建立されていたが、その後子院の増加に伴う寺域の拡大により、平安時代中期の長元年間(1028年~1037年)に現在の場所に移されたと言われています。なお南大門には二王像(金剛力士像)が安置されている場合が多いですが、法隆寺は創建当初から中門に二王像が安置されています。
<中門>
石段を上ると木の柵が巡らされています。中門を入ると、金堂や五重塔のある西院伽藍なのですが、西院伽藍への入口は中門の左手に用意されています。つまり、現在中門は参拝客に開放されていません。
建築の際には、南大門より中門に力が注がれたそうで、より仏様に近い中門に重きが置かれ、参拝客の主な出入口となる南大門は比較的簡素な造りになっています。事の真偽は分かりませんが、どこか納得できるところがあります。
<金剛力士像>
中門向かって右側の、口を開いた「阿形」の金剛力士像。和銅4年(711)の作と伝えられる仏像です。朱色に塗られた塑像ですが、風雨にさらされた結果、今ではすっかりその色彩を失っています。高さは3m30cmで、中門の下から見上げると迫力があります。法隆寺創建当初のものではありませんが、日本最古の金剛力士像として知られます。
中門向かって左側の、「吽形」の金剛力士像です。造立当時は黒に塗られた塑像でしたが、その傷みは激しく、16世紀に顔以外の部分は木造に造り替えられています。
<五重塔>
現存する世界最古の木造五重塔で、特徴として初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高く、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分になっています。一見六重塔のように思えますが、一番下の屋根は塔を支える役割をもつ裳階(もこし)であるため数えません。醍醐寺(京都府)、瑠璃光寺(山口県)に並ぶ日本三名塔の一つに数えられている美しい塔です。
五重塔初層には、東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる約80体の塑造の群像を安置しています(国宝)。和銅4年(711)に造られており、釈迦に関する四つの説話から四つの場面を塑像の小群像で表しています。
塔本四面具(国宝)
<金堂>
金堂は西院伽藍最古の建築で、飛鳥時代に建てられました。一見金堂は2階建てに見えますが、見た目だけの2階建てで実際は1階のみです。柱の途中が膨らんだ形のエンタシスの柱はその美しさが特に有名で、金堂の柱の数は回廊の柱の本数と同じです。また軒の重量を支える雲斗・雲肘木の美しさも必見です。堂内には釈迦三尊像(国宝)、阿弥陀三尊像(重文)、四天王立像(国宝)、吉祥天・毘沙門天立像(国宝)が安置されています。
<堂内の像をWebサイトから掲載>
〇釈迦三尊像(国宝)
〇阿弥陀三尊像(重文)
〇四天王立像(国宝)
〇吉祥天・毘沙門天立像(国宝)
<大講堂>
西院伽藍最大の建築物で金堂・五重塔の奥に建てられています。創建時は北側の回廊の外に独立して建っていましたが延長3年(925)に焼失し、正暦元年(990)ほぼ元の規模と同じ大きさに再建されました。堂内には薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重文)を安置しています。
<堂内の像をWebサイトから掲載>
〇薬師三尊像(国宝)
<大宝蔵院>
大宝蔵院は百済観音堂を中心に東西の宝蔵からなる建物で、法隆寺の寺宝を収蔵、公開しています。中でも百済観音像(国宝)、玉虫厨子(国宝)など法隆寺を代表する文化財指定されている宝物がたくさん展示されています。
<堂内の像をWebサイトから掲載>
〇百済観音像(国宝)
〇玉虫厨子(国宝)
<東院伽藍(夢殿)>
聖徳太子没後、供養するために高僧行信によって創建された法隆寺の東院伽藍。
夢殿として有名になっている奈良時代の八角円堂には、聖徳太子の等身大とされる観音菩薩立像(救世観音)が安置されています。救世観音像は国宝に指定されていて、普段は一般公開されてなく拝見できませんが、春秋に開催される特別開扉のときに見ることができます。
観音菩薩立像をWebサイトから掲載。
2.中宮寺。
創建時以来の尼寺。聖徳太子が母、穴穂部間人皇后のために建てた御所跡を寺にしたと伝えられ、大和三門跡寺院の一つにあげられています。飛鳥時代後期の作である本尊の菩薩半跏思惟像(国宝)は、モナリザ、スフィンクスと並ぶ世界三大微笑像の一つ。右足を組み、右手の指を頬に触れようとする半跏思惟の美しい姿、気品のある微笑みは和辻哲郎もその著書「古寺巡礼」で絶讃するほどです。
<菩薩半跏思惟像をWebサイトから掲載>
以上で法隆寺の旅を終了します。
帰る頃には、多くの修学旅行生が参拝していました。
”かずタビ”を最後まで読んでいただき、ありがとうございました
ブログは月曜と木曜の朝に更新していますので、次回も読んで下さいね
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