「九の日」に聞く79年前の記憶.の巻 [日録]
地元「9条の会」は、毎月9の日に、平和を願う「9の日行動」を実施していますが、酷暑の8月9日は、エアコンの効いた室内で学習会を行う習いです。
今年の学習会はこんな内容で行われました。
96歳、94歳という大先輩のナマのお話を聞ける機会、ということで、この会としては過去最大の15名規模の参加で大盛況でした。
恒例、Qさんのギター伴奏とHさんの朗読つき「あの日の授業」を皮切りに開会。お二人のお話を、それぞれ約30分ずつ伺ったあと、参加者の感想や意見を交流しました。
96歳のIさんのお話(あらまし)。
94歳のAさんのお話の際、準備していただいた手書きレジュメはつぎのとおりです。
Iさんは昭和3年、Aさんは昭和5年の生まれ。私の父母とほぼ同年代です。そのことをに触れて、私も一言感想を述べさせていただきました。
過去記事に書いたお話の、これまた二番煎じです。
空襲余話、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp)
(2024-06-29)
もう一つ古い記事を引っ張り出してきました。
家族3題(代)噺、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2018-08-11)
今朝の地元紙朝刊の「読者のページ」に、老父の投稿が掲載されています。
(中略)
「戦争と平和」というテーマで募集があったので書いたと言います。
該当部分を拡大します。
このままでは読みにくいでしょうから、文字に起こしてみます。
若者に絶対駄目と願いたい
○○○○ 91 (美作市)
年を重ねても昔のことはよく覚えている。 「欲しがりません勝つまでは」と教育された。国民学校高等科2 年で卒業して、東京の軍需工場へ就職した。 先輩の指導を受けて、油だらけになり懸命に働いた。会社には私立の青年学校があり、ほとんどが軍事教練だった。
戦争は激しくなり、東京の空には毎日のよぅに米軍機が偵察に来るようになった。19 45年3月10日、東京大空襲があり10万人以上の人が命を失つた。 5月25日の大空襲では、庭の防空壕に避難したのでみんな助かった。が、工場も寄宿舎も丸焼けになったので命からがら田舎へ帰った。
8月には広島、長崎に原子爆弾が落とされ大勢の人が亡くなった。あと1年も戦争が続いたら徴兵検査を受けて軍隊に入り、現在の自分がなかっただろぅと思うと戦争の恐ろしさをつくづく思う。
あのひどい戦争の状況を知る人が少なくなった今、戦争を知らない若い人に、戦争は絶対駄目だと強くお願いする。
子どもの頃から、折に触れてその端々は聞いたことのある昔話ですが、詳細のところは知らず、初耳のところもあります。わずか一代の間でさえ、語り伝えることが容易ではないのだと改めて思います。戦後73年、みずから戦争体験を持たないだけでなく、先人の戦争体験を傾聴する姿勢を自覚的に育てることもなく大人になり、その欠如に気づかないような指導者やその取り巻きが国政を牛耳る時代、戦争の実相を語り継ぐことの大切さが身に沁みます。
ところでこの投稿記事、以前、7月半ばに書いたこの記事(臍をくくる、の巻)でちょっと触れていたとおり、投稿前に、孫達と一緒に読ませてもらっていました。
そもそもそのきっかけはと言うと、老父が地元新聞に投稿予定の記事を、孫2人が読ませてもらいました。「B29」「焼夷弾」「酷い」などの意味や読み方を確認しながら、帰りの車でもう一度2人で声に出して読み、兄が言います。「いちばんよく出てくる『戦争』という漢字は読めるだろ?3・4年生になったら「ちいちゃんのかげおくり」や「一つの花」が教科書に出てくるで。」とそのあらすじを語って聴かせます。妹は、担任のM先生が、「火垂るの墓」が悲しすぎて二回目は見たくないと言ってた。などの会話をしているので、「火垂るの墓」の話題に参加してみました。原作の野坂昭如さんを論じても始まらないので、アニメの作者を話題にしようと思って頓挫してしまったのです。
子どもたちは、正しくも「おもひでぽろぽろ」や「平成狸合戦ぽんぽこ」や「かぐや姫の物語」を上げます。それらの作品の監督、高畑勲さんのお名前がどうしても思い出せないのでした。
宮崎駿さんはすぐに思い出せたのに、なぜでしょう。さすがに新聞編集者の方は、筆者の意図を汲んだ上で、言葉遣いや漢字表記を調整し、字数もコンパクトに縮めてくださっています。その結果、「B29」は「米軍機」に、「酷い」は「ひどい」に改められ、「焼夷弾」は省略されていますが、文章の趣旨は余さず伝えてあります。たいしたものです。
もう6年前の記事になります。91 歳とあった父は、2022年の3月に逝きました。その葬儀の報告です。
葬儀報告、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp)(2022-03-14)
生まれて初めて『喪主』というものになり、こんな挨拶をしました。
(中略 )
最近父が「自分史」の一端として書き残していた文章をまとめ、小さな冊子を作りましたが 、(中略)父の命日は3月9日ですが、翌3月10日は、東京大空襲の日です。この冊子の付録として、晩年の父が時々地元新聞 の読者欄に投稿していた文章も採録しています
(中略)
ちょうど今、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻というニュースが世界中を悲しませていますが、この「戦争は絶対ダメ」というの言葉を、プーチンさんにも伝えたいと、強く思っているところです。
さて、東京空襲で焼け出されて郷里に帰った父は 、地元の鉱山で勤労奉仕に従事している時、終戦の知らせを聞きました。「悲しいようなホッとしたような苦い思い出である」と、終戦記念日に寄せた 投稿で書いています。その時18歳でした。(中略)
【注2】同じく過去記事参照
盆と台風と終戦記念日と、の巻
さて、今日は、終戦記念日。
今朝の地元紙「山陽新聞」の読者投稿欄に、「トピック終戦記念日」という特集が蟻、その一つに、こんな投稿がありました。
郷里の老父が、投稿したものです。下書きは読ませてもらっていましたが、若干の字数調整や、表現の補正はあったようですが、ほぼそのまま、掲載されていました。
記録のために、文字起こしをしておきます。
74回目の終戦記念日が来た。終戦の日、私は18歳で、ある駅の引き込み線の作業に汗を流していた。
硫化鉄鉱産出で東洋一と言われる鉱山があった。軍属の人が大勢来て、軍需工場を下に作るために大きな横穴を掘っていた。
工場の材料を受けるのに必要なホームを造るために、近くの村へ動員があった。本家のおじさんが村長をしていたので、東京空襲で焼け出されて故郷の岡山県へ帰つていた仲間3人は、勤労奉仕に借り出されたのだった。
15キロもある仕事場まで、みんな歩いて行き、鉱山の集会所で雑魚寝をした。食事は軍属の人と同じく作業員宿舎があり、近くの国防婦人会の人たちの奉仕で、麦飯のおにぎり1個とジャガイモをお皿1杯だった。暑い8月に上半身裸でつるはし、スコップで作業をした。
予定は10日くらいだったが、5日目の昼ごろ集められて、軍人さんから、涙ながらに「作業をやめて帰れ」と言われた。玉音放送は聞いていないが、戦争は終わり、悲しいようなホッとしたような苦い思い出である。
長い付録になりました。今日はこれにて。
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