シリーズ これでいいのか選挙制度
世界でも異常な“べからず法”
市議が選挙前に後援会ニュースを会員に配っただけで選挙違反で逮捕される。公務員が休日にビラを配ったのも国家公務員法・人事院規則の制限違反だと逮捕―政治活動の自由を脅かす相次ぐ弾圧事件の背景には、「べからず法」と呼ばれる公職選挙法をはじめ、世界でも異常な日本の選挙運動規制があります。日本共産党の井上哲士参院議員事務所が依頼した国会図書館の調査をもとに、日本の選挙運動規制を国際比較しました。(佐久間亮)
戸別訪問禁止日本だけ
日本国憲法は、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」(前文)するとしています。そのために、「国民の参政権」(一五条)、「思想および良心の自由」(一九条)、「集会、結社、表現の自由」(二一条)などを保障しています。
日本も批准した国際自由権規約も、「不合理な制限なしに」「直接に、又は自由に選んだ代表者を通じて、政治に参与すること」を市民の権利として定めています。
国民が、自ら積極的に選挙運動にかかわり、そのことを通じて政治的な意思を形成することは、市民の権利であり、主権在民の重要な中身なのです。
ところが、日本の公職選挙法は、自由であるべき選挙運動を原則的に禁止し、その上で特定の選挙運動についてのみ限定的に認めるという方法をとっています。
投票依頼を目的とした戸別訪問の禁止(公選法一三八条)、事前の選挙運動の禁止(一二九条)、ビラやポスターなど「文書図画」の事細かな制限(一四二条、一四六条)などはその一部です。
このような厳しい選挙規制は、国際的にも異常なものです。(表)
表にあげた主要八カ国(G8)はもちろん、世界の国で戸別訪問を全面禁止しているのは日本などほんの数カ国だけです。カナダでは、アパートやマンションの管理人は戸別訪問を妨害してはならないという規定さえあります。マレーシア、インド、パキスタンなどアジア各国でも認められています。
事前の選挙運動については、アメリカ、イギリス、ドイツ、カナダで選挙期間の規定そのものがなく、選挙期間があるフランス、イタリアでも事前運動規制の概念はありません。
「文書図画」についても、フランス以外の主要国には原則として規制がありません。日本で禁止されているインターネットでの選挙運動も、アメリカ、イギリス、ドイツでは一般化しており規制もありません。
公務員の運動規制も
日本は各種の法律や規則によって、公務員の政治活動・選挙運動を包括的に禁止しています。
国家公務員法一〇二条一項は「職員は…人事院規則で定める政治的行為をしてはならない」と規定。これを受け、人事院規則一四―七の五項は「公選による公職の選挙において、特定の候補者を支持し又はこれに反対すること」(一号)などを禁止しています。
これは、占領期に連合国軍総司令部(GHQ)が公務員労働者を弾圧するために、国会審議も抜きに日本に押し付けたものです。国際自由権規約やILO(国際労働機関)一五一号条約にも反する法規です。
地方公務員も、刑事罰の適用はありませんが、国家公務員同様の禁止規定が課されています。
これも、ドイツ、イタリアには公務員の選挙運動を規制する法律自体がなく、アメリカも公権力の行使を禁止する条項があるだけです。イギリス、カナダは選挙管理官が特定の候補者の選挙事務長へ就任することを禁止した条項などはありますが、公務員一般に関する制限はありません。
有料広告は制限なし
いまや「選挙は、広告代理店にとって、オリンピックなどのスポーツイベントに匹敵する収穫期」(『電通の正体』)ともいわれます。草の根での選挙運動を厳しく規制する一方、テレビCMや新聞広告には制限がありません。
巨額の資金を必要とする商業広告は影響力が大きい半面、資金力の有無がものをいいます。しかも自民党、民主党などの広告料の原資は国民の税金である政党助成金。憲法違反の助成金を多く受け取っている政党ほど有利です。
有料の政治広告が自由なアメリカでは、選挙CMが重要な位置を占め、大統領選挙の最終候補は五千万ドルから一億ドルもの広告予算をつぎ込むといわれます。
しかし、イギリス、イタリア、フランスなど有料放送での政治広告を原則禁止している国もあります。
カナダは有料放送枠の三分の一を各政党に平等に配分し、残りは下院の議席数と直近の選挙の得票数に応じて配分します。
党略につぐ党略の歴史
事前運動や戸別訪問の禁止、文書配布の規制は、一九二五年の普通選挙法施行と同時に持ち込まれました。
戦後、選挙権も女性参政権を含む二十歳以上の成年者に拡大。文書の配布なども大幅に緩和されましたが、戸別訪問の禁止は残りました。
さらに、歴代の政府・与党は、選挙で民主的な草の根の選挙運動が威力を発揮するたびに、党略的な規制強化を繰り返してきました。
一九七〇年の京都府知事選では、民主府政の蜷川知事の実績や政策を訴えた候補者名入りの機関紙号外などが威力を発揮。政府・自民党は、選挙期間中の政党・確認団体の機関紙配布を制限し、候補者名の書けない法定ビラに限定しました。
七二年の総選挙で、日本共産党・革新共同が三十九議席を獲得し、七五年に東京、大阪、神奈川など三十七自治体の首長選で革新統一候補が勝利すると、政党・政治団体の機関紙号外に、選挙期間中に候補者名を入れることや、選挙に関する報道・論評を禁止しました。
政党の宣伝カーや拡声機の使用規制に対抗して編み出された機関紙宣伝カー、パンフレット宣伝カーも八一年と二〇〇〇年の公職選挙法改悪で禁止されました。
選挙運動規制の歴史は、国民の要求をおさえつけ、日本共産党をはじめとした民主勢力の議会進出を阻もうとする歴史そのものです。
七二年の総選挙で、日本共産党・革新共同が三十九議席を獲得し、七五年に東京、大阪、神奈川など三十七自治体の首長選で革新統一候補が勝利すると、政党・政治団体の機関紙号外に、選挙期間中に候補者名を入れることや、選挙に関する報道・論評を禁止しました。政党の宣伝カーや拡声機の使用規制に対抗して編み出された機関紙宣伝カー、パンフレット宣伝カーも八一年と二〇〇〇年の公職選挙法改悪で禁止されました。
選挙運動規制の歴史は、国民の要求をおさえつけ、日本共産党をはじめとした民主勢力の議会進出を阻もうとする歴史そのものです。
現職・世襲有利の日本の制度
日本の選挙制度は、世界でもまれにみるほど、現職や世襲に有利な仕組みになっています。
日本では、1994年の選挙制度改革で、小選挙区比例代表並立制が衆議院に導入されました。この制度では、候補者は小選挙区で負けても、比例代表で復活することができます。この仕組みが、現職や世襲に有利に働いています。
中選挙区から小選挙区に変わっても、選挙の実態は変わりませんでした。選挙戦は、いわゆる「ジバン(地盤)、カンバン(看板)、カバン(鞄)」の「三バン」で戦います。それにより、現職や世襲は一定の票数を確保できます。その結果、たとえ小選挙区で負けても、比例で復活することができます。これが現職・世襲有利の背景になっています。
現職や世襲有利ということは、新規参入が阻まれるということです。各国がクオータ制を導入するなどして女性議員を増やしてきた一方、何もしなかった日本は、政治分野の男女平等で世界から大きく取り残されてしまいました。
また、この制度の下では、党の公認がなければ候補者は選挙戦を戦えません。その結果、党執行部が公認権と政治資金の流れをコントロールする動きが強まり、自民党の中央集権化、トップダウン化が進みました。小泉政権下の自民党の中央集権化に伴い、執行部は非主流派を排除しました。それにより党内の右傾化が進みました。
選挙制度改革から約25年がたちましたが、自民党には有力な国会議員が育っていません。72歳の菅首相、82歳の二階幹事長、80歳の麻生副総理のように、同じ面々が権力を握り続けています。この背景には、新陳代謝を促さない、現職や世襲に有利な日本の選挙制度があると言えます。
自民党が勝てる理由
日本の政治の現状は、有権者の声を正確に反映しているとも言えません。
私が注目しているのが、絶対得票率です。絶対得票率は投票を棄権した人も含め、すべての有権者を母数にし、何割の得票があったのかを測る数値です。
絶対得票率をみると、自民党は、2000年代初頭の森政権以降、小泉政権時の総選挙で20%台になったほかは、13〜18%程度で推移してきました(比例区)。すべての有権者の2割にも満たない得票しか得ていない政党が、小選挙区制の作用の結果、議席を占有しているのです。
驚くべきは、2012年の総選挙以降、安倍政権はすべての総選挙で、自民党が2009年に民主党に大敗した際の得票数に達していないのです(グラフ)。つまり、自民党は選挙に負けたときの得票数に達していないにもかかわらず、衆議院の圧倒的多数の議席を占め続けてきたのです。これは驚くべきことです。
なぜこんなことが可能なのか。第一に選挙の投票率が低いからです。投票率が低く、固定層からの得票と公明党票の上積みがあるから、自民党は絶対得票率が低くても、選挙で勝つことができます。
この状態を続ける秘訣は、低投票率を維持することです。森元首相がかつて、「(無党派層は)寝てしまってくれればいい」と発言したのは、投票率が上がると、この戦略が崩れるからです。
絶対得票率が低くても自民党が勝てるもう一つの要因は、野党票が割れることです。この二つの要因によって、自民党は政権を維持してきました。
低投票率が勝利の秘訣ということは、政権維持のためには、多くの有権者に投票を棄権してもらった方がいいということです。有権者に支持される政策を実現するよりも、政治にうんざりしてもらって投票に行かない人が増えた方が、自分たちに有利になる。菅政権の政策が民意とかけ離れても、政権が揺るがないのは、そのためです。こうした状況が果たして健全なのか。ぜひ考えてみてほしいと思います。
ネットオークションで、ある部品を手に入れました。
BORG M57/60延長筒S【7602】
メーカーHPにはこうあります。
M57サイズのまま12mm延長することが出来ます。内径53mmと広いのでM57ヘリコイド【7857】やミニミニドロチューブ【7205】との併用も可能です。重量14gと非常に軽量なのでバランスを崩すことなく延長することが出来ます。内側の内側の遮光線及び艶消しも万全です。
<延長筒の効用>
野鳥や昆虫の撮影時にBORGに延長筒を装着すると、より近距離にピントが合うようになります。近すぎて諦めていた超近距離の撮影が可能になります。基本的には、延長筒を足せば足すほどいくらでも寄れるようになりますが、足せば足すほど遠距離が犠牲になるのと、前後のバランスが崩れますので、限界はあります。
PENTAX K10D+ミニボーグ50(アクロマート)というこれまたレアな取り合わせ。しかも、いつもの PENTAX AFadapter1.7X (AFアダプター)によるオートフォーカス化ではなく、YAHOOオークションで入手した全玉抜き(もともと付属しているレンズをすべて取り去った)Tokina AF 100-300mm/5.6-6.7の鏡筒に、アダプターを介してBORGレンズを取り付けるという荒技を実験してみました。ミニボーグ50(アクロマート)は、BORG望遠鏡レンズの中でも、最もリーズナブルな廉価レンズで、EDレンズやFLレンズなど比べると、性能的には歴然とした差がありますが、この写りなら、お値段以上と言うべきでしょう。飛翔するシラサギ。AFが、このレベルで効きます。
谷保天満宮(やぼてんまんぐう)は東京都国立市にある神社。甲州街道沿いにある。社伝によると、903年(延喜3年)に菅原道真の三男・道武が、父を祀る廟を建てたことに始まるという。府社。式内社穴沢神社の論社でもある。概要東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれる。南武鉄道(現:JR南武線)が谷保駅の駅名を「やほ」としたため、地名の「谷保」までも「やほ」と言うようになってしまったが、本来の読み方は「やぼ」である。江戸時代の著名な狂歌師の大田蜀山人(南畝)が、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」と詠み、ここから「野暮天」または「野暮」の語を生じたと逸話に伝える。
おかがら火(庭燎祭)(午後6時)
本社拝殿の前に高さ3メートルにも及ぶ2基のマキの山を積み、午後6時に一斉に点火します。 炎の高さを競い御神木の転倒を防ぎ合う、関東における奇祭の1つと言われています。おかがら火にあたると悪い病気にかからないと言い伝えられています。
この行事は養和元年(1181年)11月3日に天神島から現在の地に谷保天満宮が遷座した際、その残木を神前で焚き上げたことか ら始められたと言われています。
当日、並行して、うそ替え神事も行われます。うそ替え神事
11月2日と3日の両日、「うそ鳥」をお頒ちし、これを他の参拝者と交換し合うことによって、その年心ならずも話したり行ったりしてしまったうそやいやなことを帳消しに し、うそとして吉にとり(鳥)替える、とされています。
「うそ」とは、「うそ」という小鳥の形を柳の木を刻んで作り、腹部に空洞があり中に天満宮のおみくじを蔵しています。谷保天満宮 の「うそ鳥」は端正でユーモラスな風体が特色となっています。11月11日(土)
一の酉
11月23日(木)
二の酉大鷲祭(おとりさま)
酉の日には開運熊手を社務所にてお領ちしております(9時~17時、初穂料500円)。
尚、一の酉の夜に境内で酉の市を行います。11月23日 新嘗祭(にいなめさい)・奉納野菜即売会(10時30分~)
五穀を奉納する神事です。その後、境内で地元農家のとれたての野菜の即売会が催されます。
今日はこれにて。
「ホ・チ・ミンは米国との戦いが頂点に達していた1969年9月2日、この世を去った。三通の遺書を残していた。ホ・チ・ミンは遺書の中で、こう訴えている。戦争で負傷兵となったもの、殉職したものの父母、妻子で困っているものに生計の道を立てられるようにして、彼らが飢えたり、凍えるままに放置してはならない。戦争に勝ったら、農業税を一年間免除すること。遺体を火葬にして、遺灰を三つに分け、北部、中部、南部の人たちのために、それぞれの地域の丘陵に埋めて欲しい。丘陵には、石碑、銅像を建てず、訪問した人たちが休むことができるような建物、記念に植樹ができるようにしてもらいたい。日がたてば、森林となるだろう。」「眠っているようだが、いまにもすっとたちあがることができるような、生命が宿っているようだ。正直に言うと、彼の遺言通りに、静かに眠らせたいと思う。聞けばソ連の遺体処理専門家が遺体の処理をしたという。ヴェトナム人の気持ちには合わない。」
ホーチミンの性格には他にも何ものかがあって、他のいかなる最高の政治家にも、(より人間的と見られる二人だけをあげるが)ガンディやネルーにさえ認めがたいものである。それは孔子が「恕」と呼んだものである。正確にそれに対応する言葉は、英語にはない。しいて近い言葉を挙げれば、人間はみな兄弟であると自覚している二人の人間の間のあの反応という意味での”相互関係”である。ホーの本能は頭脳からというよりはむしろ、こころから発するものだったように見える」「ベルナール・ファルが提起しているように、『ホーはいつも親しく、いつも近づきやすく、いつも本当のおじさんだった。これを毛沢東、または周恩来さえもが持っていたよそよそしさや厳しさと比較すべきである』」(Ⅳマルクスレーニン主義者)「1967年正月のよく晴れわたったある朝、私たち12人(日、米、仏、オーストラリア人)はホ-・チ・ミン主席とファン・ヴァン・ドン首相に会見するために、ハノイの大統領官邸を訪れた。(中略)私たちが首相と話し合っていると、いまはいって来た正面玄関とは反対の廊下からホー主席があらわれる。みんな一斉に立ち上がって拍手。白人の何人かが近寄って握手しようとすると、ホー主席は笑いながら出された手を払いのけるようにして、皆さんまずお座りなさいという身振りをする。みんなが座るのを見とどけてから、ホーおじさんは立ちあがり、ポケットから名刺大の紙を取り出して、それを見ながら例のユーモアたっぷりに、『ただいまから点呼をやります、名前を呼ばれた人は手をあげて返事をしてください。』という。(中略)みんなが笑う中で、ホーおじさんの”点呼”に『ウィ』『はい』『イエス』の各国語が飛びかう。それが一段落つくと、ホー主席は開口一番、『皆さん、ベトナムへ来て、よく食べていますか、よく眠れますか。よく食べて、よく眠らなければ、良い仕事はできません。』と言う。ホーおじさんの口癖である。」(訳者解説)
20階建ての巨大な高級ホテル”ハノイ・ソフィテルプラザ”は、チェック・バック湖とホン川の間に位置し、さらにハノイで最も美しいといわれる西湖をのぞむことができる抜群のロケーションにあります。集客数はハノイでもトップクラスで、各国のVIPが滞在することからもセキュリティーの高さがうかがえます。東南アジア初という開閉自在の屋根付きプールなど施設も充実しており、最高のホテルライフを満喫できることまちがいなしです!
松本清張全集 (34) 半生の記,ハノイで見たこと,エッセイより
三月十九日午後五時、私と朝日新聞の森本哲朗君とはICC(インドシナ国際休戦監視委員会の連絡用飛行機)の座席に座った。ベルトを締めたものの、互いに顔を見合わせた。ビエンチャン空港の東の空は厚い雲に閉ざされている。これまでこの空港からだけでも四回この古い四発のストラトライナー機に乗ったのだが、その都度、ハノイの天候が悪いというので飛べなかった。一度などは、ラオスと北ベトナムの国境にあるアンナン山脈の上に出ながら引き返したものである。(中略)五時半、とにかく、機はビエンチャンの空港を離陸した。とにかくというのは、飛び立っても目的地に行かないことがたびたびだったからだ。コントロールタワーのラジオ・ビーコンが故障するという珍事でも分かるように、この空港は日本のローカル線なみである。その代わりラオス空軍機がいかめしく並んでいる。飛び立った飛行機は同じ空を旋回するばかりで容易に舞え西住まなかった。蛇行しているメコン河に夕日が映え、河畔のビエンチャンの細長い町も上から眺めるとなかなか風情があるが、その風景が窓から繰り返し回ってくる。機は狭い範囲の空を渦巻きながら、直昇しているのである。これには理由があって、ある人の話では、山岳地帯上に入ると、ときどきパテト・ラオ軍が射撃するので、それを避けるためにという。米機やラオス政府軍機に爆撃されている彼らは、雲の上の爆音を聞けば何でも撃つのだそうである。(中略)夜になった空に、翼の右についた青ランプ、左についた赤ランプの光がさえた。この標識が国際休戦監視委員会で決まった「曜日・時刻・コース」などと友に連絡機であることを北ベトナム軍とアメリカ軍の双方に確認させているのである。戦争する当事国の間を細々とつなぐ一本の平和の糸の上をいま、われわれを乗せたICC機は頼りなげに滑っている。戦争に対してジュネーブ協定の無力さを表徴しているような小さな、旧式の飛行機だった。この機が必ずしも安全でないことは、数箇月前アメリカの爆撃機がICC機の後ろからハノイに忍び込もうとして危うくICC機まで撃ち落とされそうになったことでもわかる。また、いま乗っている四十過ぎのスチュワーデスの夫はICC機のパイロットだったが、数年前この国境地帯で消息を絶った霧で、撃墜されたか故障によるものかいまだに真相は不明だという。(中略)七時二十分、窓の下に都市の灯が見えてきた。ついにハノイにきた。紅河らしい黒い帯のふちを車のヘッドライトが一列に進んでいる。家々にも灯がついている。予想に反して灯火管制は行われていない。機はそれらの風景を窓に繰り広げながら舞い降りる。車輪が地に着く軽いショックは、ハノイにきたという全身の手応えであった。
いま、世界の焦点となっているハノイには入国の申し込みが世界中のジャーナリストや作家から殺到し、ハノイの係官の机の上には、以来の手紙や電報がいつも三十センチ以上の高さに積まれているということだった。そのことは一九六六年のクリスマスにハノイにはいったニューヨーク・タイムスのハリソン・ソールズベリ記者も書いている。ソールズベリは、北ベトナム政府に対して執拗にハノイ入りを手紙や電報で頼み続けていたが、クリスマスの近いある日、ついにハノイから一通の招待電報を受け取る。彼はその電報を机の上に置き、タイムスの外報部長と、これがそうでしょうかね、と半信半疑で眺めたものだった。それほど資本主義国からのハノイ入りは困難なのである。
「これを見てください。人間の遺体を手にして、笑っているんですよ。なんということでしょう。相手を人間だと思ったらこんなことはできるはずがありません。」何度も何度も、観光客を案内してきたはずですが、この写真の前ではいつも、憤懣やるかたない思いにかられるのでしょうか。あたかも自分が叱られたかのように、身を縮めながら、写真を正視できずにいる私でした。
戦後日本の路上の靴磨き少年、あるいは花売りの少女、はたまた、「ギブミーチョコレート」を口々に唱えながら、進駐軍のジープに、争って痩せた手を差し出したかつての子どもたち(私たちよりわずかに年上の世代でしょう)の像と、なぜかダブって、痛ましさを禁じ得ません。誇りもモラルも崩れ落ちた敗戦日本の混乱状況ではなく、「日本、フランス、アメリカの三つの帝国主義を追い払った一小国という名誉」を誇りうるベトナムで、その未来を継ぐ子どもたちが見せるこの状況は、「生活のため」のみでは説明されない「拝金主義の毒」を感じずにはいられないのです。しかも、子どもたちが差し出す手は、間違いなく日本人というターゲットにまっすぐ向けられています。改めて、日本および日本人の立場について、思いを致さないわけには行きません。つづく
翌朝午前八時ホテル発。念のために付け加えますと、ホテルは外国人向けの一流ホテル。冷房完備で肌寒いほど。朝食のバイキングのメニューも豊富、味も上々です。フランス統治のなごりか、コーヒーはとても美味。フランスパンの味も格別でした。
バスの車窓から眺めるサイゴンは、「生き馬の目を抜く」という死語を思い出させるようなエネルギッシュな活気に満ちています。道路沿いには多彩な小商店が立ち並び、道ばたにも、果物、野菜、食品、小間物などをとりどりに積み上げた露店が、思い思いに場所を占めています。そのあちらこちらで、人だかりあり、通行人とのやりとりあり、近隣同士の語らいありで、日本のさびれた商店街を見慣れた目には、人々の豊かな交流・コミュニケーションに彩られた日常の姿が、ひどくまぶしくうらやましく感じられました。
]]>児島湖に常山(児島富士と呼ばれる)が映って、逆さ富士が現出します。真夏の空がまぶしい季節です。(7/6撮影)連休、久々の雨が続き、今週はまた真夏の様子。クマゼミが早や競い鳴く朝八時皆様お達者で新ブログ「ナードサークの四季vol.2」の、今日付の記事にも,逆さ児島富士を載せておきましたのでそちらもご覧いただければ幸いです。