昭和初期の詩に
てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った。
という、際だって短い作品があります。
ドイツ文学遊歩ホームページというwebサイトの、「ただ一度だけ」という項目の冒頭に、
◇ てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った。と題する秀逸な文章が掲載されています。
その一部を、無断で引用させて戴きます。
安西冬衛の一行詩「春」。 詩集『軍艦茉莉』(昭和4年刊)所載。 初出はその2年前、詩誌「亜」。 「てふてふ」は旧仮名遣いで、今日では「ちょうちょう(蝶々)」。 「韃靼海峡」はシベリアと樺太(サハリン)の間の海峡で「間宮海峡」のこと。 作者は大連(旧満州)の港にいて、実際に蝶が一匹大陸から樺太の方に向かって飛んで行くのを見た、それがきっかけだという。 とはいえ、想像やフィクションの要素がない、とばかりは言えないだろう。本当に一匹だったのか、春だったのか、など…。 ともあれ、ある種の蝶は海を渡って移動する。 アサギマダラという種類らしい。
アサギマダラ 以上がこの詩についての基礎知識。 もともとは てふてふが一匹 間宮海峡を渡って行った 軍艦北門の砲塔にて となっていたらしい。 さらに、もし「てふてふ」が「ちょうちょう」、「韃靼海峡」が「間宮海峡」となって…「ちょうちょうが一匹 間宮海峡を渡って行った」…では、内容は同じなのに、詩にならない。 どうして? について多言を弄するのは野暮であろうが、「韃靼海峡」には音声面での効果があって、それに比べると「間宮海峡」は響きがおとなしい。「てふてふ」との対立・落差がなくなり、緊張感が消える。 意味的なイメージの点でも、実際の韃靼人=タタール人や間宮林蔵とは無関係に、「韃靼海峡」には「間宮海峡」にない荒々しさがある。勇猛豪胆な「韃靼」の荒海(海峡)と、はかなげにして優雅なる「てふてふ」の対比、強大なるものにか弱きものが挑むけなげさ、だけでなく、そこはかとない諧謔味もこの詩にはただよう。「てふてふ」にはユーモアがある。 その上、「てふてふ」と「韃靼」の字から来る視覚的な対蹠性が加わる。 「韃靼」は画数も多く、音声面に劣らず剛直で猛々しい感じを与えるのに対して、「てふてふ」は前聴覚的・視覚的に蝶の羽の動きを模していて、声に出して「ちょうちょう(蝶々)」と読んでも、脳裏にはなお「てふてふ」の残像が残って、蝶が揺れながら舞い飛ぶさまが目に浮かぶ。 最終バージョン・決定稿でなければ後世に残らなかっただろう。 | |
この詩は高校生時代に読んで印象深く記憶していましたが、ぼんやりと抱いていた感想が、この解説によってはっきりとし、すとんと飲み込めた気がしました。この場を借りて感謝を申し上げます。
ところで、「ダッタン海峡」と題する冊子が、私の手元にあります。
以前この記事で、触れたことがありました。
◇多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻
高知出身の 反戦詩人槇村浩(まきむらこう)の生誕一〇〇周年を記念して刊行された冊子です。表題の「ダッタン海峡」は、槇村のこの詩にちなみます。
ダッタン海峡 ――ダッタン海峡以南、北海道の牢獄にある人民××同志たちに―― 槇村浩 春の銀鼠色が朝の黒樺を南からさしのばした腕のように一直線に引っつかんで行く 凍った褐色の堀割が、白いドローキの地平を一面に埋める ―――ダッタン海峡! ふいに一匹の迷い栗鼠が雪林から海氷の割れ目え転げ落ちる とたん、半分浮絵になった銅チョコレート色の靄の中から、だ、だ、ただーんと大砲を打っ発した 峡瀬をはさんで、一つの流れと海面からふき出した一つの島がある 土人は黒龍江を平和の河と呼び、サハリンを平和の岩と呼んだ かつて南北の帝国主義の凝岩がいがみ合ったところ いま社会主義の熔流が永遠の春を溶かそうとする 見はるかす シベリヤ松とドウリヤ松の平原の釘靴帯 粘土の陵堡砦が形造る部落部落のコルホーズ 孤立したパルチザンの沼沢をめぐる麦と煉瓦と木材の工場群 おゝ、サヴェスチカヤ湾………おゝコモールスカヤ市………おゝバム鉄道……… その名を聞くたびに身内をめぐる新鮮な身震いを感じ ウスリの少女らが頭に巻くハネガヤの花のような芳醇さを疲れた胸に吹き込む それらの名前は 数万の、ロシヤと中国とウクライナと白ロシヤと高麗と日本の定住した民族の生活圏を、美くしく合成する第二次五ヶ年計画の完成を貫いているんだ! おゝ希望の湾………おゝ青年の市………おゝ、北東の頭蓋を覆う××(1)鉄道……… (後略) |
「青空文庫」に依ります。伏せ字は「革命」だそうです。
ネット上に槇村浩生誕一〇〇年(2012年)について述べた、記事がいくつかありました。まずは、槇村の出身地高知県の地元紙「高知新聞」の記事から。
『小社会』
2012.06.02 朝刊
きのうは高知市出身の反戦詩人槙村浩(こう)の生誕100年だった。記念の講演会がきょう、同市内で開かれる。槙村は悪名高い治安維持法違反で逮捕され、激しい拷問がたたって26歳で早世した
▼生前の槙村と親しかった人を、一人だけ知っている。県選出の社会党衆議院議員だった故井上泉さん。もう20年以上も前に、「槙村浩全集」を贈っていただいたことがある。井上さんは全集の編集・発行人の一人だった
▼槙村の最初の反戦詩「生ける銃架」、代表作「間島パルチザンの歌」…。ほとばしる波のように紡がれる言葉の迫力に圧倒された。槙村の早熟の天才ぶりを示すいくつかの逸話も、全集で知った
▼井上さんは兄と親しかった槙村の影響で、「プロレタリア文学」などに投稿し始めた。槙村は井上さんを実の弟のようにかわいがり、静かな口調ながら、厳しく原稿を手直ししてくれたという(「遠き白い道」高知新聞社)
▼井上さんは同著で「槙村とともに闘った旧友が次々と亡くなる中、今に生きる私が槙村を語るのは、ある意味で努めでもありましょう」と話していた。閃光 (せんこう)のように散った詩人の青春の記憶を、時はいや応なしに押し流す。一方で作品を通じて研究が深まり、再び見直しの機運があるのは喜ばしいことだ
▼もし槙村が生きていれば100歳。「神童」とうたわれた若き俊英の命はその4分の1ほどで奪われた。つくづく戦争の愚かさを知る。
高知新聞社
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つぎは、槇村が属し、その故に治安維持法による弾圧の対象となった日本共産党の機関紙「赤旗」の記事です。
文化/反戦詩人・槙村浩生誕100年/「間島パルチザンの歌」に新たな光/高知と朝鮮人民つなぐ
高知出身の反戦詩人、槙村浩。ことしは生誕100年です。日本の支配に抗して蜂起した朝鮮人民をうたった「間島(かんとう)パルチザンの歌」(1932年)。この詩の舞台・間島と高知とのつながりも生まれ、あらためて光が当たっています。
児玉由紀恵記者
〈思い出はおれを故郷へ運ぶ/白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え―〉
印象的な詩句から始まる「間島パルチザンの歌」。間島は、現在の中国延辺(えんぺん)朝鮮族自治州にあたる地域。詩は、朝鮮を統治する日本軍に抵抗する抗日パルチザンの青年(おれ)を主人公にしています。
貧窮にあえぐ朝鮮民族の姿や、「大韓独立万歳!」を掲げた19年3月1日の朝鮮全土での蜂起と日本軍の大弾圧。さらに国際連帯を奏でる200行近い長詩が劇的に展開し、終連近くではこううたわれます。
〈おれたちはいくたびか敗けはした/銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした/だが/密林に潜んだ十人は百人となって現れなんだか!/十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!〉
この詩が発表されたのは、プロレタリア作家同盟の機関誌『プロレタリア文学』1932年4月臨時増刊号でした。
多喜二虐殺の時代
前年9月には、「満州事変」が勃発。天皇制の専制政治、アジアへの侵略に反対するプロレタリア文化運動の刊行物などは、発売禁止となり、持っているだけで捕らわれたりしました。33年には、小林多喜二が虐殺されています。
この詩が、発表の数年後には、舞台である間島地方に伝えられていたことが明らかになりました。延辺に住んだ作家の戸田郁子さんが、『中国 朝鮮族を生きる』で、そのことを伝えています。戸田さんの恩師、延辺大学の歴史学者が小学生のころ(35、36年ころ)の話。日本に留学経験のあった教師 が、授業中に朝鮮語でこの詩を朗読した、というのです。
日本の植民地時代に間島でこの詩が読まれていたとは! 衝撃を受けた戸田さんは2009年11月、高知を訪ねました。
「延辺をたった時は50㌢積もる大雪でした。高知に着いて南国のシュロの木や日差しの温かさに驚き、ここで育った詩人が、あの間島の風景 や厳しい冬の季節を描いたのかと、胸に迫るものがありました」と戸田さん。若い日、韓国で歴史を学びながら、槙村のこの詩に民主化をめざす韓国の人々のた たかいを重ねていました。「戦時中にこれほど朝鮮人に寄り添った日本の詩人はいません。どれほど尊いことかと思います」
2日に高知市で開かれた「槙村浩生誕100周年記念のつどい」。戸田さんは、ここで講演し、槙村の詩でつながった延辺と高知をさらに太くつなぐ「懸け橋になろう」と呼びかけました。
槙村浩の会会長で詩人の猪野睦さんは語ります。「あの時代に槙村の詩が伝わっていた話にはびっくりしました。7年近く前、文学の集いで延辺に行った時、槙村のこともこの詩のことも知られていた。槙村はここで生きていると思いました」
「記念のつどい」の成功に向けて尽力してきた高知市内の「平和資料館・草の家」の館長、岡村正弘さんは言います。「文化的な重みで〝北の多喜二、南の槙村浩〟と言いたい。9月には延辺への旅も計画しています。友好のきずなをさらに強めたいと思います」
「間島パルチザンの歌」が発表された月に検挙された槙村は、獄中での拷問、虐待に屈せず、非転向を貫きました。26歳で病没。「不降身、不辱志」(「バイロン・ハイネ」)と記した志は今も輝いています。
槙村浩(まきむら・こう)は、1912年6月1日、高知市生まれ。本名・吉田豊道。幼時から抜群の記憶力、読書力を示し、「神童」と報じられます。海南中学時代、軍事教練に反対し、30年、岡山の中学校に転校処分。『資本論』を読み、マルクスに傾倒。
31年、高知でプロレタリア作家同盟高知支部を結成し、共産青年同盟に加盟。32年、兵士の目覚めを促す「生ける銃架」、「間島パルチザ ンの歌」を発表。日本共産党の党員候補に推薦されます。高知の連隊の上海出兵に反対行動を展開し、4月に検挙。治安維持法違反で懲役3年に。拷問などで心 身を壊し、35年6月に出所。獄中で構想した革命への情熱あふれる詩「ダッタン海峡」や「青春」「バイロン・ハイネ」、論文「アジアチッシェ・イデオロ ギー」などを一挙に書き、東京の貴司山治に出版を託します。
36年、高知人民戦線事件で再検挙。翌年、重病で釈放され、38年9月3日、病没
貴司山治に託された原稿は、官憲の捜索や空襲から守られ、64年、『間島パルチザンの歌 槙村浩詩集』刊行の基に。84年、『槙村浩全集』刊行。
(2012年06月24日,「赤旗」 |
ところで、この記事の執筆者として「児玉由紀恵記者」と名前がでています。 実はこの方、大学時代の同じ学科・専攻の先輩です。 以前こんな記事を書きました。
防災の日に寄せて、の巻 この「大雨の中を嬉しき宅急便」の記事で、N先輩から送っていただいた宅急便のなかには、このポスターも入れてくださっていました。
懐かしいポスターです。 大学に入学仕立ての頃、同じ専攻の先輩女学生=Kさんのアパートの、室の壁に、このポスターが貼ってあったのが印象的でした。彼女が卒業される時、「形見分け」のそのポスターを無理にせがんで戴いたような記憶があるのですが、実物は見あたりません。
K さんは、大学卒業後上京され、政党機関誌「赤旗」日曜版の編集部に「就職」され、今も活躍されています。文化欄の紙面に署名入りの記事が掲載されるたびに、懐かしく励まされたものでしたが、最近は、若手を育てる立場で、自らの署名記事は余り書けないのよと、おっしゃっていました。
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実は、そのkさんが、児玉由紀恵記者です。
さらに実は、今週末、ここに書いたN先輩らのお骨折りで、当時の知己や遠い先輩、後輩たちが集う同窓会が高知で予定されています。
前回は2013年の夏に開かれ、↓この記事にあらましを紹介しました。私にとっては、肺癌手術を終えて、退院直後の頃でした。
懐かしい方々との再会に心弾み、指折り数えて週末を待っているところです。
ダッタン海峡を越えた蝶はアサギマダラだろうかと言われているそうですね。
以前、強い風が吹いた翌日、風に飛ばされてきたらしいアサギマダラを偶然カメラに収めたような記憶があるのですが、画像を探しても見あたりません。となると記憶そのものが疑わしく思えてきます(汗)
ところでこのチョウは?
先日郷里からの帰り道に、回り道をして和気町・自然保護センターに立ち寄った際に、見かけたチョウです。
サトキマダラヒカゲ posted by (C)kazg
下の二枚は、つい最近、深山公園で撮影しました。
サ ト キマダラ ヒカゲ posted by (C)kazg
サトキマダラヒカゲ posted by (C)kazg
画像整理の段階で、同一種だと気づき、孫の協力も得て図鑑で調べましたら、ヒカゲチョウの仲間ではあるらしいのですが、ヤマキマダラヒカゲ、ヒメキマダラヒカゲ、キマダラモドキ、ヒカゲモドキ、クロヒカゲモドキ、などなど、いずれもそっくりに見えて区別がつきません。
その中でも、より特徴が一致するのは、サトキマダラヒカゲでしょうか?
そういえば、この記事でも、サトキマダラヒカゲか?と書いていました。
名にし負う虫の原っぱ虫三昧
ところで、サトキマダラヒカゲは、漢字では「里黄斑日陰蝶」と書き、里に住む黄色の斑模様をもつ日陰蝶という趣旨の名付けでしょう。一方、アサギマダラは「浅葱斑」。浅葱色 (薄い葱の葉のような、藍染の薄い青色)の斑模様にちなんだネーミング。「浅葱」を「浅黄」と書く場合がありますがこれは誤用、ということらしい。
というわけで、まったく関連のないアサギマダラとサトキマダラヒカゲを強引に結びつけた今日の記事は、これにておしまい。お粗末でした。
覚えられそうにない名前。へへ;
でも、綺麗な蝶チョやね。^^
by hatumi30331 (2016-08-25 21:03)
プロレタリアート、現代の若者は知らないでしょうね(-_-)
by johncomeback (2016-08-25 22:04)
hatumi30331様
はい。特にカタカナで書くと、余計に覚えられなくなりますね。
by kazg (2016-08-25 23:11)
johncomeback 様
本当にそうですね。鋼鉄のように頑強な、組織された工場労働者の部隊、などというイメージは、現実社会にはマッチしないかもしれませんしね。ただ、歴史変革の主体としての自負と誇り、苦境にめげない不屈の気概、狭いナショナリズムを超えた国際連帯・グローバリズムなど、先人の遺した価値ある遺産は、決して忘れ去られるべきではなく、現代の若者によって改めて光が当てられ、さらに次の世代にまで継承されることを期待したい思いもあります。
by kazg (2016-08-25 23:40)
私が子供時代はサトキマダラヒカゲとヤマキマダラヒカゲは同一種とみなされていて,単にキマダラヒカゲと言われていました。それだけに区別は大変ですが,サトで間違いないと思います。それ以外の種はサイズ形色ともに違いますね。
by Enrique (2016-08-27 05:42)
Enrique様
ありがとうございます。
キマダラヒカゲ、聞いたことがあります。
図鑑の写真を見ても酷似していますし、種間の差異か個体間の差異か、迷うほどですね。
by kazg (2016-08-27 07:51)