『二番煎じ』に依拠して、辛うじてブログ記事の更新を続けていることに忸怩たる思いを避けられません。
探してみるとこんな記事も書きました。
五番煎じの半夏生、の巻(2017-07-02)それにしても、時々過去記事を見ていると、二番煎じ三番煎じが重なり、ネタ切れ状態を痛感するところです。
「二番煎じ」で思い出しましたが、落語の題材にありますね。火事は江戸の華といわれるように、大火が絶えないので、商家のだんな衆が交代で、火の用心の巡回をします。ウィキペディアから、あらすじの引用です。(前略)厳しい寒さに耐えかねて横着をきめこみ、手を出したくないので懐の中で拍子木を打ったり、冷えた金棒を握りたくないので紐を腰に結わえて引きずって鳴らしたり、提灯を股ぐらに入れて暖をとったりする。「火の用心」の掛け声を試行錯誤しているうちに謡のようになり、新内節のようになり、端唄をうたっていくうちに、遊び自慢の雑談になってしまう。
組が交替となり、最初の組が番小屋で火鉢を囲んで暖をとっていると、ひとりが栓をした一升徳利(ふくべとも)を出してくる。中には酒が入っており、皆に勧める。夜回り中の飲酒は禁止されていたが、「これは風邪の煎じ薬だ」と皆でうそぶき、燗をしてこっそり飲む。「苦い風邪薬の口直し」としてししの身、味噌、焼き豆腐、ネギなどが用意され、しし鍋を作るに至り、即席の酒宴になる。
その時、番小屋を管轄している廻り方同心が、外から小屋のにぎやかな声を聞きつけ、「番! 番!」と呼ぶ。酔っ払った旦那衆は最初「野良犬が吠えている」と勘違いしたが、戸を開けると侍だったために大きくあわてる。旦那衆のひとりは火鉢の鍋の上に座って鍋を隠すが、酒は隠しきれず、同心にただされる。旦那衆のひとりが「これは酒ではなく、煎じ薬だ」と言うと、同心は「身共もここのところ風邪気味じゃ。町人の薬を吟味したい」と言って酒を口にし、「うむ、結構な薬だ。もう一杯ふるまわんか」。結局同心は鍋も目ざとく見つけ、鍋も酒もすっかり平らげてしまう。旦那衆が「もう煎じ薬がない」と告げると、同心は、
「しからば、いま町内をひと回りしてまいる。二番を煎じておけ」
そればかりか、いろいろな場所屁の寄稿の必要に迫られながら書けないとき、苦肉の策で、拙ブログの過去記事などを煎じて絞り出したりすることがままあります。煎じ尽くして、すっかり出がらしになってしまったこんな文章がつい最近文字になってしまいました。
これを目にしてくださったあるお方が、文章に出てくる故内田喬さんのことを、つい昨日、山口県のお方と話題にしたばかり、と別件のメールと電話のやりとり中で、告げてくださいました。奇しき縁に驚かされます。著作権者には無断(失礼!)ですが再掲させていただきます。
夕焼けあれこれ(3) kazg
当ネットワークの設立に尽力された故内田喬さんは、私にとっては高校の恩師で、2年間国語を教わりました。同時に「文芸部」の顧問でもあり、勧められて俳句(もどき)を作ったこともありました。
母さん今帰ったよ秋の暮
微妙な字足らずです。上五「おかあさん」なら。字数が揃いますが、句としてはいただけません。「母さん今帰ったよ」というフレーズがまず浮かんで、できた句です。何気なく口からこぼれた日常の言葉のように、気負わず巧まず自然に詠んだような味が、気に入っています。
秋の日は釣瓶落とし、部活を終えて帰宅していると、とっぷり日が暮れて、田舎道はすっかり暗くなります。冷え冷えと寂しい暗がりの道を、自転車をこぎ続け、自宅の灯りを見て、ほっと気持ちがくつろぐ瞬間があります。当時午後七時から放映されていた「巨人の星」も、見逃すことがしばしばでした。夕食の後は、現在とは違って少ないとはいえ、宿題もあり、その日の自分に科した学習のノルマもある。そんな日常の一コマです。
文芸部の冊子に、これを掲載したものがクラスに配布してあったのを、何かの折に目にした教師のお一人が、「最近の俳句ってこんなのをつくるのか?」と驚き半分、あざけり半分で感想を漏らされました。内心、赤面しつつ、自分なりの抗弁もないわけではありませんでした。
夕焼けはほんとに真っ赤に燃えるんだな
この句も、同じ冊子に載せていました。さっきの批評は、これに対してのものだったかもしれません。
内田先生は、これを誉めて取り上げてくださいましたが、 実は誉められるほど純真な、無心な作品ではありませんでした。自然なつぶやきを意識し、無邪気さを装いすぎて、少々鼻につく臭さがあるかも知れません。
ところで、これらの句と重なって、なぜか思い出される情景があります。
高校生の頃、学校行事で集団鑑賞した映画「橋のない川 第一部」(今井正監督)の一シーンに、たしかこんな場面がありました。
北林谷栄演じる老婆、畑中ぬいが、地主の元に小作米を収めての帰り道、空になった大八車(荷車)に乗るよう嫁のふでに勧められ、寛いで後ろ向きに腰を下ろした彼女の目に、みごとな夕焼けで西の空が真っ赤に染まっているのが見えます。
「見てみい。おふで。あの向こうが西方浄土ゆうてなあ、お釈迦はんが住んではるところやで。あそこには、差別も貧乏もないのやで。この世で、どんなに辛くても、辛抱して、お釈迦はんにおすがりしとったら、あそこへ行けるんやで。」というようなことを、しみじみ語る場面。まことにあやふやなうろ覚えで、正確なところは確かめるいとまがありませんが、私の記憶の中では、印象的な場面なのです。
映画「橋のない川」(第一部)は、モノクロ映像がずーっと続きます。ですから、この「西方浄土」を眺めやる場面も、実際はモノクロ映像だったのでしょうが、私の脳裏には鮮やかな紅い夕焼けの映像が刻まれています。
ところで、この映画、ラストシーンの一瞬、カラーに変わります。(「パートカラー」と呼ばれるそうです)。小森の村の人達が歩いているシルエットを包んで、夕日が空一面を真っ赤に染める、鮮烈な映像でした。
空腹の弟のために豆を炊こうとした小学一年生の永井武は、失火により村を焼く火事を起こします。在所の消防団は、「小森」が被差別部落であるゆえに、消火しようとせず、火事を放置します。失火をとがめられた武は、その夜自殺してしまうのでした。武の父藤作は、武の死体を抱きながら、この村にも消防ポンプを買うと決心し、娘を遊郭に売った金を、消防ポンプの購入に充てます。村対抗の提灯落し競争で、その新しい消防ポンプにより「小森」が優勝しますが、それを承認したくない他地区の連中により、優勝旗を焼かれてしまいます。
堪え難い憤懣を抑えながら、村に向かって歩む小森の人々を夕焼けが包むなか、画面には、1927年(大正十一年)三月三日、全国水平社が結成された旨、テロップが流れます。
「水平社は、かくして生れた。 人の世に熱あれ、人間に光りあれ。」
ラストシーンが一瞬カラーになるほかは、全編モノクロの、テーマ、表現ともにシリアスなこの映画に、私は、思いの外「暗い」印象は持ちませんでした。ほとばしるヒューマニズムと、繊細・鋭敏な感性が、作品の隅々にみなぎっているせいでしょうか?この映画作品に強く打たれて(日記にそんなことを書いています)、以後、私は、原作作品を続けて読みました。
当時、作品は雑誌「部落」に連載中で、一部分が刊行されていただけでしたが、続編が新たに出版される度に、学校帰りに立ち寄る書店で買い求め、読み浸りました。いわゆる「受験生」であった頃に、その自覚を放擲したかのように、何度も繰り返して読んだ本の一つですので、思い入れもひとしおのものがあります。
今、私の手元に一枚のポスターがあります。
大学に入学したばかりの頃、サークルの先輩で専攻も同じ女学生Kさんの、飾り気のない室の壁に、このポスターが貼ってありました。卒業される時、それを無理にせがんで「形見分け」として戴いたような記憶があるのですが、今では実物は見あたりません。
Kさんは、卒業後上京して政党機関紙「赤旗」の編集部に「就職」。主に文化・芸能の分野で活躍されました。紙面に署名入りの記事が掲載されるたびに、懐かしく励まされたものでした。退職後の今も、「ジャーナリスト」の肩書きで、映画評などを執筆されています。
ところで、今、私の手元にあるポスターは、彼女の部屋にあったものではなく、最近(10年ほど前)あるいきさつで入手したものです。(つづく)
きょうはこれにて
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