今日の暦:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ
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空襲余話、の巻 [今日の暦]

  先日の記事で引用した過去記事の続きを引用します。


取り急ぎ、岡山空襲の日を走り読み、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2016-06-29)


ところで、前述の水島空襲の記事に「当時の水島航空機製作所では、日本海軍の一式陸攻や紫電改を生産しており、米軍が日本の軍需産業を破壊する目的で行った空襲であった。」とあります。
子どもの頃、貝塚 ひろし「零戦レッド」、辻なおき「「0戦はやと」などで、子ども達に人気の「零戦」などに比べて、ややレアな感のあった「紫電改」ですが、学生時代になって初めて、ちばてつやさんの「紫電改のタカ」を友人に教えられて読み、その悲劇性とともに記憶に刻みつけられた機種名でした。

ちなみに、軍用飛行機や艦船、戦車などのプラモデル製作にあこがれながら、気ままに購入できもしない子ども時代、カタログを丹念に眺めて心を躍らせたものでしたが、一番のお気に入りは、そのフォルムの際だつ三式戦闘機「飛燕」でした。独特のフォルムは、空冷エンジンを積載していたためだそうで、爆音も独特のものだったそうですね。
さらにちなみに、たまたまのきっかけで「一式陸攻」のプラモデルを作ってから、この無骨な攻撃機に親愛感と愛着を覚えておりました。ところで、妻の、亡くなった父親は、海軍で戦艦などに乗った軍人でしたが、死線をくぐって生きて復員し、90歳を越える天寿を全うしました。穏やかで、慈愛に富む人柄でしたが、天皇への崇敬と、「大東亜戦争」の「正当性」へのこだわりは、終生、曲げることがありませんでした。また、その弟(妻にとっては叔父)は、少年兵として志願していくさに赴き、10代の若さで戦死されたと聞いていました。仏壇の上の額には、戦闘服・戦闘帽を着けた凛々しい少年の遺影が飾ってあります。その戦死の模様はつまびらかでなく、遺骨も帰ってきていません。
義兄(妻の兄)が、厚生労働省などを通じて調べたところによると、戦死時に搭乗していたのは、この一式陸攻だったそうです。いのちを共にしたその愛機は、あるいは、この水島工場で生産された機体だったかも知れません。

以前も書きましたように、水島地区は、現在、行政区的には倉敷市に属します。
倉敷市は何次もの市町村合併を経て、大原美術館や蔵屋敷のたた
ずまいがゆかしい美観地区など、歴史と文化のかおる旧倉敷市街のほか、瀬戸大橋と多島美の瀬戸内海、民謡「下津井節(しもついぶし)」と、名産の蛸で知ら
れる下津井港、ジーンズと繊維の町児島、近世以来の港町玉島、ゴボウ・レンコン・ブドウ・桃などの生産が盛んな近郊農業地域等々、多様・多彩な表情を持っています。
これらとともに、水島地区を中心とした、大規模な工業地帯の存在も、倉敷市のもう一つの顔です。
第2次大戦中、三菱重工の飛行機工場がこの地に置かれたのを皮切りに、戦後、石油化学、鉄鋼、自動車などのコンビナートが集中し、日本有数の巨大工業地帯として発展、今日に至っています。
ところで、この水島地区に、亀島山と呼ばれる小高い丘があります。ここは現在、「亀島山花と緑の丘公園」として整備され、四季の花に彩られる、工場地帯のなかの憩いのスポットとしての趣を見せています。また「工場萌え」と称される一部の愛好家にとっては、林立する工場群(とりわけ工場夜景)の撮影スポットとしても知られているようです。

その亀島山の地下に全長約2000メートルの横穴が掘られています。平洋戦争末期に建設された三菱重工業水島航空機製作所(現:三菱自動車水島製作所)の地下工場の跡がそれです。三菱重工業水島航空機製作所は、空襲の被害を少なくするため、工場を分散疎開させましたが、その一つが亀島山地下工場だったのです。

この地下工場について、ずっと以前、ある機会に、こんなことを書いたことがありました。

倉敷市水島地区の亀島山の地下には,今も広大な地下トンネルが存在する。これは第二次大戦中,旧日本軍の戦闘機製造用地下工場として,秘密裏に掘られたもの。
この危険な工事に従事したのは,強制連行で徴用された朝鮮人労働者。作業中の事故,栄養失調と過労,病気,脱走への報復としての私刑などにより,多くの人々が犠牲となった。
これらを含む朝鮮人無縁仏の遺骨70数体が,引き取り手のないまま,岡山市内の大山実山住職のもとに保管,供養されていた。
これらの事実は,社会問題を学ぶ高校生たちの平和問題のとりくみのなかで掘り起こされ,あかるみに出された。生徒たちは,韓国の新聞社にいきさつを書いた手紙を出し,反響を呼んだ。これが縁となり,これら犠牲者の遺骨が,市内の高校生に抱かれて海を渡り,この4月(1990年)40数年ぶりに帰郷した。
(注 文章中の「朝鮮人」の呼称は,国籍を表すものではなく,広義に朝鮮半島出身者を意味している。)

思い起こせば、一九九〇年。今から25年も前のことですね。
当時は、「強制連行」とか「強制徴用」という概念も、まだ歴史の闇に隠されていて、発掘途上の「史実」でした。今、「歴史修正主義」の方がたが、「強制連行はなかった」「強制徴用はなかった」「従軍慰安婦はなかった」「侵略はなかった」「植民地支配はなかった」と、百万遍繰り返されようとも、この遺骨の意味を塗り替えることは不可能でしょう。

今も、この地下工場跡を保全し、歴史に学ぼうという、 市民運動が続けられていますが、その中心的活動に取り組んでいる「亀島山地下工場を語りつぐ会」 には、私の親しい友人も参加しておられます。

(中略)

この時期のテレビというと、沖縄戦の記憶も、心に残ります。昨日のNHKニュースでは、「白梅学徒隊」の経験を元に、地下壕に散った青春の悲劇を、静かに、切々と描いていました。(中略)沖縄戦というとひめゆり部隊の悲劇がまず思われます。

光も射さぬ、深く閉ざされた壕での生活は、少女たちにとって、とても堪え難い苦痛だったでしょう。しかも、自ら志した看護の仕事は、人の命を救い、健康をまもることをこそ目ざしたはずなのに、それが適わぬジレンマは、いかばかりでしょうか?


次の文章は、上の過去記事を元ネタにして書いたのものでした。


冬至雑話二題、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp)(2023-12-23)


実は私も、退職教職員の一人としてこの「ボイスアクション」のとりくみに投稿しました。多少アレンジして、別の場に書いて発表した文章を、再掲させていただきます。(個人情報に関わる点などの改変あり)


退職教職員の「ボイス(声)」 kazg

柄にもなく、ちょっと「政治的」 主張に傾くかもしれません。   

私の所属している岡山高退教(岡山県高校・障害児学校退 職教職員の会)は、全退教(全日本退職教職員の会)が提起する「全国退職教職員ボイスアク ション」に呼応して、一人一人の退職教職員が「岸田大軍拡・ 大増税STOP、改憲反対、教 え子・若者を再び戦場に送るまい」などの、切実な声を、はがきその他で発していくとりくみを呼びかけています。
私も、こんな文章で参加しました。

(1 )岡山市のOんの歌に触発され、真似てみました。
(注  Oさんは、以前、朝日新聞岡山歌壇でも入選した「イチローと同じ名前の叔父今も  南の海の底に眠れり」など、4首の短歌を投稿されています。)

戒名に「烈士」の文字を賜りし義叔父(おじ)の遺骨は今も還らず

飛行服着たる写真の義叔父(ぎしゅくふ)は少年のまま何処に眠るか

  四国出身の妻の、亡くなった父親は海軍の軍人でしたが、死線をくぐって生きて復員し、95歳を越える天寿を全うしました。穏やかで、慈愛に富む人柄でしたが、天皇への崇敬と、「大東亜戦争」の「正当性」へのこだわりは、終生、曲げることがありませんでした。

また、その弟(妻にとっては叔父)は、少年兵として志願していくさに赴き、10代の若さで戦死された由。仏壇には、戦闘服・戦闘帽を着けた凛々しい少年の遺影が飾ってあります。

その戦死の模様はつまびらかでなく、遺骨も帰ってきていません。のちに義兄が、厚生労働省などを通じて調べたところによると、戦死時に搭乗していたのは、「一式陸攻」だったそうです。

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写真は「一式陸攻(一式陸上攻撃機)」

ところで、終戦直前の「水島空襲」で主な標的とされた水島航空機製作所では、日本海軍の一式陸攻や紫電改を生産していたと聞きます。義叔父がいのちを共にした愛機も、この水島工場で生産された機体だったかも知れません。

  (2)日本の若者たち!「お国のため」「平和のため」「自衛のため」というキャッチフレーズに騙されないでください。「『お互いにだまされていた』の言訳がなんでできよう/懺愧 悔恨 懺悔を重ねても/それがなんの償いになろう(竹本源治「戦死せる教え児よ」より)の思いを改めて噛みしめ、いつか来た「殺し・殺される」道ではなく、日本国憲法がめざす、お互いが生きて輝く道を世界に広げましょう。

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  (3)ロシアの若者たち!あなたや、あなたの父母・祖父母は、若い日に、この言葉を熱く胸に刻みはしなかったでしょうか?  「人間にあって、もっとも大切なもの──それは生命だ。それは一度だけしかあたえられない。だからあてもなく過ぎ去った歳月にいたましい思いでを痛めることのないように、いやしく、くだらなかった過去に、恥辱で身を焼くことのないように、また死にのぞんで、生涯を一貫して、持てるすべての力が、世の中でもっとも美しいもの─人類解放のたたかいのために捧げられたと言いきれるように、この生命を生き抜かなければならない。(オストロフスキー)」

  いま、後悔と恥辱で身を焼くことのないように、ウクライナの無辜の民への仮借なき侵略の砲火を、直ちに止めてください。

  (4)イスラエルの若者たち!ナチスによるホロコーストにおびえながら、15歳までしか生きることを許されなかった同胞少女のこの言葉を、改めて噛みしめてください。「私は理想を捨てません。どんなことがあっても、人は本当にすばらしい心を持っていると今も信じているからです。(アンネ・フランク)」今、あなた方の政府が命じる「ハマス殲滅」の名によるジェノサイドをやめ、罪なきパレスチナの人々、なかんづく子どもたちに心を寄せ、アンネのこの願いが真に報われる世界を作り出そうではありませんか?

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「アンネのバラ」と呼ばれるバラは、  ベルギーの園芸家が作った新種のバラで、「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクの父オットーフランク氏に贈られたといいます。
一九七二年に一〇本、一九七六年に再び一〇本が、オットー・フランク氏から日本に贈られ、全国で「アンネのバラ」として育てられているそうです。
ウィキペディアにはこう紹介してありました。

アンネのバラは蕾の時は赤、開花後に黄金色、サーモンピンク、そして赤へ変色する特徴がある。これは、もし生き延びる事ができたなら、多くの可能性を秘めていたアンネを表現している。
私の知るところでは、県内で、半田山植物園のほかにも、RSKバラ園にも、また岡山市立岡山後楽館中学高校にも、植栽され、愛されています。


こんな記事も書きました。


なおもカモカモエヴリバディ、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2021-11-24-1)


23日朝放送の第17回「空襲」は、また一段と印象深い回でした。

YAHOOニュースの紹介記事をお借りします。

『カムカムエヴリバディ』妻と母を同時に亡くし…“金太”甲本雅裕の叫びに「言葉もない」

NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』(NHK総合/毎週月曜~土曜8時ほか)の第4週「1943-1945」(第17回)が23日に放送。安子(上白石萌音)たちが暮らす岡山の町にもB29が襲来。空襲が終わり焦土に残された父・金太(甲本雅裕)の悲痛な叫びに、ネット上には「胸に刺さる」「涙止まらん」といった反響が巻き起こった。

1945(昭和20)年。安子は赤子のるいを連れて橘家に帰り、久々に祖母・ひさ(鷲尾真知子)や父・金太、母・小しず(西田尚美)たちと思い出話に花を咲かせ、温かな時間を過ごす。しかしその頃、戦況は悪化の一途をたどり、B29による爆撃は東京、大阪などの市街地を襲っていた。ある日の夜、B29が岡山にも襲来。焼夷弾の音で目覚めた安子は、雉真家の人々と共に防空壕へ逃れる。一方、金太はひさや小しずを防空壕へ避難させ、消火活動へ出かける。

空襲は止み夜が明ける。防空壕から抜け出し外へ出た安子の目には焦土と化した岡山の街が映る。そして安子はがれきのそばで力なく座る金太を発見。表情も変えず呆然とする金太に、安子が「お母さんとおばあちゃんは、どこ?」と尋ねる。すると金太は一点を見つめたまま「防…空…壕…」とつぶやき「防空壕は…焼夷弾に焼かれて…中のもんは皆…」とまで話すと一変。苦もんの表情を浮かべながら「わしが…言うた…“あの防空壕に…入れ”いうて…“待っとけ”いうて…」と言葉を絞り出す。安子も状況を理解し「お母さん…ばあちゃん…」とつぶやくと、金太は「小しずー! かーちゃーん! すまん! すまーん!」と力の限り呼びかけ、言葉にならない叫び声をあげて泣き続けるのだった。

地元岡山出身の甲本雅裕さん演ずる金太の慟哭は、その秀逸な演技ともあいまって、胸を打たずにはいられません。それは、しかし単にドラマの中のできごとではなく、わずか75年前、ここ岡山の地で現実に人々を襲った無数の悲劇だったのでした。


【脱線】ちなみに、これは「カメカメエヴリバディ」です(汗)


雨上がりの田んぼを散歩中?のミシシッピアカミミガメです。


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もう一つ古い記事を引っ張り出してきました。


家族3題(代)噺、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2018-08-11)


今朝の地元紙朝刊の「読者のページ」に、老父の投稿が掲載されています。

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「戦争と平和」というテーマで募集があったので書いたと言います。

該当部分を拡大します。

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このままでは読みにくいでしょうから、文字に起こしてみます。

若者に絶対駄目と願いたい

○○○○ 91 (美作市)

年を重ねても昔のことはよく覚えている。 「欲しがりません勝つまでは」と教育された。国民学校高等科2 年で卒業して、東京の軍需工場へ就職した。 先輩の指導を受けて、油だらけになり懸命に働いた。会社には私立の青年学校があり、ほとんどが軍事教練だった。
戦争は激しくなり、東京の空には毎日のよぅに米軍機が偵察に来るようになった。19 45年3月10日、東京大空襲があり10万人以上の人が命を失つた。 5月25日の大空襲では、庭の防空壕に避難したのでみんな助かった。が、工場も寄宿舎も丸焼けになったので命からがら田舎へ帰った。
8月には広島、長崎に原子爆弾が落とされ大勢の人が亡くなった。あと1年も戦争が続いたら徴兵検査を受けて軍隊に入り、現在の自分がなかっただろぅと思うと戦争の恐ろしさをつくづく思う。
あのひどい戦争の状況を知る人が少なくなった今、戦争を知らない若い人に、戦争は絶対駄目だと強くお願いする。

子どもの頃から、折に触れてその端々は聞いたことのある昔話ですが、詳細のところは知らず、初耳のところもあります。わずか一代の間でさえ、語り伝えることが容易ではないのだと改めて思います。

戦後73年、みずから戦争体験を持たないだけでなく、先人の戦争体験を傾聴する姿勢を自覚的に育てることもなく大人になり、その欠如に気づかないような指導者やその取り巻きが国政を牛耳る時代、戦争の実相を語り継ぐことの大切さが身に沁みます。

ところでこの投稿記事、以前、7月半ばに書いたこの記事(臍をくくる、の巻)でちょっと触れていたとおり、投稿前に、孫達と一緒に詠ませてもらっていました。

そもそもそのきっかけはと言うと、老父が地元新聞に投稿予定の記事を、孫2人が読ませてもらいました。「B29」「焼夷弾」「酷い」などの意味や読み方を確認しながら、帰りの車でもう一度2人で声に出して読み、兄が言います。「いちばんよく出てくる『戦争』という漢字は読めるだろ?3・4年生になったら「ちいちゃんのかげおくり」や「一つの花」が教科書に出てくるで。」とそのあらすじを語って聴かせます。妹は、担任のM先生が、「火垂るの墓」が悲しすぎて二回目は見たくないと言ってた。などの会話をしているので、「火垂るの墓」の話題に参加してみました。原作の野坂昭如さんを論じても始まらないので、アニメの作者を話題にしようと思って頓挫してしまったのです。
子どもたちは、正しくも「おもひでぽろぽろ」や「平成狸合戦ぽんぽこ」や「かぐや姫の物語」を上げます。それらの作品の監督、高畑勲さんのお名前がどうしても思い出せないのでした。
宮崎駿さんはすぐに思い出せたのに、なぜでしょう。

さすがに新聞編集者の方は、筆者の意図を汲んだ上で、言葉遣いや漢字表記を調整し、字数もコンパクトに縮めてくださっています。その結果、「B29」は「米軍機」に、「酷い」は「ひどい」に改められ、「焼夷弾」は省略されていますが、文章の趣旨は余さず伝えてあります。たいしたものです。


もう6年前の記事になります。91 歳とあった父は、2022年の3月に逝きました。その葬儀の報告です。


葬儀報告、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp)(2022-03-14)


生まれて初めて『喪主』というものになり、こんな挨拶をしました。

(中略 )

最近父が「自分史」の一端として書き残していた文章をまとめ、小さな冊子を作りましたが 、(中略)父の命日は3月9日ですが、翌3月10日は、東京大空襲の日です。この冊子の付録として、晩年の父が時々地元新聞 の読者欄に投稿していた文章も採録しています

(中略)
ちょうど今、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻というニュースが世界中を悲しませていますが、この「戦争は絶対ダメ」というの言葉を、プーチンさんにも伝えたいと、強く思っているところです。
さて、東京空襲で焼け出されて郷里に帰った父は 、地元の鉱山で勤労奉仕に従事している時、終戦の知らせを聞きました。「悲しいようなホッとしたような苦い思い出である」と、終戦記念日に寄せた 投稿で書いています。その時18歳でした。

(中略)

【注2】同じく過去記事参照
盆と台風と終戦記念日と、の巻

さて、今日は、終戦記念日。

今朝の地元紙「山陽新聞」の読者投稿欄に、「トピック終戦記念日」という特集が蟻、その一つに、こんな投稿がありました。

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郷里の老父が、投稿したものです。下書きは読ませてもらっていましたが、若干の字数調整や、表現の補正はあったようですが、ほぼそのまま、掲載されていました。

記録のために、文字起こしをしておきます。
74回目の終戦記念日が来た。終戦の日、私は18歳で、ある駅の引き込み線の作業に汗を流していた。
硫化鉄鉱産出で東洋一と言われる鉱山があった。軍属の人が大勢来て、軍需工場を下に作るために大きな横穴を掘っていた。
工場の材料を受けるのに必要なホームを造るために、近くの村へ動員があった。本家のおじさんが村長をしていたので、東京空襲で焼け出されて故郷の岡山県へ帰つていた仲間3人は、勤労奉仕に借り出されたのだった。
15キロもある仕事場まで、みんな歩いて行き、鉱山の集会所で雑魚寝をした。食事は軍属の人と同じく作業員宿舎があり、近くの国防婦人会の人たちの奉仕で、麦飯のおにぎり1個とジャガイモをお皿1杯だった。暑い8月に上半身裸でつるはし、スコップで作業をした。
予定は10日くらいだったが、5日目の昼ごろ集められて、軍人さんから、涙ながらに「作業をやめて帰れ」と言われた。玉音放送は聞いていないが、戦争は終わり、悲しいようなホッとしたような苦い思い出である。          


今日はこれにて。

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79年目のもの思い、の巻 [今日の暦]

6月には必ず思い出さねばならない一連の歴史事実について,今年も触れておくことにします。


もう一つの「今日は何の日」:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2015-06-22)


   

1945年の今日は、「水島空襲(みずしまくうしゅう)」の日です。
ウィキペディアの記述を引きます。

水島空襲とは、第二次世界大戦末期の1945年6月22日早朝におこったアメリカ軍の爆撃機・ボーイングB29による岡山県浅口郡連島町・児島郡福田村(現在の倉敷市水島)臨海部への空襲(戦略爆撃)のことである。
【中略】
当時の水島航空機製作所では、日本海軍の一式陸攻や紫電改を生産しており、米軍が日本の軍需産業を破壊する目的で行った空襲であった。
【中略】
倉敷市福田町古新田の水島緑地福田公園には1990年に「平和の鐘」が設置されている。これは倉敷市が1986年9月18日に平和都市宣言をしたのにちな
んで設置されたものであり、水島空襲が始まった6月22日午前8時36分に市民が平和を祈って鐘を打ち鳴らす。
 

これは、日本全土を連続的に蹂躙した本土空襲の一環であり、同じウィキペディアの記事によれば、6月だけでも、次のような都市が絨毯爆撃にさらされています。

  • 6月1日 尼崎空襲 死者231人。奈良空襲。
  • 6月10日 日立空襲 死者1200人。
  • 6月10日 千葉空襲 B29・約100機。死者152人。
  • 6月17日 鹿児島大空襲 B29・117機、焼夷弾810トン。死者2,316人、負傷者5,000人以上、家屋被災約11,600戸。
  • 6月18日 浜松空襲 死者1720人。焼失家屋15,400戸。
  • 6月18日 四日市空襲 B29・89機。死者736人、負傷者1500名、行方不明63人、被災者47,153名、焼失家屋11,390戸。
  • 6月19日 福岡大空襲 B29・239機。罹災人口60,599人(うち死者902人)。罹災家屋12,693戸。
  • 6月19-20日 静岡大空襲 B29・137機。死者1,952人 罹災人口127,119人 焼失家屋30,045戸。静岡市(現在の葵区・駿河区)は、計26回の空襲を受けたが、それ以外にも数えきれない程の機銃掃射など小規模な爆撃を受けている。
  • 6月19-20日 豊橋空襲 B29・136機。死者624人
  • 6月22日 姫路空襲.川西航空機姫路製作所とその周辺) B29・約60機、死者341人、罹災者10220人。
  • 6月22日 水島空襲(現倉敷市) 死者11人、重軽傷者46人。
  • 6月22日各務原空襲(現航空自衛隊岐阜基地付近)B29・44機。死者169人
  • 6月22日 呉空襲 工廠への爆撃 死者1600人。
  • 6月26日 奈良空襲
  • 6月28日 呉大空襲
  • 6月29日 佐世保大空襲 B29・141機。焼夷弾約1200トン。死者約1300人、罹災人口約65,000人。当日は雨で「今日は来ないだろう」という市民の不意を突き深夜に空襲された。
  • 6月29日 岡山空襲 B29・137機。死者1737人。罹災人口12万人。罹災家屋25,000戸。(『岡山市史』)空襲警報が出されずまったくの不意打ちであったため被害が増大した。

6月29日の岡山空襲(中略)では、 市内中心部が壊滅的打撃をこうむり、町のシンボルとも言える岡山城天守も焼失しました。現在の天守は、1966(昭和41)年にコンクリート工法で再建されたものです。


一昨日(6月26日)のTVで、こんなニュースが流れました。


岡山空襲で焼け残った3本のエノキの木 1本枯れ伐採 岡山城|NHK 岡山県のニュース


太平洋戦争末期の岡山空襲で焼け残った3本のエノキの木が岡山城にあり、悲惨な戦争を今に伝えるものとして、岡山市の市民団体が平和学習などで活用してきました。
しかし、このうちの1本が枯れて伐採されていたことがわかり、市は残り2本が保存できる状態か確認することにしています。
枯れて伐採されたのは、岡山城天守閣の北側にある3本のエノキのうちの1本で、その切り株は真ん中が黒く空洞になっています。
昭和20年6月29日の岡山空襲では、岡山城天守閣が焼け落ちましたが、3本のエノキは幹の一部が黒く焼け焦げたもののそのまま成長しました。
岡山市の市民団体「岡山の戦争と戦災を記録する会」は、この3本が悲惨な戦争を今に伝えるものとして、平和学習などの場で、たびたび紹介してきました。
しかし去年10月、岡山空襲について城内をガイドしている際、3本のうちの1本が切られていることに気づいたということです。
連絡を受けた岡山市が調べたところ、岡山城内のせん定を委託されている業者が、木が枯れて通路に倒れかかっていたため危険な状態だと判断し、去年9月に伐採したということです。
業者は空襲で焼け残った木だとは知らなかったということで、岡山市はほかの2本には空襲で傷ついたものであることを知らせるプレートを取り付けました。


折しも、いま、岡山市主催で、こんな企画展が開催中です。okayamakusyuten


企画展「第47回岡山戦災の記録と写真展 戦時下の学校と子どもたち」 | 岡山市 (city.okayama.jp)


戦時下の1945年(昭和20)6月29日、岡山のまちはアメリカ軍の爆撃機B-29による空襲を受けました。これにより当時の市街地の63%が焼け野原となり、多くの人々が傷つき亡くなりました。アメリカ軍による空襲は日本の各地におよび、広島と長崎への原爆投下も含めて66の都市が大きな被害を受けました。

このように大きな被害をもたらしたアジア・太平洋戦争は総力戦であり、あらゆる人々や組織がさまざまなかたちで戦争に協力していました。学校と子どももその例外ではありません。

学校では、子どもたちを未来の兵士・人的資源として、軍事教練をはじめとした軍国主義的な教育が行われていました。戦局が悪化すると、学業は二の次になり、子どもたちは農家の手伝いや工場での労働に動員されました。また、普段の生活のなかでも、衣服やおもちゃなど、子どもの身の回りの品々にも戦争のモチーフがあふれていました。戦争色の濃い環境で多感な時期を過ごした子どもたちは、「少国民」と呼ばれ、国家のために人生をささげていたのです。

このたびの展覧会では、こうした学校と子どもと戦争との関わり――戦時中の学校教育、勤労奉仕や学徒動員の実態、戦後の教育制度の変化などを、各学校や諸機関が所蔵する記録や写真をまじえて紹介します。

この展覧会をとおして、 戦争と平和について思いを深めていただければ幸いです。


関連して、思い出す冊子があります。


この過去記事をご参照ください。


取り急ぎ、岡山空襲の日を走り読み、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


そして、先日は、一〇才で岡山空襲・終戦を体験された方々の手記をもとにした朗読/演劇に接する機会がありました。

概略は、この記事に書きました。
沖縄慰霊の日に思い出すこと(その3)
今日は少し補足をしようと思います。
この朗読/演劇の原作は、 「操山高校五期生の会」が、約二年の月日をかけて編集発行された手記「その時10歳の私は」。

実は、ちょっとしたいきさつから、我が家の本棚に、その冊子を一冊をおあずかりしています。

というのは、この本の編集・発行の中心を担われたお一人が、同業の先輩(しかも職場も長くご一緒していただきました)の高垣章二さんで、昨年夏の同業者の作品展(この記事参照七夕雑話、)にこの本を出展されたのですが、片付けの際に、成り行きで私にしばらく保管をゆだねられたのでした。内容を拝読するにつけ、いつかこのブログで紹介したいものと思っておりましたが、このたびの演劇/朗読の機会は、良い潮時と言うべきでしょうか。
舞台の最初のシーンは、校庭らしき広々とした場所に壇が据えられていて、そこに校長が登壇し、全員起立の子どもたちに訓話をたれる場面です。
校長役は、私も親しい同業のお仲間で、地元で演劇活動にも取り組まれているIさんでした。しっかり板について、すごみさえ感じる演技でした。
原作本の冒頭にある「出征する教師を送る」と題された手記が元になっているようです。


      

6月の初め、その高垣章二さんの訃報を聞きました。昨年の春には、岡山後楽園での退職同業者の集まりでお目にかかることができ、久闊を叙したばかりでしたが、、、。残念でなりません。




あれこれ記録をめくるうちに、私たちの退職同業者の会の「会報」の記事を見つけました。2017年8月18日(金)から3日間の日程で開かれた「みんなで21世紀の未来をひらく教育のつどい-教育研究全国集会2017」の報告記事の一節です。


朗読劇「その時10歳のわたしは」を振り返って    T・I

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教育フォーラム7「世代を超えて語り継ぐ人権・平和~戦後70年の岡山~」の第2部で上演した朗読劇『その時10歳のわたしは』は、終戦時に10歳だった方々の手記を舞台化したもの。

昨年6月市民文化ホールで初演した舞台をもう一度、ダイジェスト版でもいいから「全国教育のつどい」で上演できないか。高教組の有馬副委員長からの打診を受け、手記の編集者であり昨年の舞台の総監督でもあった高垣章二さんに相談してから5ヶ月余り。当日の上演にこぎ着けるまでには、さまざまな障害を乗り越えなければならなかった。

当初は、高教組青年部が前面に出て、われわれは裏で支えるという形を構想していたが、上演台本の作・構成・演出をお願いした森脇、家野の両氏をはじめ、結果的には高退教を含む中・高年層のメンバーが主導することになった。

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人集めは困難を極めた。担当の松本書記長の気苦労はいかばかりだったか。打ち合わせ、練習時間の確保もままならず、全員揃ってのリハーサルはついにできずじまい、ぶっつけ本番だった。

それでも、舞台を観てくださった方からは次のようなうれしい感想をいただいた。

「時代背景を盛り込みながら、手記をもとにした体験の重さを伝える工夫に満ちた演出でした。あの時代を生きた人々の情感がピシッと結晶化され、今の私たちをとりまく世界の動きについて考えざるを得ませんでした。」

脚本・構成、演出、音響・映像の各スタッフは60代~40代。キャストは60代から10代の高校生、小2女児まで。「その時10歳」だった方々の戦争の記録と記憶を、文字どおり4世代にわたって受け継いでゆく取り組みだった。今振り返って改めて、そこに参加できたことを感謝するとともに、第2世代としての責任を痛感している。


この記事の執筆者である「T・Iさん」とは、上に紹介した演劇で校長役を演じた「Iさん」です。彼は、私たちの退職同業者の会報を、ともに編集する立場でもあり、私にとっては、年下ながら全面的に敬服する数少ない畏友でしたが、すでに5年前、65歳の若さで、さっさと鬼籍に入られました。ご自身が編集の中心担当だった号の会報を完成された直後でした。それが、この世への置き土産となりました。


この「Iさん」について、どこかで追悼の想いを書いたかどうか、確信がありません。当ブログ過去記事を探って見ましたらこんなことを書いておりました。すっかり忘れておりました。


Iさんを偲ぶ、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2019-08-26)


 

退職同業者の会で、機関紙の印刷をお手伝いしました。今回は、編集にも携わっています。

私が書いた編集後記の一部(個人情報関連は一部割愛)を転載します。

今号の会報編集に携わりながら、日を追って膨らみを増してくる一つの思いを、もてあましています。あまりにも突然に、遠くへ逝ってしまわれたIさん。訃報に接してから、はや4ヶ月になろうというのに、追悼の思いを言葉にまとめる心の余裕すら、未だに持てないでいるのです。
高退教「会報」は、ここ何年か、Iさんと、Sさん、そして私の3人で、号ごとに順まわしで、編集を担当してきました。いみじくも、前号の編集担当がIさんで、苦心の編集作業の末に「編集後記」を執筆されたのが、いわば絶筆となりました。印刷発送の事務局会議を「体調不良」で欠席され、そのまま、帰らぬ人となられたのでした。
若い頃からの、重篤な病については、常々知悉しているつもりでいながら、様々な分野で、余りに律儀に、余りに自然体で、なくてはならない役割を120パーセント発揮して奮闘されているものだから、まったく予期も覚悟もできませんでした。地方選挙の最終版の時機、逝去のわずか数日前に、数刻をともにした時でさえ体調急転の兆しをうかがい知ることさえできませんでした。「一番思いがけなかったのは本人でしょう」と、奥様もおっしゃっておられた由。むべなるかな。
Iさんが新人教師であった頃の職場の同僚で、同窓の先輩でもあるSさんから追悼文を寄せていただき、今号に掲載しました。
(以下略)

そのIさんをしのぶ会が、昨日あったのです。しのぶ会は、澄んだ鋭い柝(き=拍子木)の音から始まります。これを打ち鳴らすのは、高校生演劇の指導やみずからも演劇活動に関わって来られたI女史です。実は、故Iさんも、高校教員のかたわら、地方劇団の中心として、長く演劇活動に携わってこられたのでした。

この柝は、実は、当ブログで何度か話題にしたことのある畏友、故Hさんの遺品で、歌舞伎好きだったHさんが入手していたものでした。この記事などは、Hさんと柝との結びつきを思い出させます。

現職時代、私も所属していた岡山高生研(全国高校生活指導研究会岡山支部)のHP(現在は閉鎖中)に、こんな記事がありました。温羅に関する記事を一部引用させて戴きます。

温羅太鼓(ダイジェスト)目次


1990年岡山・倉敷市で開かれた高生研第28回全国大会で,現地実行委員会が発行した情宣紙の題名が「温羅太鼓」。
「さりげなく,だが力強く」を現地スローガンに掲げ,明るく楽しいトーンを大切にとりくんだ全国大会が,岡山高生研に残した財産は何だったか?あらためて確認してみたいものです。
なお「温羅」は「うら」と読み,古代吉備の伝説上の人物。近年岡山県では,町おこしの一環として,この「温羅伝説」にスポットライトをあて,「市民参加型のまつり」として
「うらじゃ」祭りが盛大に取り組まれています。
このまつりが始まったのが,1994年だそうですから,岡山高生研の「温羅太鼓」のほうが,4~5年も先輩ということになります。自慢するわけではないですが...。(2007年9月記)

(中略)

「温羅太鼓」と名付けられたこの情宣紙は、1990年8月2日までに34号が発行されています。私も、当時、情宣係の一員として、この発行のお手伝いをし、大会期間中は会場となっていたホテルの一室にとまりこんで早朝から深夜まで、一日数回発行の速報の編集に携わったことが思い出されます。また、現地実行委員会が提供する文化行事として、「温羅」とその一族に焦点を当てた群読劇にも取り組み、私も演者の末席を汚したものでした。このとりくみの中心を担ってくれたのが、当ブログでも何度か紹介済みの畏友H氏でした。その彼は、早々と文字通りの「鬼籍」に入ってしまわれました。

長い引用になりましたが、ここに紹介した「群読劇」で、柝を鳴らしたのは、在りし日のHさんでした。

そして、そのHさんが逝去された後、有志実行委員会で主催した偲ぶ会では、実行委員の一人だったIさんが柝を鳴らしたのだったと、I女史は思い出させてくださいました。下の記事を書いた2014年のことでした。

亡き友を偲ぶ会あり燕来る:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2014.3.28)




イニシャルばかりで読みにくい記事になり申し訳ありません。思えば、ここに登場するHさん、Iさん、さらにごく最近、I女史も亡くなられてしまいました。さらには、九の日に思う、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp) (2024-01-09)で書いたBさんも、若い頃、ともに教育研究・実践サークルで、ともに事務局を担っていた間柄ですが、彼もまた逝ってしまいました。


去年の9月9日の記事にこう書きました。

秋空に清らに響く鐘の声、の巻

地元「9条の会」のお仲間で、フェイスブック友達でもあるQさんが、こんな投稿をされていました。


2023年9月9日9時9分平和を祈って鐘をつきました。お寺の住職さんのご協力をいただいて9つの鐘をつきました。参加したみんなで記念の写真を撮りました。世界の平和と生活の平穏を祈って!ありがとうございました。合掌。

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これに参加されたうちの一人、Bさんが、昨年末に急逝されました。ショックです。

参加メンバーの中では、最年少に近く、最近初孫を得られたばかりと聞きます。悪い病が見つかって5年、闘病しつつ、教職を続け退職後も昨年春までは非常勤講師を続けられました。

この日の九の日行動には、腕を骨折された状態で、 鐘つき行動に参加されました。ご自宅が近いからと、徒歩で。

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医師からは、「治りますよ」と言われていると、にこやかにお話されていたのに、12月になって容態が急変したのだそうです。

遅ればせながら、昨日、友人とともに弔問させていただきました。


この記事でともに弔問した「友人」というのは、お互いに深い共有体験を有するKさんです。彼が、これら同世代の亡き友人たちを”まとめて”偲ぶ”文章を、最近の「会報」に二号連続で書いてくださっています。共感するところ大なので、少し無断引用させてもらいます。


I・Tさんは、新採用のK高校を皮切りに、S、K、B高校を経てS通信制で定年退職。その後も2019年まで非常勤講師をされていました。私は、I・Tさんと高教組青年部で出会い、彼が青年部長をしていたとき、日高教学習討論集会が北海道小樽市で開催されました。岡山4名の参加枠に、レポート報告なしの私とI女史が手を挙げると、I・Tさんは「KさんやI(女史)さんの将来に期待しよう」と言ってくれ、一緒に参加しました。このとき初めて全国の教職員と共に語り、その経験は自分の財産になりました。
その後、I・Tさんは腎臓の病気を患いましたが、その病気と向き合い、教員生活の傍ら「劇団H」で長く演劇活動も続けて来られました。定年退職後は、非常勤講師をしながら、岡山高退教の事務局員を務め「会報」編集にも携わってくださり、「劇団ひびき」の活動などとも併せて、精力的に活動していました。
細川さんは、新採用のT高校を皮切りに、県立O工業(途中5年間は岡山高教組での組合専従)を経て、岡山南在任中の59歳で死去されまし た。細川さんとは、(新卒当時以来の、教育研究サークル、高教組青年部活動などの活動を一緒に進め)、1990年8月の高生研全国大会(倉敷大会)開催に向けて奮闘した日々の記憶は特に鮮明です。

(中略)
1994年2月28日に岡山高生研の元代表だった八木原藤義さんが肺がんのため ご逝去されました。その後を追うように、3月には三木将根さんがご逝去されました。(中略)63才の八木原さんと50才前後の三木さんの訃報に接したとき、どれほ ど年齢を重ねても、まだまだやり残したこともおありではなかったかと思わずにはいられませんでした。I・Tさんは2019年4月の新学期も非常勤講師として週2日勤務していて、亡 くなる1週間前に私は会って普通に話をしていたのに、脳梗塞で急逝されたと家族から聞きました。
細川さんは、大腸がんが判明してからの1年あまりの闘病生活の日々でも、真言宗のお寺巡りをしたり、高野山へも行ったり、月に1~2回、「珈琲館」などで会って教育談義や岡山高教組の話をしたり、平家物語の取材をしたり、「学びのひろば」に原稿を入れるなど、残された時間を謳歌していました。あたかも「歌舞伎役者」のように大見得を切って舞台から退場した細川さんでし た。
思えば、BさんとHさんはがんとの闘いに対峙して自分の生き方を貫い
たようであり、I女史とI・Tさんは、余りに突然に、演劇のように人生の舞台の幕引きをされたように感じます。
全国高生研の元代表であった竹内常一さんは、I・Tさんの追悼集の巻頭言に次の一文(一部抜粋)を寄せてくださいました。
故人のことを思いめぐらすとき、いつも私は「追悼する」とは、「死者 の願いと恨みと引き継ぎ、死者を私たちのもとに甦らせる」、つまり「死 者と連帯することである」と心に刻みこむことにしている。
それが私たちにできないでいるから、“Yasukuni War Shrine”が繰り
返し復活してくるのだ。だとすれば、「死者と連帯する」という新しい「とむらいかた」をつくることもまた、私たちの思想運動のひとつとなる。     

Hさんの死去以降、この「故人と連帯する」という言葉は私の心に刺さったままです。「ゲゲゲの鬼太郎」の目玉おやじが鬼太郎の肩に乗っているように、自分の両肩にHさんが乗っかかり、一緒に連帯しているように感じています。私の心の中には、いつも、今でも、Hさんが生きています。
I・Tさん、I女史、そして今回のBさんの死去に際しても、改めて「故
人と連帯する」ということが脳裏に浮かんでいます。私の肩に、これらの4人の仲間が乗っかっており、「死者の願いと恨みと引き継ぎ、死者を私たちのもとに甦らせる」、つまり「死者と連帯する」という新しい「とむらいかた」を実践していきたいと思っています。また、彼らと共に培ってきた「クラス集団づくり」「学年集団づくり」などの考え方は、教職を退いた後でも、町内会や地域や家庭内などの場でも生かせるのではないかと思っています。 


    今日はこれにて。


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麦秋至、の巻 [今日の暦]

「麦秋至」と書いて、「ばくしゅういたる」「むぎあきいたる」「むぎのあきいたる」「むぎのときいたる」などと読むようです。七十二候の一つ、二十四節気の小満の末候で、今年は、5月31日~6月4日に当たるそうです。


そう言えば、いつの間にか麦の刈り入れが終わってしまっていました。


5月4日撮影画像。


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5月25日撮影画像。


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5月30日撮影画像。


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6月1日撮影画像。朝の電車が走っています。


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当地は、田植えはまだですが,もみの直播栽培が行われている田んぼもあるようです。


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春まだ浅い頃、麦畑の上空にさえずるヒバリが季節の変化を告げていました。


before and after(その 2)、の巻(2024-03-21)


が、空を見上げると、、、

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ひばりが賑やかに歌いながら舞っています。

ウグイスのさえずり、ツバメの飛翔も確認できました(撮影には成功していませんが)。


いまさら「GTO」、の巻(2024-03-28)


先日ツバメの姿を見かけたと書きましたが、ここ数日は、我が家の軒下の定位置に、巣作りの準備を始めているようです。


5月25日撮影のツバメ。


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同じ日、麦畑を飛翔するツバメ。


こうして昆虫などを捕らえて,巣に運ぶのでしょう。


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同じ日、我が家の軒先では、雛がこんなに大きく育っていました。


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5日後の5月30日。


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体格はもはや親鳥と同等で、巣からはみ出しながら餌を求める雛たち。巣立ちが間近の様子で、是非餌やり風景をちゃんと写しておきたいと思っていたのですが、、、、


今朝、巣を除いたらもぬけの殻でした。


巣立ちの時は,あっさりしたものです。


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5年ぶりの憲法くん(つづき)、の巻 [今日の暦]

憲法集会の話題を続けます。


昨日ご紹介した、5年前の憲法記念日の記事はこう続きます。


 


昨日の公演の感想も、「大笑いしながら、ガンバレ日本国憲法君!の思いを新たにしました」では、安直すぎますかね?〔中略)


・前回(2017年)は割愛された「憲法くん」の出番。今回は、アンコールの形で最後の数分間で演じられました。


「安倍政権のもとで私がリストラになるというウワサがある。どうして変えられるんですかと聞くと、現実にあわないからだって。私って理想だったんじゃないんですか。現実を理想に近づけようとするのが普通でしょ。」「戦争が終わって、私が生まれた時、国民は初めて自分たち庶民の子どもができたって大喜びしたそうじゃないですか。」「私はまだまだ元気です。もう隠居していいよ、って言われるほど、これまで私を使ってくれたんですか?いいえ、結構暇でしたよ」


「わたしの初心、わたしの魂は、憲法の前文に書かれています」


--そして憲法前文の暗唱。完璧、圧巻です。


「皆さんが、私に働けと言うなら、まだまだ働きます。私をどうするかは皆さんが決めること。皆さんの私なのですから。皆さんに、私を託します。」


・チコちゃんのように生意気に「ボーっと生きてるんじゃないわよ」などと叱るわけではありませんでした。活かすも活かさぬも皆さん次第と、重い問いを投げかけたのでした。


・松元ヒロさん、どうやら私と同い年らしいのですが、いやはや、エネルギッシュさにおいても、若々しさにおいても、聡明さにおいても、比べものになりません。いえ、比べようとも思ってはいませんがね。それより何より、面白さにもますます磨きがかかってきました。こういう人がテレビに出ないということは、それだけテレビがオカシイ、そして貧しい、ということですね。そんななか、鹿児島テレビが密着取材を続けているのだそうです。楽しみです。


いつもながらの孫引き、ひ孫引きによるコピペ記事でした。斜め読み、飛ばし読みしていただければ幸いです。


今回の公演に関係する情報をほんのちょっぴり付け加えます。


①圧巻のパントマイム。


今回は、その妙技をふんだんに披露してくれました。


演技の合間に語られる、数々のエピソードがまた、「へえ」の連続。 


 「パントマイムの神様」と呼ばれるマルセル・マルソー、またそれに感化を受け、芸名にもマルセ太郎・・・次々に芋づる式に語られるエピソードに、興味が尽きません。


備忘メモを一つだけ。


マルセル・マルソーは、ユダヤ人であることを隠すために姓をMangelからMarceauに変えた、彼の父はアウシュビッツ強制収容所で死亡。マルセルはレジスタンスとして活動する中で、ユダヤ人孤児の国外脱出を助け、彼が命を救った子供の人数は数千人にも上る(ウィキペディア参照)。


②その経歴のドラマチック性。 


私と同世代であることは聞き及んでいましたが、高校・大学と陸上選手→パントマイム・お笑い芸人→風刺・政治批判→「テレビで会えない芸人-松元ヒロの世界-」2020年日本民間放送連盟賞 テレビエンターテインメント番組部門最優秀賞など、数奇な人生経験に圧倒されます。


そもそも、パントマイムを始めたきっかけは、教師になる道を諦めていたところ、チャールズ・チャップリンの「モダンタイムス」などの無声映画を見て、地元訛りにコンプレックスを持たずにできる仕事として感動し、パントマイム、お笑い、風刺の道に入ったと、ウィキペデアに記述されています。鹿児島方言に引け目を感じて、「無声」の芸の道を選んだ彼が、今や息つくいとまもなく、研ぎ澄まされた「言葉のつぶて」を当時続けているとは、皮肉なものですね。彼曰く、言葉で言う方が(パントマイムで演ずるよりも)ラクです・・・。 


③紹介された本と映画。


彼は、東京「紀伊國屋ホール」で公演する機会が多いが、舞台で紹介した本が紀伊國屋書店でたくさんくれるので、今日はどの本を紹介するか、書店から問い合わせがあるそうです。


今回紹介されたのは、「ヤジと民主主義」、「福田村事件」。


映画の紹介ページはこちら。映画『ヤジと民主主義 劇場拡大版』公式サイト (yajimin.jp)


映画『福田村事件』公式サイト (fukudamura1923.jp)


④5年前に紹介があった「鹿児島テレビ密着取材」による放送は、地元鹿児島で大好評。全国でも放送され(私も観ました)ついにはドキュメンタリー映画化され、全国公開の運びに・・・↓この記事参照


1月31日(月)いよいよ全国公開!映画“テレビで会えない芸人” | かごnew | KTS鹿児島テレビ (kts-tv.co.jp)


映画『テレビで会えない芸人』 (tv-aenai-geinin.jp)


⑤そして「テレビで会えない芸人」であった松元ヒロさんが、鬼平犯科帳新シリーズで料理人役(軍鶏鍋屋・五鉄の主人、三次郎の役)として出演されるらしい〔時代劇専門チャンネル)。


文字ばかりの記事も味気ないので、今朝の散歩写真を貼っておきます。


最近同じような画像ばかり載せていますが、今日の朝散歩でも、麦畑の向こうの麦飯山を、いろんな場所から写してみました。今日の撮影は、OLYMPUSE520+zuiko18-160mmというレアな古道具によります。EO041840.jpgEO041854.jpgEO041866.jpgEO041867.jpgEO041869.jpg


麦の色がだんだん黄色くなってきました。


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道ばたの矢車草に目を止めるいとまもないうちに、暑い季節に突入でしょうか。


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今日はこれにて。


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5年ぶりの憲法くん、の巻 [今日の暦]

昨日アップしていた憲法記念日の記事が、余りに冗長で読みにくいので、分割して再掲させていただきます。


憲法記念日の今日は、早朝から青空が広がっています。


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午後は、憲法集会に参加してきました。


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岡山合唱団の合唱。中富公一さん(岡山大学名誉教授)の特別報告「安保関連法および安保三文書は何をめざすのかー岸田軍拡の危険性-」に続いて、メインのライブ松元ヒロさんによる「今こそ憲法くんの出番です」を楽しみました。5年ぶりの岡山での公演だそうです。


そう言えば、これが5年前の記事です。


憲法記念日思うまま、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


最大のイベントは、ご存じ松元ヒロさんのライブ「憲法くんに叱られる」。

松元ヒロさんについては、当ブログでも何度か紹介しています。

たとえば、この記事。

「追伸」の補足と今日の愉快な鳥見散歩、の巻(2017-01-23)

そもそも、戦前の日本においては、まさしく「自国のことのみに専念して他国を無視」した、偏狭な国益優先主義による暴走が、数千万人に及ぶアジアの人々と、300万人の自国の民に痛ましい犠牲を強いる悲惨を招いたのではなかったのでしょうか。そして、それへの悲痛な反省から、新しい国の歩みの道筋を探ったのが、日本国憲法ではなかったでしょうか?その道しるべとして、人類の到達しえた知見の最善のものが、真剣に取り入れられたのでしょう。
もちろん、そのめざす道は紆余曲折をたどり、いまだ実現に至ってはいません。だが、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」とあるように、その未成熟な現実を乗り越えて、必ず「崇高な理想と目的」に向かうことを、私たちは世界に宣言しているのです。
理想と現実が乖離しているとき、理想を捨てて現実に合わせるのか、それとも理想に向かって現実を高めようと試みるのか?憲法をめぐるせめぎあいが、いっそう激しさを増すことになりそうです。
憲法君がんばれ。

憲法くん

憲法くん

ユーチューブに松元ヒロさんによる憲法前文の暗唱が掲載されています。

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松元ヒロさんと言えば、今は亡き majyo 様を思わずにはいられません。たとえばこんなブログ記事を 書いておられたのは、去年の秋のことでした。 

ハッピー HAPPY

皆様は、松元ヒロさんをご存じですか? 何回かご紹介しましたから

名前は覚えていらっしゃるでしょう

テレビに出られないお笑い芸人さんです。

なぜ出られないか?

時の政権を笑い倒すからです。

その昔は劇団ニュースペーパーにもいましたが
1999年ソロデビューしました。

立川談志や永六輔に才能を認められ可愛がられました。
この二人の物まねは秀逸です。

ソネブロのmomotarouさんたちが、半年前から
古着販売で出た収益金を元手に企画した今回の公演

それが昨日でした。ずっと経過を拝見していました。

詳しくは
https://mo-mo-taro.blog.so-net.ne.jp/2018-10-28

上の記事で紹介しておられたmomotaro様の地元埼玉県熊谷での松元ヒロ公演成功のとりくみにも、大いに元気づけられました。上のリンク先の「写真入りバージョン」はこちらです。(いつもながら、またまた勝手にリンクを貼らせて戴きます。)

https://mo-mo-taro.blog.so-net.ne.jp/2018-10-30

 

松元ヒロさんは、2年前の2017年の憲法集会でも来岡公演されました。

上を向いて歩いていたら、の巻(2017-05-13)

先日の憲法記念日に岡山市で開かれた今年の「憲法集会」の模様は、何回かご報告しました。そこで演じられた松元ヒロさんの舞台で、永六輔さんのエピソードが熱く語られたこともすでに書きました。その舞台でのフィナーレに流れたのが、この「見上げてごらん 夜の星を」の曲でした。
それとともに、舞台では、同じ坂本九が歌った「上を向いて歩こう」(永六輔作詞・中村八大作曲)も話題にされました。「スキヤキソング」として海外にもよく知られたこのヒット曲が、失恋の悲しみを歌ったものではなく、安保闘争の挫折をきっかけにつくられたものだったことは知る人ぞ知る事実でしょうが、松元さんはそのあたりの事情をつぶさに語ってくれました。

その年の憲法記念日に書いた記事を、繰り返しになりますが再掲させていただきます。

祝!憲法君70歳、の巻(2017-05-03)

憲法記念日です。
過去の憲法記念日には、こんな記事を書きました。


2014年。お誕生日おめでとう。日本国憲法さん!(2014-05-03)

今日は憲法記念日。
憲法の理想を現実に生かそうと考えるのか。
それとも、、憲法の定めを「解釈」によって限りなく「現実」に合わせていこうとしつづけるのか?
はたまた、その行き詰まりを手っ取り早く打開するため、憲法そのものをきれいさっぱり書き換えるのか?
いよいよ改憲論議も大詰めですね。

近代的な「立憲主義」の立場では、憲法というものは、政治権力の恣意的支配に対抗し、国民が権力を制御するためのものだそうです。
安倍さんが成立に熱意を燃やしているという自民党憲法草案(わかりやすい対照表をアップしてくださっています。また、ヤフー知恵袋のこのページも、参考にさせていただきました)は、どうも、国家権力が国民を縛るための道具にしたいらしいですね。

「外国から押しつけられた憲法」という古い論調が何か意味ありげに聞こえるとするなら、いま、日本国民自身が、腹の底から、もう一度この日本国憲法を選びなおす時だと思いますね。


一昨年(2015年)。68歳おめでとう、日本国憲法さん、の巻(2015-05-03)

この先ご健勝であれば、2年先の2017年には「古希」を迎えられることになります。昔から、古来まれなものとして、その長寿を祝う年齢です。
いま、わがくにの平均寿命は、ずっとのびていますから、70歳といえども、「後期高齢者」にもとどかぬ「若さ」ですが、世界中の憲法さんのなかでも、最長寿に属する事は間違いないでしょう。
「寄る年波」というものもありまして、時の政権担当者の思惑で、本意ならざる「解釈」やら、「運用」やらを施され、若かりし日の輝くばかりの清新さには痛々しいばかりの影が差している事は否めません。
とはいえども、あなたのお陰で、私達日本人は、これまで68年間の長きにわたり、ただの一人も、戦争で人を殺すことがなく、一人の戦死者を出す事もないという「古来希」なる僥倖を享受とができたのでした。
(中略)
なんとしてでも、2017年の70歳を、無事健やかに迎えていただきたいものです。さらにその先、喜寿(77歳)、傘寿(80歳)、米寿(88歳)、白寿(99歳)のお祝いを、国民みんなで祝賀することができればと思うのですが、、、、。


昨年(2016年)。憲法記念日に家の中でひとり憲法を考える、の巻(2016-05-03)

戦後70年・被爆70年の去年、憲法学者がこぞって「違憲」と指摘するなか、集団的自衛権容認の「戦争法」を数を恃んで強行したアベ内閣は、今度は「緊急事態条項」など戒厳令条項の導入をはじめとする明文改憲の動きをあらわにしています。選挙中はダンマリを決め込んで、選挙後にやりたい放題、のつもりでしょうが、その手は桑名の焼き蛤です。
(中略)
もちろん、憲法は金科玉条でなく、時代の変化に応じて充実・発展させるべきで、そのため、タブーなくフランクな議論が盛んに行われることは、憲法自身が望んでいることに違いありません。自らの国の最高法規について、国民ひとりひとりが、親しみを持って語り、理解し、愛し、誇りに思い、使いこなすことは、言うまでもなく大切なことですから。
一方、憲法を国民議論の俎上に載せようとする人たちのなかには、、あらぬ難癖をつけて悪罵の限りを投げつけて憲法の尊厳をおとしめ、汚い唾まで吐きかけようとする人たちが存在することも軽視はできません。おそらく日本国憲法が世界に先駆けて指し示す、平和で自由な、徳高い民主国家のあり方を、まぶしすぎると感じたり、あるいは煙たく窮屈に感じる人々が、ごく少数ながら存在するのでしょうか。たとえば、憲法の平和的・民主的精神を除去することによって、何らかの利益を手中にできるような人々とその手下、雇い人の類でしょうか?(どんな人たちなんでしょうかね?)
市井の一市民が、憲法に対して何を考えようが、何をしゃべろうが、それは自由であって、誰からもとがめられることはありません。
しかし、たとえば、アベさんのこんな無礼な発言を、憲法九十九条は許していないはずなのです。

みっともない憲法
あの、日本国憲法の前文にはですね、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意したと書いてあるんですね。つまり、自分たちの安全を世界に任せますよと、言っている。そして、エエ、専制と隷従、圧迫と偏狭をこの地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う、自分たちが専制と隷従、圧迫と偏狭をなくそうと考えているんじゃないのですよ。
国際社会がそう思っているから、それを褒めてもらおうと、いじましいんですけどね、みっともない憲法ですよ、はっきり言って。これは日本人が作ったんじゃないんですからね。こんな憲法を持っている以上ですね、外務省も自分たちが発言するというのは、憲法上、義務づけられていないんだから、それは国際社会に任せるんですからね。精神がそうなってしまっているんですね。まあ、そこから変えていくと言うのが私は大切だと思います。

自分の国語力・読解力のなさを棚に上げて、ちんぴらやくざの言いがかり同然のイチャモンをつける態度は、明白に公務員の憲法遵守義務違反です。
憲法第九十九条は、こう定めています。

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


(中略)

午後は、「憲法の集い」に参加してきました。集会のプログラムには、4年ぶりという松元ヒロさんの公演も含まれていて、大笑いしながら、ガンバレ日本国憲法君!の思いを新たにしました。

 

 


時系列が交錯して読みにくい記事になりました。過去ブログの紹介の途中ですが、いったんここで中断し、改めて続きを書くことにします。

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昨日はメーデー、の巻 [今日の暦]

昨日の雨が上がり、今朝はよく晴れましたが、季節が後戻りしたような肌寒さでした。


朝散歩で見る麦畑は心なしか黄金色が増したようです。


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麦畑の向こうに連なる双子の山は麦飯山(むぎいいやま)、とだじゃれを一つ。


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このねたは、4月26日の散歩で思いつきました。その時の写真はこちら。


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毎年のことですが、こんな麦の写真を何枚も撮ってしまいます。


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昨日はメーデーでした。


あいにく朝から冷たい雨でした。


メーデー関連の記事を書きかけていたのでしたが、中途のまま日が変わりました。会場の近くには行っていたのですが、別の用事があって、せっかくのメーデーには参加できないままでした。メーデー帰りの方には何人かお目にかかり、様子はうかがったのでしたが。


そんなことも記事には書けたはずなのですが、取り急ぎ差し迫った仕事もあり、投稿は諦めました。その「差し迫った仕事」を、ほとんど今日一日かけてほぼ終わらせましたので、準備しかけていた投稿を、急遽一日遅れでUPします。


メーデーについては、以前こんな記事を書いています。


「すばらしい野天の五月のお祭りだ」、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) 2016-05-01


今日は5月1日 メーデーの日です。
1886年5月1日に、合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟、AFL)に結集するアメリカの労働者が、8時間労働制を要求してストライキに立ち上がったことがメーデーの始まりといわれます。
10数時間もの長時間労働を強いられていた労働者が、「仕事に8時間を、休息に8時間を、おれたちがやりたいことに8時間を!」(「8時間労働の歌」)と叫び、シカゴ、ニューヨーク、ボストンなど万人以上の労働者が、ストライキに立ち上がり、その結果、20万人あまりの労働者が8時間労働制をかちとったのでしました。
しかし、資本家側は8時間労働制が広がることを警戒し、権力をつかって反撃を強めます。運動の中心地だったシカゴでは、2日後の5月3日に機械労働者4人が警察官に射殺され、翌4日にはヘイマーケット広場で労働者の集会が襲撃を受け、多数の犠牲者が出るなどの事件が続いたのをきっかけに、資本家側は8時間労働の約束をほごにします。
労働者側は、これにひるまず戦線を立て直し、ふたたびゼネストでたたかうことを決め、世界に共同行動を呼びかけました。これをうけて、「第2インターナショナル」は89年7月の結成大会で、1890年5月1日をアメリカの労働者と連帯し、世界各国で一斉に集会やデモをすることを決め、アメリカ、ヨーロッパ、中東欧、オーストラリア、ラテンアメリカなど世界各地で数十万の労働者が集会とデモをくりひろげました。これ以降、毎年5月1日に世界各国でメーデーが開催されるようになった。この日を「法律で8時間労働日を決めるよう要求する国際デモンストレーションの日とする」と決定しました。これが第一回メーデーでした。
(中略)

メーデーとなると、この詩を思い出します。

明日はメーデー

槇村浩

古ぼけたぜんまいがぜいぜいと音を立てて軋(きし)る
もう十二時になるのに
あなたはまだ帰ってこない
くすぶった電球の下で
私はもう一度紙きれを拡げてみる
―――八時までにはかならず帰る
待っていてください T
前の道路を行くヘッドライトが
急に大きく
ぽっかりと障子にうつる
私はぎっくりして
寒い下着の襟をかき合わす
あなたはもう帰ってこない
あなたはセンイのオルグ
朝の四時
氷柱(つらら)を踏んで私たちが工場へ急ぐ時
あなたはニコニコ笑いながら
電柱のかげからビラを渡してくれた
――賃銀三割値上げしろ!
――労働時間を七時間に!
――鬼のような見番制を廃止しろ!
――外出、外泊、通信の自由をよこせ!
――全協日本センイ××(1)分会の確立へ!
ゴジックで大きく書かれたその文句は
焼けつくように私の眼頭(めがしら)にしみ込んだ
毎日毎日
あなたは電柱のかげに立っていた
氷雨(ひさめ)の降る朝でも
破けた傘にチビけた駒下駄(こまげた)をはいて
あなたは根気強くビラを渡してくれた
「ありがとうよ」
そういってビラを取る私たちの胸に
あなたの姿はなんというなつかしい印象を残したか
字なみの揃ったインクのかおりは
苦しい生活のなかで
どんなにか私たちを力づけたことか
そして私たちの分会ができた!
乾燥場の奥で私たちは最初の会合を持った
私たちのただ一つの組合である
全協!
その署名を見るたびに
私たちの胸には何かしら熱いものがこみ上げてきた
私たちはこの二字のなかに
全国の同じ工場のなかで
つきのめされ、疲れ切って
資本への憎しみにかたまっているおおぜいの兄妹を見た
旗をかかげ
腕を組んで
最後の日までのたゝかいに突き進む
何万の同志らの叫びを聞いた
私たちは集まって工新の発行を協議した
名前は「セリプレン」ときまった
「セリプレン」は二度めには百部出た
その時から
監督の顔色が険(けわ)しくなり
スパイが工場のなかをうろつき始めた
毎日
不眠で眼をまっかにはらした見番が
何人かの名前を読み上げた
そして
フミちゃんも
しづちゃんも
呼び出されたきり帰ってこなかった
「赤い」というのを口実にしてそろ/\首切りも始まったし
おまけに一時間の居残り労働
積立金はビタ一文くれないで
「お国のために」しがない給料から天引きせねばならんという
「戦地にいる兵士のことを思って」とぬかしやがった社長のハゲチャビンめ
だれが働き手を戦場に連れ出したんだ
だれがもうけるために戦争を始めたんだ
アジビラは[#「アジビラは」は底本では「アシビラは」]毎日のように出たし
分会員の数は三倍にふえた
そこへ二割賃下げの発表だ
工場は急にどよめき出した
レンラクにいそいそとアジトへきた私なのに
立ち上がる日の近づいたという吉報をもって
あなたをよろこばせようとした私なのに
あなたはもう帰ってこない
どの街角であなたはあげられたのか
そして今夜
吹きっさらしの部屋のなかで
どんな拷問にあなたは耐えているのか
手紙を焼き
ガリ版をフロシキに包んで私は外へ出る
この寒空に
張っているパイ公もいないらしい
なつかしいアジトよ さようなら
あなたは帰ってこないが
あなたは後にたくさんの若芽を残した
さあ今夜はビラまき
夜が明けたら
すばらしい野天の五月のお祭りだ
フミちゃんやしづちゃんや
そしてあなたへの復讐に
私たちの解放のために
みんな!
がっちり腕を組んでストにはいろう
――明日はメーデーだ

―一九三二・三・一七―

(1)片倉

底本:「槇村浩詩集」平和資料館・草の家、飛鳥出版室
2003(平成15)年3月15日
入力:坂本真一
校正:雪森
2014年9月11日作成
青空文庫作成ファイル:

(中略)

今日のメーデー。
雲一つない五月晴れに恵まれて、文字通り「すばらしい野天の五月のお祭り」になりました。


また、比較的最近の記事では、こんなことも書きました。


片付けあるある(2) 「二つのメーデー」、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp) 2022-01-29


前回に続けて、職場新聞縮刷版の冊子をひもといて、当時の時代感を彷彿とさせる記事を、もう少しご紹介しておきます。

先に引用した号を少しさかのぼって、1989年4月21日付 NO.437には、こんな囲み記事があります(編集担当の一人だった私が執筆したような覚えがあります)。

今週の新聞から

◎竹下内閣支持率ついに3.9%に。(共同通信社調べ)。
消費税の税率を下回るのも時間の問題?

◎ 高石 全文部次官起訴。汚れた文部官僚大量更迭。「上司は更迭、文書も押収されて仕事ができない」とは下級役人の嘆き。いっそ、いらぬ仕事はよしにして、学校現場にお任せになっては?

◎米下院議長ライト氏 、1900万円の献金で倫理委員会全員一致「規則違反」認定。竹下さんのリクルート献金はその10倍なのに、異常なのはどっちの国?

◎中央メーデー会場を巡る怪。東京都、遅れて申し込んだ「連合」に代々木公園の使用許可。従来の先着順のルールを無視した口実は、抽選でもじゃんけんでもなく”実績!”。
だが、これまで「連合」が代々木公園を使った実績は一度もない。片や我が統一労組懇・「軍事費を削って、くらしと福祉・教育の充実を」国民大運動実行委員会は、何度もそこで集会を成功させた実績があるにも関わらず不許可とは--- ---。

その上、メーデーの運動会化を主張する「連合」は、既に別途サッカー場を借りてある。メーデーを分裂させた「連合」の半端じゃない横車に「待ってました」とエールを送る自民党都政の合作劇。だが。これで正体がよくわかった。

続く4月28日付 NO.439では 「変質許さず第60回メーデーの成功を」という 大見出し のもと こんな記事があります。

俺たちは世直しをするつもりだ。骨折り損のくたびれ儲けにゃもうあきた。食いつなぐのにやっとこさ、考える時間なんて1時間もない。俺たちは陽の光を浴びたいのさ。俺たちは花の香りを嗅ぎたいのさ。 神様だってきっとそうしたいとおっしゃっている 。(中略)仕事に8時間を、休息に8時間を、後の8時間は俺たちの自由に。

1886年の5月、 シカゴをはじめとするアメリカ各地の労働者はこの「8時間労働の歌」を口ずさみながらゼネストに決起。十数時間という過酷な長時間労働の解消を求めるこのたたかいには、厳しい弾圧が加えられましたが、たたかいは米全土へ全世界へと広がりました。これがメーデーの起源。
戦前の絶対主義天皇陛下の日本でも、銃剣と死刑法による弾圧に抗して「労働者の生活・権利を守れ」の声は五月の空にこだましました。戦後においても、生活向上と権利の擁護、その時々の国民的課題を掲げて、労働者・国民の要求実現に大きな役割を果たしてきたのが、メーデーの歴史です。

ところが、今この伝統を断ち切り、「メーデー近代化」と称してその変質をはかる動きが全国で強まっています。 岡山県でも従来のメーデー実行委員会加盟組織にもはからず、総評・同盟・「連合」の3者による実行委員会を結成。「バザール・スポーツ・歌謡ショー・カラオケ大会」などを中心とするお祭りメーデー化を策しています。

これに対し、高教組、医労連、国労などが呼びかけて「第60回岡山県中央メーデー実行委員会」を結成。メーデーの歴史と伝統を守る「県中央メーデー」を実施します。

高教組は全ての分会が 分会旗を持ってこれに参加するよう呼びかけています。

さらに5月2日付NO.440 では「違いくっきり第60回メーデー」の見出しで次の記事が載っています。

   「連合」 による変身と分裂の動きの中で取り組まれた第60回メーデーは 、労働者・国民の利益の守り手が誰であるかをくっきりと 浮き彫り にしました
東京での中央メーデーは、「連合」と当局による会場妨害に抗して、急遽設定された江東区「辰巳の森公園」に、統一労組懇組合員を中心に23万人が結集。たたかうメーデーの伝統を受け継ぐ労働者の 気概とエネルギーを天下に示しました。また「連合」路線反対を掲げる都労連も、日比谷公園で3万人の独自集会を展開し、「連合」によるメーデー変質策動に批判の意思を表明。
一方「連合」・総評・同盟の「近代化」メーデーは代々木公園・サッカー場の両会場を合わせても「19万人」との主催者発表に失笑が漏れるほど閑散として白けムード。ゼッケン・プラカードならぬ自社のコマーシャルポスターを掲げて参加する同盟系労組の姿も見られ 、労資一体の面目躍如。

岡山県でも高教組・国労などの呼びかけによる「第60回県中央メーデー」に2200人が参加。雨の中、旭川河原での集会に続いて、約2 km の市内デモへ。思い思いのゼッケン・プラカード・横断幕による示威行動に市民の共感が寄せられていました。

そしてこの職場新聞記事には、「朝日新聞」ローカル版5月2日付記事の切り抜きが 添えられています。 興味深いので 引用します。   

二つのメーデープラカード比べ

「連合岡山」と「岡山統一労組懇」がそれぞれ開いた集会は、二つの労働団体の路線の違いがくっきり現れた。 連合の組合員等が持っていたのは自分たちの組合旗がほとんどで、政治的要求を掲げたプラカード類は20本程しかなかった。統一労組懇系の組合員は、政治要求・組合要求を書き込んだゼッケンを着け、プラカードは 百本を超えた。 横断幕なども多彩で、内容も消費税、リクルート疑惑、農政と、今日の政治の関心事や要求が並んだ。     
連合系と統一労組懇係がプラカード などに掲げた批判や要求を比べると、政治的色彩を弱めようとした姿勢と、強めようとした姿勢が浮かび上がってくる

消費税粉砕機械加工掃除など消費税批判
連合4
統一労組懇28
「汚染議員を許すな」などリクルート疑惑追及
連合1
統一労組懇13
「竹下内閣糾弾」など内閣や与党に対する批判
連合0
統一労組懇 8
「ご飯を食べよう」など農政に関する要求
連合2
統一労組懇2
「年金改悪反対」など福祉に関する批判や要求
連合0
統一労組懇13
「賃金あげよ」など 労働条件に関する要求
連合1
統一労組懇3 
「祝メーデー60回」などメーデー開催を祝う
連合14
統一労組懇5
「国鉄労組の雇用を確保せよ」など JR に関する批判や要求
連合0
統一労組懇20
「核はいらない」など反戦平和の主張
連合0
統一労組懇2
野党批判や婦人問題などその他の 批判 や要求
連合0
統一労組懇16

〔中略)

「統一労組懇」は「トウイツロウソコン」と読み「統一戦線促進労働組合懇談会」の略です。簡潔な説明や紹介がないだろうかと、NET上の用語辞書や毎度のウィキペディアなどで調べてみましたが、どうも不正確でわかりにくいので、自分なりの説明を加えようかとも思いましたが手に余りますので、「一次史料」をお示しするのが最上と思い、統一労組懇自身の表明を引用して紹介することにしました。

統一労組懇「労働戦線の真の統一のために」統一労組懇「真の労働者の利益をまもるナショナルセンターのあり方について全国的討論を」 | 自治労連Webアーカイブ (jichiroren.jp)

(中略)


ところで、連合設立から30年余、初めての女性会長ともてはやされている芳野友子サン、先の衆議院選挙の投票日前にも選挙後にも一貫して、「立憲と共産の共闘あり得ない」などとする特異な主張を繰り返し、これまで大切に育ててきた市民と野党の共闘に、外野から冷水を浴びせています。   


    

今年の連合メーデーでは、昨年に引き続き岸田首相が来賓として登壇、お互いに接近を誇示するような匂いが不快に思えます。


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下の表はどこからコピーしたものでしたっけ?ごめんなさい、忘れました。


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連合岡山のメーデー下記の通り実施されたようです。MAYDAYなのに4月に実施するのはなぜ?などと突っ込むのは野暮としても、徹頭徹尾「フェスタ」なのはがっかりです。確かに労働者のお祭りではありますが・・・


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一方、私が参加したかった県労会議のメーデーはこんな様子だったそうです。IさんがフェイスブックにUPされているお写真を無断借用させていただきます。


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今日はこれにて。


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3月3日に寄せて、の巻 [今日の暦]

昨日(3月2日)は、小二と三歳児の姉弟が我が家にお泊まりということで、近くに住む従兄姉たちと一緒に半田山植物園で時間を過ごしました。


梅、マンサク、サンシュユ、ハナニラ、セツブンソウ、福寿草、クリスマスローズなど、過去ブログで紹介した初春の花々のほか、アヤメ(カンザキアヤメ)、サクラ(ツバキカンザクラ)が季節をさきどりしています。


カンザキアヤメ。


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ツバキカンザクラ。


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寒風吹きすさび、雪花もちらほらする寒さでしたが、上は20歳から下は保育園児の六人が、それなりに楽しく睦まじく時を過ごしたようです。




さて、今日、3月3日は「桃の節句」です。


過去記事でも何度も話題にしました。


例えば、2021年の記事。


桃の節句、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) 


お手伝いしている教育相談ボランティアのブログに、こんな記事を投稿しました。我ながら気に入っているので、恥ずかしながら転載させていただきます。

アッという間に3月です。
そして今日は3月3日、桃の節句。
かわいいひな人形を愛おしみつつ、雛あられを喜んで食べている女の子たちが、真にジェンダーフリーの世の中で輝くことができますように、、、。
そういえば、今日は、「人間平等」を宣言した「水平社」創立の日でもありました。




 


そうでした。水平社創立記念日でした。


「水平社一〇〇周年」を記念して、昨年11月に、こんな企画が催されました。


 


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続いて、その第2弾が昨日催されました。


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私自身は都合が合わなくて、鑑賞できませんでしたが、好評であったようです。


上述の「お手伝いしている教育相談ボランティア」の相談員の一人、H女史とも、つい先日、この映画会を話題にしたばかりでした。と言うのも、彼女は退職同業者という縁もあって、いつも四方山の歓談に花が咲くですが、ほぼ同世代(少し彼女が若い)なので、青春期にこの映画に強い印象を受けた共通の経験をもち、また大学は異なるのですが、共に「部落問題・社会問題・同和教育」の研究サークルに携わっていた共通体験からも、話が弾むのでした。




   というわけで、今日は、芋づる式に思い出された記憶を、とりとめもなくたどってみたいと思います。    


前回(3月1日付)の記事にで触れた槙村浩については、こんな記事も書いています。



文化/反戦詩人・槙村浩生誕100年/「間島パルチザンの歌」に新たな光/高知と朝鮮人民つなぐ

高知出身の反戦詩人、槙村浩。ことしは生誕100年です。日本の支配に抗して蜂起した朝鮮人民をうたった「間島(かんとう)パルチザンの歌」(1932年)。この詩の舞台・間島と高知とのつながりも生まれ、あらためて光が当たっています。

     
児玉由紀恵記者

     
〈思い出はおれを故郷へ運ぶ/白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え―〉
印象的な詩句から始まる「間島パルチザンの歌」。間島は、現在の中国延辺(えんぺん)朝鮮族自治州にあたる地域。詩は、朝鮮を統治する日本軍に抵抗する抗日パルチザンの青年(おれ)を主人公にしています。      
(中略)     
「間島パルチザンの歌」が発表された月に検挙された槙村は、獄中での拷問、虐待に屈せず、非転向を貫きました。26歳で病没。「不降身、不辱志」(「バイロン・ハイネ」)と記した志は今も輝いています。 (後略)  

  
(2012年06月24日,「赤旗」

ところで、この記事の執筆者として「児玉由紀恵記者」と名前がでています。 実はこの方、大学時代の同じ学科・専攻の先輩です。 以前こんな記事を書きました。


防災の日に寄せて、の巻(2015-09-01)

この「大雨の中を嬉しき宅急便」(2013-09-04)の記事で、N先輩から送っていただいた宅急便のなかには、このポスターも入れてくださっていました。

懐かしいポスターです。
大学に入学したての頃、同じ専攻の先輩女学生=Kさんのアパートの、室の壁に、このポスターが貼ってあったのが印象的でした。彼女が卒業される時、「形見分け」のそのポスターを無理にせがんで戴いたような記憶があるのですが、実物は見あたりません。
K さんは、大学卒業後上京され、政党機関誌「赤旗」日曜版の編集部に「就職」され、今も活躍されています。文化欄の紙面に署名入りの記事が掲載されるたびに、懐かしく励まされたものでしたが、最近は、若手を育てる立場で、自らの署名記事は余り書けないのよと、おっしゃっていました。

実は、そのkさんが、児玉由紀恵記者です。




「橋のない川」にまつわる記事は、ほかにも何度か書きました。


防災の日に寄せて、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


(2015-09-01)


住井すゑさんの代表作「橋のない川」(新潮社)のハードカバー版が手元にあります。その第六部を手に取り、奥付を見ると、「昭和四十八年十一月十日印刷、十一月十五日発行、定価五百円」とあります。時代を感じさせられます。
「橋のない川」は、ご存じのように「部落問題」(同和問題)を正面から扱った小説で、高校時代に、島崎藤村の「破戒」などとともに、教師や、意識を持った級友などからも薦められた作品でした。
しかし、何につけても、人に薦められたものを、素直に受け入れることのない私ですので、なかなか読もうということにはなりませんでした。
そんなとき、今井正監督作品の映画「橋のない川」(第一部)が「ほるぷ映画」により制作され(1969年だそうですね。)、全国上映がすすめられました。学校近くの映画館(当時は、こんな田舎にまで映画文化が根づいていました)で上映されたものを、学校行事の一環として全校生徒で鑑賞する機会がありました。
当時、私の通う高校でも、比較的熱心に取り組まれていた「民主教育」の一環として行われたものでした。
この映画鑑賞の前後にも、ホームルームでの学習や話し合いなどが行われたと思います。この課題に限らず、いろいろな人権問題、平和問題、社会問題、当時ホットな「沖縄返還」問題など、多彩な問題をテーマに、高校生自身の身の丈での「時事討論」なども、頻繁に行われていました。
HRの時間内におさまらず、次の授業の教科担任に、授業の時間をくださいと無謀なお願いに行き、認めてもらったこともありました。「牧歌的」「純真」「初心(ウブ)」「世間知らず」と、いろいろに批評されるかも知れませんが、同じ時代を生きる者同士としての信頼感が、生徒と教師、生徒同士の間に、確かに存在していた時代ではなかったかと思います。
私などは、ほかの級友達に比べても、自覚も薄く、気づきも遅い方でしたので、幼稚な、短絡的な、自分本位の、時には人を傷つけかねない意見などもよく口にしたものでした。しかし、それを、客観的・冷静にたしなめる意見をくれる級友もいて、ずっと後になってじわりと納得させられることもよくありました。
思えば、今では考えられないほど、伸びやかな、そして大らかな高校生時代だったかも知れません。もちろん、追憶特有の美化を含んでいることは間違いなく、それにふさわしく割り引いて考える必要はあるでしょうけれど。

(注 )   当時、岡山県では、古い身分遺制に起因する半封建的な差別の解消をテーマとする教育を、「同和教育」とは呼ばずに、「民主教育」と呼称していました。「民主主義教育の一環としての民主教育」という位置づけでした。これは今も通用する的確な認識だったと思います。
ところが、岡山県教育委員会は、1983年、県下の教育関係機関あてに突如通達を発し、1950年以来続いてきたこの「民主教育」 の名称を、「同和教育」 に変更しました。(現在は、「人権教育」の呼称を使用)。
水面下では、一部運動団体の動きや政治的圧力があったようですが、現場にとっては寝耳に水の出来事でした。
全国的には、「同和教育」の呼称は問題ありとして「解放教育」と唱えるべきだとする立場の人びとが、岡山では「同和教育」の名称を強く求めて来たようです。ここからも問題は「名称」そのものではなく、行政を「屈服」させて、自己の方針・見解を思うがママに採用させる点に狙いがあったものと思われます。
この無理強いの「名称変更」問題は、教育の中でことさらに、「部落問題(同和問題)」の課題を肥大化させることにつながり、いろいろな差別問題や人権課題に優先させて特別視するものだという批判や懸念を呼び、実際に、少なからぬ混乱を教育の現場に引き起こしました。
「最大の人権問題」「一番重大な差別」「最も重要な教育上の課題」「人権問題の柱」が存在するということは、とりもなおさず、子ども達が直面する切実な人権問題のなかに、自ずと、「一番大事とは言えない」、「二の次に回してもよい」、「柱ではない」ような問題(そんなものがあるの?)を想定することになります。
生徒と教師が、身の回りの切実な人権課題を、わがこととして受け止めて、その発達段階に応じながら、精一杯解決の筋道を探る、また解決の力を身につけるという、優れて自発的・創造的・自己変革的な営みがはぐくまれてきた「民主教育」という場が、ほとんど部落問題(=同和問題)にのみターゲットを絞った、しかも、いわば、あらかじめ定められた模範解答の習得に重きを置いた、「対策的」な「心がけ教育」の色合いが濃くなりました。
人権課題のテーマを並べて、子ども達に、優先順位をつけさせるといった、大まじめな「実践報告」まで目にする始末でした。
一般に、「特別扱い」がまかり通る空間では、必ず言動に不自然な慮りや制約がつきまとい、それゆえ、自由な、本心からの「納得」が阻まれるという事態が起こりがちです。
教育現場では、「上から」示される、この方針への受け止め態度が、その教員の「従順度」「真面目度」をはかる指標ともされ、何かと窮屈な空気が、職場に流れたのも事実でした。
このような、無理強いの方策が長続きするはずもありませんし、しかも、本来、封建制の残りカスである身分遺制にもとづく部落問題(同和問題)は、社会の民主主義の成熟の度合いに伴って、解消の方向に進むのが自然です。すでに、「混住(=旧「同和地区」への、他地域からの人口流入や、またその逆の現象により、地区内外の隔てが薄らいできている)」、「通婚(つうこん)(=旧「同和地区」出身者と、地区外出身者との、隔てのない婚姻)」などが大きく進行するもとで、かつての部落問題(同和問題)の痕跡すら、大きく薄らいいる現況では、「(地区の子ども達は)依然として厳しい差別にさらされている」というテーゼ自体、現実味を失ってきています。
そのようなわけで、すったもんだの挙げ句に強制された「同和教育」の呼称は、今は、素知らぬ顔で「人権教育」に改称され、まずまずのおさまりどころにおさまっているといえます。
しかし、この経緯の中で、失われたものは、どんなに大きかったかと、秘かに思っているのは、私だけでしょうか?

ラストシーンが一瞬カラーになるほかは、全編モノクロの、テーマ、表現ともにシリアスなこの映画に、私は、思いの外「暗い」印象は持ちませんでした。ほとばしるヒューマニズムと、繊細・鋭敏な感性が、作品の隅々にみなぎっているせいでしょうか?この映画作品に強く打たれて(日記にそんなことを書いています)、以後、私は、原作作品を続けて読みました。
当時、作品は、雑誌「部落」に連載中で、一部分が刊行されていただけでしたが、続編が新たに出版される度に、学校帰りに立ち寄る書店で買い求め、読み浸りました。
いわゆる「受験生」であった頃に、その自覚を放擲したかのように、何度も繰り返して読んだ本の一つですので、思い入れもひとしおのものがあります。
映画「橋のない川」(第一部)については、過去の、
「大雨の中を嬉しき宅急便」や、「お名前は? お玉?お筆?八重?杏?」などの記事で、話題にしました。


別の角度から書いた記事もあります・・・。


世の愁い燃やし尽くすや西の空:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) (2015-09-08)


先日話題にした今井正監督「橋のない川」(第一部)の1シーンに、こんな場面があったような気がします。
北林谷栄演じる老婆、畑中ぬいが、地主の元に小作米を収めての帰り道、空になった大八車(荷車)に乗るよう嫁のふでに勧められ、寛いで後ろ向きに腰を下ろした彼女の目に、みごとな夕焼けで西の空が真っ赤に染まっているのが見えます。
「見てみい。おふで。あの向こうが西方浄土ゆうてなあ、お釈迦はんが住んではるところやで。あそこには、差別も貧乏もないのやで。この世で、どんなに辛くても、辛抱して、お釈迦はんにおすがりしとったら、あそこへ行けるんやで。」
というようなことを、しみじみ語る場面。まことにあやふやなうろ覚えで、正確なところは確かめるいとまがありませんし、住井すゑさんお原作も斜め読みに当たってみましたが、見あたりません。でも私の記憶の中では、印象的な場面なのです。
前にも書きましたが、映画「橋のない川」(第一部)は、モノクロ映像がずーっと続きます。ですから、この「西方浄土」を眺めやる場面も、実際はモノクロ映像だったのでしょうが、私の脳裏には鮮やかな紅い夕焼けの映像が刻まれています。
ところで、この映画、ラストシーンの一瞬、カラーに変わります。(「パートカラー」と呼ばれるそうです)。そのラストシーンは、小森の村の人達が歩いているシルエットを包んで、夕日が空一面を真っ赤に染める、鮮烈な映像でした。
空腹の弟のために豆を炊こうとした永井武は、失火により村を焼く火事を起こします。在所の消防団は、「小森」が被差別部落であるゆえに、消火しようとせず、
火事を放置します。失火をとがめられた武はその夜自殺してしまうのでした(武は、小学校1年生でした)。武の父藤作(一年前の脳溢血による半身不随からリハビリによって復活したばかりの伊藤雄之助さんが演じています)は、武の死体を抱きながらこの村にも消防ポンプを買うと決心し、娘を遊郭に売った金を、消防ポンプの購入に充てます。村対抗の提灯落し競争で、その新しい消防ポンプにより「小森」が優勝しますが、それを承認したくない他地区の連中により、優勝旗を焼かれてしまいます。
堪え難い憤懣を抑えながら、村に向かって歩む小森の人々を、夕焼けが包むなか、画面には、1927年(大正十一年)三月三日、全国水平社が結成された旨、テロップが流れます。。
「水平社は、かくして生れた。 人の世に熱あれ、人間に光りあれ。」


 夕焼けつながりで、話題が飛んで次回に続きます。


 


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3月1日に寄せて、の巻 [今日の暦]

3月1日にちなんだ記事を、過去何回か書いています。


まずは10年前の記事。


60年目のビキニデ-:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)


(2014-03-01)


以前、東京都江東区東陽町というところに住んでいたことがありました。
長男が3歳、長女が1歳、次男はまだ生まれていませんでした。地下鉄東西線が、私の通勤電車でした。
先日も、家族で話題になりましたが、「東京ディズニーランド」が千葉県浦安市にできる直前のことでした。その頃、両親は、総武線津田沼駅近辺に住んでいたものですから、東西線や総武線を、幼い子ども連れで、よく電車で通りました。
(中略 )

夢の島公園にも何回か行きました。そうでした。「赤旗まつり」というイベントが、ここで開かれて、子ども連れで出かけたこともありました。

その、夢の島公園の一角に、いまも、「第5福竜丸展示館」があります。
いまから60年前の今日。1954年3月1日、アメリカがマーシャル諸島内・ビキニ環礁で行った水爆実験で、爆心地から150kmほど離れていた所で操業していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が死の灰を浴び、無線長の久保山愛吉さんが、「原水爆の犠牲者は私で最後にして欲しい」という遺言を残して亡くなるなど、痛ましい放射能被害を受けたのでした。

「第五福竜丸」は、水爆実験での被爆後は、練習船に改造されて「はやぶさ丸」として東京水産大学で使われていましたが、1967年に老朽化により廃船となり、東京都江東区夢の島の隣の第十五号埋立地に廃棄されていたものを発見されて、保存運動が高まり、現在は東京都によって夢の島公園の「第五福竜丸展示館」に永久展示されています。

(中略 )

ヒロシマ、ナガサキ、ビキニと、3度の核被害を体験した日本人にとって、フクシマの災厄は、悔やんでも悔やみきれませんね。事ここに及んでも、原発再稼働に固執し、他国への売り込みに躍起になり、核武装論の本音もチラリとのぞける、、、どんな「強靱な」神経構造をしていらっしゃるのか、改めて感心しますし、真底身震いを禁じ得ません。

実のところは、単に想像力が乏しいだけなのでは?と、疑っているのですがね。


次はその翌年の記事。


槙村浩と三月一日:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2015-03-01)


今日から3月。

「弥生」の声を聞くと春が遠くないことを感じます。

(中略)

ところで、去年の3月1日の記事は、これ。1954年(昭和29)の今日、 マーシャル諸島のビキニ環礁で、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」などが、アメリカの水爆実験による「死の灰」を浴びて無線長の久保山愛吉さんが亡くなるなどの被害を受けた「ビキニデー」の話題でした。

3月1日にまつわるもう一つの歴史的事件は、 「三・一運動」または「三・一事件」、「三・一独立運動」、「万歳事件」とも呼ばれる出来事。
この事件に対する日本国内の反応は、概して植民地支配を是とする立場からの一面的なもの立ったようです。

ウィキペディアの記事をお借りしますと、こうあります。

発生当時の新聞の論調は圧倒的に運動に対し批判的で、紙面には「朝鮮各地の暴動」、「鎮南浦の騒擾」、「三・一暴動」(さんいちぼうどう)、「三・一鮮人暴動」(さんいちせんじんぼうどう)といった字句が踊っていた。
 

そんな中にあって、民族の独立と国際連帯、平和・民主主義を希求する立場から、この運動を高らかに歌いあげた日本の詩人がいました。

つい最近もこの記事などで話題にした、高知の革命詩人槙村浩(まきむらこう)が、その人です。

彼は、その代表作「間島パルチザンの歌」の中で、独立運動に立ち上がった若い姉弟に仮託して、こう歌っています。

おゝ三月一日!
民族の血潮が胸を搏(う)つおれたちのどのひとりが
無限の憎悪を一瞬にたゝきつけたおれたちのどのひとりが
一九一九年三月一日を忘れようぞ!


 


翌年にはこの記事を書きました。


里村欣三は日生の生まれ、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2016-03-01)


槙村浩については↓これらの記事でも話題にしました。

●懐かしき便り嬉しき聖夜かな

●多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻
上記の記事中紹介した槙村浩の略歴を、再掲します。

(中略)      
彼は私立土佐中学へ2年飛び級で入学しますが、そこで体育の時問に先生と衝突して、海南中学校へ編入学します。ここでも軍事教練の学科試験に白紙答案をだすなど、軍事教練反対運動を組織し、放校になります。そのため、岡山の私立関西中学校へ転校し、そこを卒業しています。
関西中学校を卒業して高知に帰郷後、詩作を中心にプロレタリア文学運動に参加し、あわせて労働運動・反戦運動を続けますが、これらの活動のため政府の弾圧を受け、拷問と投獄により身体を壊し、1938年に病気で死去しました。享年26歳でした。

故郷の中学校を放校になった槙村が、岡山の私立関西中学(現在の私立関西高校)の転校し、そこを卒業したことは、岡山在住の私にとっては奇しき縁です。
昨日の日生への旅で、その関西中学に縁のある人名を目にしたのは、またまた奇しき縁でした。
その人名とは、プロレタリア作家の里村欣三(さとむらきんぞう)です。
昨日の記事でも紹介しました備前市加子浦歴史文化館「文芸館」で「自由にお持ち帰りください」とあった資料のプリントに、里村欣三の略歴がありました。

(中略)
大正7年地元の福河小学校を卒業すると家族の強い希望で幼年士官学校を受験するが、白紙答案を出し入学を拒否する。そして岡山市関西中学校へ進学。4年の時に有名な関中ストライキが起こり、二享は校長擁護派の先頭に立ち武器庫を開放、学生を武装させ学校に立てこもった。警官隊が出動し解散となったが、首謀者二享ら3名は退校処分に。金川中学校に転校するも日々図書館通いですぐに退校。その後出郷し、郵便配達、電車の車掌等を転々とする。
徴兵年齢に達したことから姫路歩兵連隊に入営するが、自殺を装い脱走。満州へ渡り、里村欣三を名乗って各地を放浪する。大正12年帰国し文筆活動に入り、「世論と電車罷業」「真夏の夜と昼」を「文芸戦線」に発表。続いて発表した深川の貧民窟のルポルタージュ 「富川町から」で文壇の注目を集める。
(中略)
大正I4年プロレタリア文芸連盟の創設に参加、「苦力頭の表情」でプロレタリア作家としての地位を確立したが、厳しい左翼弾圧と自分の経歴を隠すため、官警の目を逃れ常に家を転々としながら、活発な作家借動を展開した。
昭和I0年、子女の学齢のこともあり、徴兵を忌避し逃亡していることを自首して出て裁判となったが、家族が失綜宣告で戸籍から抹消しており、「戸籍のない者(幽霊)は裁判出来ない」との判決で、姫路師団に3ケ月人隊する。
(中略)
太平洋戦争勃発後は陸軍報道班員として井伏鱒二・海音寺潮五郎らとボルネオ・マレー・華北・フィリピンにと戦線を駆け巡り、その間数十編を越すレポート・小説を書き続けた。

彼がプロレタリア作家として注目を浴びた、代表作とも言える「苦力頭(クーリーがしら)の表情」を再読しようと、手許にある「日本プロレタリア文学集『文芸戦線』作家集1」を久しぶりにひもといてみました。


思い出しついでに、こんな記事も再掲しておきます。上の記事に続く一連の話題の一つとして書きました。


ひなせの詩歌 第三回 土屋文明の歌、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) (2016-03-04)


日生にゆかりのある詩歌の第3弾です。
備前市加子浦歴史文化館「文芸館」で「自由にお持ち帰りください」とあった資料プリント「日生の詩歌」には 土屋文明 の歌も数首載せられています。

(中略)

現代日本文学大系39巻は島木赤彦や木下利玄らと並んで土屋文明が取り上げられています。折り込み附録として添えられた「月報」に、諏訪高女校長時代のエピソードを、文芸評論家臼井吉見がこう書いています。

諏訪高女の校長のとき、上級生の平林たい子が修学旅行をすっぽかして、堺枯川を訪ねて上京するという事件があった。当時として普通の校長なら、おびえうろたえて、退学を申し渡すところだろう。この日文明校長は、たい子を呼びつけて、「おやじが三味線弾いて、娘が踊るか、よし、帰れ!」と一言あびせただけですんだという。これほたい子自身から聞いた話である。

(中略)               

平林たい子の同級生伊藤千代子は、のちに非合法運動に関係して捕えられ、獄から松沢病院へ移されて、そこで死んだ。のちに歌人土屋文明は彼女の出身校の東京女子大を訪ねた折、次のような歌を作っている。

高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき

  こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中におきて思はむ      

こうした思いは、文明の胸底にいよいよ烈々と伝わっている

(後略)

前述『六月風』に所収の、「某日某学園にて」と題する一連の作品には、上記の2首のほかこんな歌が収められています。

語らへば眼(まなこ)かがやく処女(おとめ)等に思ひいづ諏訪女学校にありし頃のこと
芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがふ少女(おとめ)あれこそ
まをとめのただ素直にて行きにしを囚(とら)へられ獄に死にき五年(いつとせ)がほどに

思想的には、伊藤千代子の抱いたマルクス主義・社会主義とは距離のある、自由主義・リベラリズムの立場でしたが、官憲の非道な弾圧と、ファシズムの暴虐にたいして、静かな鋭い告発を投げかけていて、心打たれます。


伊藤千代子についての詳しい紹介は、こちらのサイトを参照させていただきました。伊藤千代子の生涯 (tiyoko-17.org)




ついでのついでですが、先日(2/26付)の「しんぶん赤旗」の記事の一部を引用させていただきます。

と言うか、この新聞記事に触発されて過去ブログを思い出したのが、実際の順序です。

戦前の日本共産党員、伊藤千代子さんについて

長野懇談会 志位議長が語る

写真

(写真)伊藤千代子

日本共産党の志位和夫議長は24日、長野県上田市で開かれた「日本の真ん中から志位さんと希望を語るわくわく懇談会in信州」で、同県諏訪市出身で、戦前、天皇絶対の専制政治の迫害で命を落とした日本共産党員、伊藤千代子さん(1905~29年)について語りました。その部分を紹介します。

天皇絶対の専制政治のもとでの不屈のたたかい

戦前の日本は、天皇絶対の専制政治の国でした。日本共産党は「国賊」「非国民」と迫害されました。悪いことをやったからではないのです。命がけで「国民主権」の国をつくろう、「侵略戦争反対」と主張したために迫害されたのです。

多くの先輩たちが迫害で命を落としました。『蟹工船』で有名な作家の小林多喜二、経済学者の野呂栄太郎も、迫害と拷問で命を落とした日本共産党員であります。

この長野県上田市出身の日本共産党員に川合義虎さん(1902~23年)がいます。日本共産青年同盟の初代委員長をつとめました。彼は、関東大震災の時に懸命の救援活動をやるのです。そこで憲兵隊につかまって無残に虐殺されました(亀戸事件)。21歳です。上田市にはそういう大先輩がいることを、まずご紹介したいと思います。

豊かな知性と感受性、ひたむきな情熱

迫害で命を落とした先輩たちのなかには多くの若い女性党員もいました。その一人として、長野県諏訪郡湖南村(現・諏訪市)出身の伊藤千代子さんについてお話をさせていただきたいと思います。

千代子さんは諏訪高等女学校で学び、歌人として大きな足跡を残した土屋文明さん(1890~1990年)が校長をつとめた自由な雰囲気のもと、情熱的に書物を読み、豊かな知性と感性を身につけていきます。その後2年間の小学校の代用教員をへて、仙台の尚綗(しょうけい)女学校に進み、東京女子大学に編入します。そこで社会科学研究会を結成し、マルクス、エンゲルスの古典などを熱心に読んでいくのです。たいへん豊かな知性と感受性、ひたむきな情熱を持った女性だったと伝えられます。そのなかで日本共産党に入党し、党中央の事務局で党の方針を印刷するためのガリ版を切る仕事にとりくみました。

千代子さんは、1928年3月15日の大弾圧で検挙されます。ひどい拷問を受けました。市ケ谷刑務所の待遇は不衛生で非人間的なものでした。さらに信頼していた夫が、天皇制権力に屈服し、「天皇制支持」を表明して日本共産党解体を主張するグループに参加する。検事は、毎日、千代子さんを呼び出して、夫の主張への同調を迫りますが、彼女はきっぱり拒否してがんばるのです。しかし衰弱がすすみ、29年9月、亡くなりました。24歳でした。

「こころざしつつたふれし少女よ」

よく知られていることですが、歌人として大きな業績を残した土屋文明さんは、諏訪高等女学校時代の千代子さんの恩師でした。千代子さんに対してたいへんに強い印象をもっていて、1935年、歌誌『アララギ』に「某日某学園にて」と題して6首の短歌を詠みます。そのなかに、「こころざしつつたふれし少女よ新しき光の中に置きて思はむ」という短歌があることはご存じの方も多いと思います。

1935年といいましたら侵略戦争と暗黒政治の真っただ中で、その時代に、伊藤千代子さんについてこのようにうたった土屋文明さんは、ほんとうに立派な方だと思いますが、恩師の魂をゆさぶらずにはおかなかった生き方を千代子さんはしたのだと思います。

獄中で迫害を受けながら、仲間を励まし続けて

獄中で千代子さんは、ひどい迫害を受けながら、仲間を励まし続けました。東京女子大の社会科学研究会で千代子さんの後輩だった塩澤富美子さん(1907~91)という方がいらっしゃいます。塩澤さんは、野呂栄太郎と結婚し、つらい戦前を生きのびて、戦後、医師・作家として活動し、野呂栄太郎の業績を今日に伝える仕事をされた方であります。

塩澤さんも市ケ谷刑務所に送られ、そこで千代子さんと出会います。塩澤さんが入れられた監房の外から彼女の名前を呼ぶ声がしたので、獄窓から外をみおろすと、千代子さんが、監獄の庭で、塩澤さんのいる監獄の窓を向いてほほえんで立っていました。千代子さんが、「元気? 今何を勉強しているの、『資本論』は4月まで入ったのに今度禁止になってしまったの」と声をかけたとたんに、看守が制止して、千代子さんを連れ去った。それが、千代子さんの姿を垣間見た最後だったと塩澤さんは回想しています。

塩澤さんは、千代子さんへの強い思いを胸に抱いて、戦後ずっと生きていくわけですが、1979年、千代子さんが亡くなってからちょうど50年後に、「追憶」と題する歌を詠みつづっています。これを読んで、たいへんに胸を打たれました。一部を紹介したいと思います。

市ケ谷の未決監庭の片すみに こぶしの花をはじめてみたり
花の下に佇(たたず)みてわが名呼ぶ伊藤千代子を 獄窓よりみしが最後となりぬ
きみにより初めて学びし「資本論」 わが十八の春はけわしく
ひそやかなわれとの会話ききとがめ 獄吏走りきて君を連れ去る
身も心もいためつけられただひとり 君は逝きけり二四歳
君と交わせし言葉忘れず五十年 春さきがけて花咲くこぶしよ

50年後に、この歌を詠むのです。

93歳の土屋文明さんが書きつづった歌

写真

(写真)土屋文明の色紙「伊藤千代子がこと」

戦後、塩澤さんは、土屋文明さんのもとを訪ねています。そこで塩澤さんは、文明さんに、千代子さんはこういうがんばりをしたと話すのです。千代子さんの実像を知った文明さんが、塩澤さんの願いにこたえて、1983年のことなのですが、当時、93歳、やや利かなくなった腕をふるわせながら、こん身の力を込めて、新たな歌を詠む心境で書きつづったと言われるのが、3首の歌でした。

これは文明さんの直筆で3首の歌が書かれた色紙――わが党の党史資料室に保管されているものの写しです。歌題は、「某日某学園」ではなく「伊藤千代子がこと」になっています。

土屋文明さんが、暗い時代に千代子さんをうたい、93歳にしてこうした歌を書きつづった。これは日本の近代文学史の光彩ある1ページではないかと思います。土屋文明さんという大きな歌人、あるいは塩澤富美子さんのような後に続いた人々に、本当に鮮烈な感動を与えた生き方を貫いたのが伊藤千代子さんだったということを紹介したいと思います。

身をていして訴えた主張は、日本国憲法に実った

伊藤千代子さんなど私たちの先輩たちが身をていして訴えた主張は、戦後の日本国憲法に実りました。「主権在民」が書き込まれました。基本的人権、恒久平和主義も明記されました。


今朝の散歩は雨の名残が残っていました。


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カワヅザクラがようやくほころび始めています。


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気温は余り上がりませんが、昼前には、日射しが出てきましたので、カワヅザクラが沢山植栽されている阿部池の畔を訪ねてみました。


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カワラヒワの群れが、さえずりながら樹上で活発に動き回っています。


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芦原の小鳥は、オオジュリンでしょうか?


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今日はこれにて。


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今年も寒い226、の巻 [今日の暦]

時ならぬ初夏の陽気が影を潜め、雨上がりの今朝は寒さが舞い戻りました。


88年前の今日も、首都東京は、深い雪に覆われた寒い朝だったようです。1936年 ( 昭和 11年)のその日、“昭和維新”を呼号する陸軍青年将校らが兵士約1500人を率いて首相官邸などを襲撃し、政府要人ら多数を殺傷したクーデター未遂事件=「2・26事件」は引き起こされました。


昨年も、こんな記事を書きました。


226に思う、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp)


以前こんな記事を書きました。

80年目のニイニイロク、の巻(2016-02-26)

2.26事件から80年だそうです。
今朝の地元紙『山陽新聞』(27面 くらし)には、「二・二六事件から80年 渡辺和子さんに聞く 平和は日々の暮らしから」というインタビュー記事が掲載されていました。

旧陸軍の青年将校らが武力反乱を起こした二・二六事件は、日本が戦争に向かった転機として昭和史に刻まれる。雪が縁側の高さまで降り積もったその日、9歳の少女は陸軍大将の父が凶弾に倒れるのを目の当たりにした 、、、。

「陸軍大将の父」とは、渡辺錠太郎陸軍教育総監。当時9歳の少女というのは、地元岡山市のノートルダム清心女子大学の学長だった(現ノートルダム清心学園理事長)渡辺和子さん。1984年にマザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなど活躍され、著書もたくさんありますので、教育者として尊敬しておりましたが、2.26事件との数奇な関わりについては存じ上げませんでした。

(中略)

その渡辺和子さんは2016年末に亡くなられましたが、その話題はこの記事に書きました。

226思いつくまま、の巻(2018-02-26)

渡辺和子さんへの追悼記事から、一節を引用させていただきます。HUFFPOST2016年12月31日付記事、「渡辺和子さん、生前に語った2・26事件 父を殺された瞬間、そして『赦しと和解』」(吉野太一郎氏執筆)の一部分です。

(中略)

母や姉に聞きますと、父は「軍隊は強くなければいけない。でも戦争だけはしてはいけない」ということを絶えず言っていたそうでございます。「戦争は勝っても負けても国を疲弊させる。自分が勝った国、負けた国に駐在武官としてずいぶん長いこと行っていたけども、そこの人たちがどれほど食糧や着るもの、家を壊されて困っているかをつぶさに見てきた。戦争だけはしてはいけない」。それがもしかすると、その当時、ひたすら「戦争をしなければならない」と思っていた方々にとって邪魔な存在になっていたのかも存じません。私の母は、父がよく「俺が邪魔なんだよ」と言っていたと後で話してくれました。つまり父の存在が一部の方々にとっては非常に邪魔だった。

講演後、渡辺さんは2・26事件について、取材記者にこう語っていた。

「軍の一部が自分たちの意志を遂げるために蜂起し、いらないものを消し、戦争にひた走った。『こういうことは繰り返さない』と思って頂けたのなら、私もお役に立てたのではないでしょうか」

(中略)
(青年将校らが銃殺刑に処せられてから50年の日の法要に請われて出席し、)終わって帰ろうとしたら澤地久枝さんが来ていらして「シスター、せっかくここまで来たんだから、お墓参りをしたらどうですか」と、お参りしてお線香とお花を供え、立ち上がってお墓から階段を降りて参りましたときに、男の方が2人、涙を流しておられた。そのお2人が、私の父の寝所まで入ってこられた、高橋少尉と安田少尉の弟さんだった。「これで私たちの2・26が終わりました」「私たちがまず、お父様のお墓参りをすべきだったのに、あなたが先に参ってくださった。このことは忘れません。ついてはお父様の墓所を教えて下さい」と言われ、お教えして、その日は終わりました。
その日以来、毎年、お盆とお彼岸と、折あるごとに、多磨墓地の父のお墓は、お掃除が行き届いて、時には植木が刈り込んである。高橋様と安田様とはお手紙を交わす間柄になりました。本当に、父が引き合わせてくれたことだと思いますし、しみじみ思ったんですね。自分だけが被害者のような気持ちを持っておりましたけれど、反乱軍という名前をつけられた方々のご家族の50年、どんなに辛い思いをなさったか、私は一度も考えていなかった。

(中略)

長い引用になりました。
なかでも、「戦争は勝っても負けても国を疲弊させる---そこの人たちがどれほど食糧や着るもの、家を壊されて困っているかをつぶさに見てきた。戦争だけはしてはいけない」というお父様の言葉が,重く心に沁みました。経験と知性に根ざした知見に、いささかも耳を傾けることなく、いやそれらを邪魔者と力づくで排斥して、ひたすら「戦争をしなければならない」と思っていらっしゃる方々が、 いままた跋扈しているのではないかと危惧される時代だけに、、、。
ちなみに、このクーデター計画に加わった青年将校たちが掲げたスローガンは「昭和維新」でした。忘れかけていましたが,そう言えば、去年の5月、こんな記事を書いています。

●これだけは忘れない、の巻

共謀罪が衆院で強行されました。
とにかく最近忘れっぽくて困りますが、これだけは忘れないようにしなくてはなりません。
強行採決の口火を切ったのは、最後の質問者、「野党」維新の丸山穂高議員。「30時間以上質疑してきた。これ以上は足を引っ張る事が目的のピント外れの質疑は必要ない。論点も整理されて時は来た。私の質疑のあと、ただちに採決してほしい」とさ。このヒト法務委員でもない外野のヒト。
維新という存在、「補完勢力」という手厳しい呼び方にいささかためらいもありましたが、今やそれ以外の何者でもありませんね。
そういえば、昭和初期、5・15.2・26等のクーデター事件を引き起こした青年将校や民間右翼の唱えたスローガンが「昭和維新」でしたね。彼らの暴力的な妄動によって妄動によって掃き清められた道の先には、暗黒の国家総動員体制が待っていました。役目を終えた「昭和維新」のスローガンは、用済みとなって立ち消えて行きました。その歴史を知った上で、彼らは「維新」を名乗っているのでしょうかね。

タモリさんの「新しい戦前」という言葉が、躊躇なく真実味を帯びつつあるなかで、今そこある「戦中」をなんとしても食い止めなくてはと強く意識する今年の226です。




現在、当ブログ「ナードサークの四季ver.2」をメインブログとしていますが、初代ブログ=「ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp) 」と、写真置き場=「ナードサークの貯蔵庫:SSブログ (ss-blog.jp) 」も、時々更新しています。というのも、一定期間ブログの更新を怠ると、こちらの意思に関わりなく見苦しい広告が表示されて、私自身にとっても訪問客の方々にとっても非常に迷惑だからです。


というわけで、最新の更新は以下のページです。


ぶらりとお立ち寄りください。


2月15日の朝散歩、の巻:ナードサークの貯蔵庫:SSブログ (ss-blog.jp)


2月の鳥、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)




これらに掲載した記事と、時期的には重なるのですが、最近のお散歩写真を掲載します。


最近久しぶりに持ち出しているOlympusE520+ZUIKO DIGITAL ED 70-300mm F4-5.6で撮影したマンサクです。


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ロウバイもまだ咲いていますが、これは十日ほど前の状態です。


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ご近所の梅です。


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オオバンです。


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久しぶりに持ち出すという点では、ricohGXR+MOUNT A12にPENTAXkマウント用変換アダプターを介してペンタックスのオールドレンズをつけてみました。(m42スクリューマウントのレンズですので、Kマウント→m42マウント変換アダプターを挟みます)こんな過去記事で話題にした組み合わせです。


ジョビ君あらわれ秋深まる、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2020-10-25)


一緒に持ち歩いたのは、RICOH GXRに、スーパータクマー(Super Takumar)1:1.8/55mmというM42スクリューマウントオールドレンズをつけました。このレンズ、1960年代のペンタックスカメラに標準装備された定番中の定番です。モノクロフィルム撮影を前提に作られたこのレンズ、デジタル撮影においても、思いがけない良い色が出ることに感心させられます。もちろん露出もフォーカスも、マニュアルですが。

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この時紹介したカメラには着けていたビューファインダーは、その後何かの衝撃でパキンと無残に破損して使えなくなりました。中古でもかなりの金額ですので、買い換える元気もなく、背面液晶での撮影に甘んじています。


散歩道のマンサクです。


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散歩道の梅です。


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以下、今日、撮れたての写真を追加します。


ご近所の梅。



庭の水仙。


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雨の雨水、の巻 [今日の暦]

今日2月19日は雨水。


文字通り雨の一日でした。


雪が雨に変わる頃と言われますが、4月~6月並みの気温になりました。


以前こんな記事を書きました。


続々すっかり忘れてました、の巻(021-02-20)


この写真をアップするのを忘れてました。

近所の小川で漁をするカワウです。

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S0829629

(中略)

去年の記事にこんなことを書いています。

雨水を前に、の巻(2020-02-18)

暦の上では、明日が「雨水」だそうです。過去記事で、ついつい何度も話題にしています。

今日雨水青空も得しヒレンジャク(2014-02-19)

(中略)

多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻(2015-02-20)

(中略)

雛飾り草もむしりし雨水かな(2016-02-19)

(中略)

孤高の鳥、群れる鳥、の巻(2017-02-21)

(中略)

昨日は雨水、今日は多喜二忌、の巻(2018-02-20)

昨日は雨水。
今日は多喜二忌。
いずれも記事にしたい題材ですが、今日は軽く通り過ぎることにします。
多喜二について書いた直近の記事は、昨年10月のこの記事でしょうか?

「多喜二の母」に思う、の巻(2)
「多喜二の母」に思う、の巻

南(みんなみ)の便り届くや今日雨水(2019-02-19)

(中略)

よくもまあ、飽きもせず、毎年のように、似た記事を書いているものです、

こんなに同工異曲の記事を繰り返し書いてきたことも、すっかり忘れてました。でも、今日2月20日が多喜二忌だということは、決して忘れられません。


あまりにも二番煎じですが、この記事も再録しておきます。


多喜二忌に北の多喜二南の槙村を思うの巻(2015-02-20)

ところで、意に染まぬものを強圧によって押しつぶし排除しようとする権力が、歯止めを失って暴走する時、どんな信じられないことが起こりうるかということを、今日の地元紙「山陽新聞」のコラム「滴一滴」を読んで、考えさせられました。

〈ああ、またこの二月の月が来た/本当にこの二月という月が嫌な月/声を一杯に泣きた
い/どこへ行っても泣かれない/ああ、でもラジオで少し助かる/ああ、涙が出る/眼鏡がくもる〉▼29歳で非業の死を遂げた息子を思い、母が書き残した詩だ。作者は小林セキ。「蟹(かに)工船」で知られる作家小林多喜二の母である▼プロレタリア文学の旗手と呼ばれた多喜二は、1933年2月20日、東京で特高警察に捕まり、拷問を受けて絶命した。治安維持法のもと、思想や言論を理由に拘束され、命まで奪われた。この国で、82年前に起きた出来事だ▼多喜二と親交のあった作家志賀直哉がセキにお悔やみの手紙を送っている。「不自然な御死去の様子を考え、アンタンたる気持ちになります」。まさに暗澹(あんたん)たる時代だった。その年、日本は国際連盟を脱退し、ドイツではヒトラー政権が誕生した。世界は戦争へと向かった▼終戦まで、遺族は多喜二の名前すら口にできずに耐え忍んだ。戦後、セキが語っている。「思想も、言論も、出版も、結社もすべて自由になって…何というありがたいことでしょう」(「母の語る小林多喜二」新日本出版社)▼戦後70年。多喜二の名前は知っていても、その最期を知らない人は多いのではないか。時代を決して後戻りさせてはならない。心に刻む多喜二忌である。


散歩に出る気にもならず、ストック写真でお茶を濁します。


ペンタックスx-5を携えての朝散歩で、電柱に止まるカワウを写しました。


IMGP0055


目一杯ズームすると、ここまで望遠撮影ができます。 IMGP0054


広角側だととこんな具合。


IMGP0060


麦がすくすく育っています。


IMGP0059今日はこれにて。


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