79年目のもの思い、の巻 [今日の暦]
6月には必ず思い出さねばならない一連の歴史事実について,今年も触れておくことにします。
もう一つの「今日は何の日」:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2015-06-22)
1945年の今日は、「水島空襲(みずしまくうしゅう)」の日です。
ウィキペディアの記述を引きます。水島空襲とは、第二次世界大戦末期の1945年6月22日早朝におこったアメリカ軍の爆撃機・ボーイングB29による岡山県浅口郡連島町・児島郡福田村(現在の倉敷市水島)臨海部への空襲(戦略爆撃)のことである。
【中略】
当時の水島航空機製作所では、日本海軍の一式陸攻や紫電改を生産しており、米軍が日本の軍需産業を破壊する目的で行った空襲であった。
【中略】
倉敷市福田町古新田の水島緑地福田公園には1990年に「平和の鐘」が設置されている。これは倉敷市が1986年9月18日に平和都市宣言をしたのにちな
んで設置されたものであり、水島空襲が始まった6月22日午前8時36分に市民が平和を祈って鐘を打ち鳴らす。これは、日本全土を連続的に蹂躙した本土空襲の一環であり、同じウィキペディアの記事によれば、6月だけでも、次のような都市が絨毯爆撃にさらされています。
- 6月1日 尼崎空襲 死者231人。奈良空襲。
- 6月10日 日立空襲 死者1200人。
- 6月10日 千葉空襲 B29・約100機。死者152人。
- 6月17日 鹿児島大空襲 B29・117機、焼夷弾810トン。死者2,316人、負傷者5,000人以上、家屋被災約11,600戸。
- 6月18日 浜松空襲 死者1720人。焼失家屋15,400戸。
- 6月18日 四日市空襲 B29・89機。死者736人、負傷者1500名、行方不明63人、被災者47,153名、焼失家屋11,390戸。
- 6月19日 福岡大空襲 B29・239機。罹災人口60,599人(うち死者902人)。罹災家屋12,693戸。
- 6月19-20日 静岡大空襲 B29・137機。死者1,952人 罹災人口127,119人 焼失家屋30,045戸。静岡市(現在の葵区・駿河区)は、計26回の空襲を受けたが、それ以外にも数えきれない程の機銃掃射など小規模な爆撃を受けている。
- 6月19-20日 豊橋空襲 B29・136機。死者624人
- 6月22日 姫路空襲.川西航空機姫路製作所とその周辺) B29・約60機、死者341人、罹災者10220人。
- 6月22日 水島空襲(現倉敷市) 死者11人、重軽傷者46人。
- 6月22日各務原空襲(現航空自衛隊岐阜基地付近)B29・44機。死者169人
- 6月22日 呉空襲 工廠への爆撃 死者1600人。
- 6月26日 奈良空襲
- 6月28日 呉大空襲
- 6月29日 佐世保大空襲 B29・141機。焼夷弾約1200トン。死者約1300人、罹災人口約65,000人。当日は雨で「今日は来ないだろう」という市民の不意を突き深夜に空襲された。
- 6月29日 岡山空襲 B29・137機。死者1737人。罹災人口12万人。罹災家屋25,000戸。(『岡山市史』)空襲警報が出されずまったくの不意打ちであったため被害が増大した。
6月29日の岡山空襲(中略)では、 市内中心部が壊滅的打撃をこうむり、町のシンボルとも言える岡山城天守も焼失しました。現在の天守は、1966(昭和41)年にコンクリート工法で再建されたものです。
一昨日(6月26日)のTVで、こんなニュースが流れました。
岡山空襲で焼け残った3本のエノキの木 1本枯れ伐採 岡山城|NHK 岡山県のニュース
太平洋戦争末期の岡山空襲で焼け残った3本のエノキの木が岡山城にあり、悲惨な戦争を今に伝えるものとして、岡山市の市民団体が平和学習などで活用してきました。
しかし、このうちの1本が枯れて伐採されていたことがわかり、市は残り2本が保存できる状態か確認することにしています。
枯れて伐採されたのは、岡山城天守閣の北側にある3本のエノキのうちの1本で、その切り株は真ん中が黒く空洞になっています。
昭和20年6月29日の岡山空襲では、岡山城天守閣が焼け落ちましたが、3本のエノキは幹の一部が黒く焼け焦げたもののそのまま成長しました。
岡山市の市民団体「岡山の戦争と戦災を記録する会」は、この3本が悲惨な戦争を今に伝えるものとして、平和学習などの場で、たびたび紹介してきました。
しかし去年10月、岡山空襲について城内をガイドしている際、3本のうちの1本が切られていることに気づいたということです。
連絡を受けた岡山市が調べたところ、岡山城内のせん定を委託されている業者が、木が枯れて通路に倒れかかっていたため危険な状態だと判断し、去年9月に伐採したということです。
業者は空襲で焼け残った木だとは知らなかったということで、岡山市はほかの2本には空襲で傷ついたものであることを知らせるプレートを取り付けました。
企画展「第47回岡山戦災の記録と写真展 戦時下の学校と子どもたち」 | 岡山市 (city.okayama.jp)
戦時下の1945年(昭和20)6月29日、岡山のまちはアメリカ軍の爆撃機B-29による空襲を受けました。これにより当時の市街地の63%が焼け野原となり、多くの人々が傷つき亡くなりました。アメリカ軍による空襲は日本の各地におよび、広島と長崎への原爆投下も含めて66の都市が大きな被害を受けました。
このように大きな被害をもたらしたアジア・太平洋戦争は総力戦であり、あらゆる人々や組織がさまざまなかたちで戦争に協力していました。学校と子どももその例外ではありません。
学校では、子どもたちを未来の兵士・人的資源として、軍事教練をはじめとした軍国主義的な教育が行われていました。戦局が悪化すると、学業は二の次になり、子どもたちは農家の手伝いや工場での労働に動員されました。また、普段の生活のなかでも、衣服やおもちゃなど、子どもの身の回りの品々にも戦争のモチーフがあふれていました。戦争色の濃い環境で多感な時期を過ごした子どもたちは、「少国民」と呼ばれ、国家のために人生をささげていたのです。
このたびの展覧会では、こうした学校と子どもと戦争との関わり――戦時中の学校教育、勤労奉仕や学徒動員の実態、戦後の教育制度の変化などを、各学校や諸機関が所蔵する記録や写真をまじえて紹介します。
この展覧会をとおして、 戦争と平和について思いを深めていただければ幸いです。
関連して、思い出す冊子があります。
この過去記事をご参照ください。
取り急ぎ、岡山空襲の日を走り読み、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)
そして、先日は、一〇才で岡山空襲・終戦を体験された方々の手記をもとにした朗読/演劇に接する機会がありました。
概略は、この記事に書きました。
沖縄慰霊の日に思い出すこと(その3)
今日は少し補足をしようと思います。
この朗読/演劇の原作は、 「操山高校五期生の会」が、約二年の月日をかけて編集発行された手記「その時10歳の私は」。
実は、ちょっとしたいきさつから、我が家の本棚に、その冊子を一冊をおあずかりしています。というのは、この本の編集・発行の中心を担われたお一人が、同業の先輩(しかも職場も長くご一緒していただきました)の高垣章二さんで、昨年夏の同業者の作品展(この記事参照七夕雑話、)にこの本を出展されたのですが、片付けの際に、成り行きで私にしばらく保管をゆだねられたのでした。内容を拝読するにつけ、いつかこのブログで紹介したいものと思っておりましたが、このたびの演劇/朗読の機会は、良い潮時と言うべきでしょうか。
舞台の最初のシーンは、校庭らしき広々とした場所に壇が据えられていて、そこに校長が登壇し、全員起立の子どもたちに訓話をたれる場面です。
校長役は、私も親しい同業のお仲間で、地元で演劇活動にも取り組まれているIさんでした。しっかり板について、すごみさえ感じる演技でした。
原作本の冒頭にある「出征する教師を送る」と題された手記が元になっているようです。
6月の初め、その高垣章二さんの訃報を聞きました。昨年の春には、岡山後楽園での退職同業者の集まりでお目にかかることができ、久闊を叙したばかりでしたが、、、。残念でなりません。
あれこれ記録をめくるうちに、私たちの退職同業者の会の「会報」の記事を見つけました。2017年8月18日(金)から3日間の日程で開かれた「みんなで21世紀の未来をひらく教育のつどい-教育研究全国集会2017」の報告記事の一節です。
朗読劇「その時10歳のわたしは」を振り返って T・I
教育フォーラム7「世代を超えて語り継ぐ人権・平和~戦後70年の岡山~」の第2部で上演した朗読劇『その時10歳のわたしは』は、終戦時に10歳だった方々の手記を舞台化したもの。
昨年6月市民文化ホールで初演した舞台をもう一度、ダイジェスト版でもいいから「全国教育のつどい」で上演できないか。高教組の有馬副委員長からの打診を受け、手記の編集者であり昨年の舞台の総監督でもあった高垣章二さんに相談してから5ヶ月余り。当日の上演にこぎ着けるまでには、さまざまな障害を乗り越えなければならなかった。
当初は、高教組青年部が前面に出て、われわれは裏で支えるという形を構想していたが、上演台本の作・構成・演出をお願いした森脇、家野の両氏をはじめ、結果的には高退教を含む中・高年層のメンバーが主導することになった。
人集めは困難を極めた。担当の松本書記長の気苦労はいかばかりだったか。打ち合わせ、練習時間の確保もままならず、全員揃ってのリハーサルはついにできずじまい、ぶっつけ本番だった。
それでも、舞台を観てくださった方からは次のようなうれしい感想をいただいた。
「時代背景を盛り込みながら、手記をもとにした体験の重さを伝える工夫に満ちた演出でした。あの時代を生きた人々の情感がピシッと結晶化され、今の私たちをとりまく世界の動きについて考えざるを得ませんでした。」
脚本・構成、演出、音響・映像の各スタッフは60代~40代。キャストは60代から10代の高校生、小2女児まで。「その時10歳」だった方々の戦争の記録と記憶を、文字どおり4世代にわたって受け継いでゆく取り組みだった。今振り返って改めて、そこに参加できたことを感謝するとともに、第2世代としての責任を痛感している。
この記事の執筆者である「T・Iさん」とは、上に紹介した演劇で校長役を演じた「Iさん」です。彼は、私たちの退職同業者の会報を、ともに編集する立場でもあり、私にとっては、年下ながら全面的に敬服する数少ない畏友でしたが、すでに5年前、65歳の若さで、さっさと鬼籍に入られました。ご自身が編集の中心担当だった号の会報を完成された直後でした。それが、この世への置き土産となりました。
この「Iさん」について、どこかで追悼の想いを書いたかどうか、確信がありません。当ブログ過去記事を探って見ましたらこんなことを書いておりました。すっかり忘れておりました。
Iさんを偲ぶ、の巻:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2019-08-26)
退職同業者の会で、機関紙の印刷をお手伝いしました。今回は、編集にも携わっています。
私が書いた編集後記の一部(個人情報関連は一部割愛)を転載します。
今号の会報編集に携わりながら、日を追って膨らみを増してくる一つの思いを、もてあましています。あまりにも突然に、遠くへ逝ってしまわれたIさん。訃報に接してから、はや4ヶ月になろうというのに、追悼の思いを言葉にまとめる心の余裕すら、未だに持てないでいるのです。
高退教「会報」は、ここ何年か、Iさんと、Sさん、そして私の3人で、号ごとに順まわしで、編集を担当してきました。いみじくも、前号の編集担当がIさんで、苦心の編集作業の末に「編集後記」を執筆されたのが、いわば絶筆となりました。印刷発送の事務局会議を「体調不良」で欠席され、そのまま、帰らぬ人となられたのでした。
若い頃からの、重篤な病については、常々知悉しているつもりでいながら、様々な分野で、余りに律儀に、余りに自然体で、なくてはならない役割を120パーセント発揮して奮闘されているものだから、まったく予期も覚悟もできませんでした。地方選挙の最終版の時機、逝去のわずか数日前に、数刻をともにした時でさえ体調急転の兆しをうかがい知ることさえできませんでした。「一番思いがけなかったのは本人でしょう」と、奥様もおっしゃっておられた由。むべなるかな。
Iさんが新人教師であった頃の職場の同僚で、同窓の先輩でもあるSさんから追悼文を寄せていただき、今号に掲載しました。
(以下略)そのIさんをしのぶ会が、昨日あったのです。しのぶ会は、澄んだ鋭い柝(き=拍子木)の音から始まります。これを打ち鳴らすのは、高校生演劇の指導やみずからも演劇活動に関わって来られたI女史です。実は、故Iさんも、高校教員のかたわら、地方劇団の中心として、長く演劇活動に携わってこられたのでした。
この柝は、実は、当ブログで何度か話題にしたことのある畏友、故Hさんの遺品で、歌舞伎好きだったHさんが入手していたものでした。この記事などは、Hさんと柝との結びつきを思い出させます。
現職時代、私も所属していた岡山高生研(全国高校生活指導研究会岡山支部)のHP(現在は閉鎖中)に、こんな記事がありました。温羅に関する記事を一部引用させて戴きます。
温羅太鼓(ダイジェスト)目次
1990年岡山・倉敷市で開かれた高生研第28回全国大会で,現地実行委員会が発行した情宣紙の題名が「温羅太鼓」。
「さりげなく,だが力強く」を現地スローガンに掲げ,明るく楽しいトーンを大切にとりくんだ全国大会が,岡山高生研に残した財産は何だったか?あらためて確認してみたいものです。
なお「温羅」は「うら」と読み,古代吉備の伝説上の人物。近年岡山県では,町おこしの一環として,この「温羅伝説」にスポットライトをあて,「市民参加型のまつり」として「うらじゃ」祭りが盛大に取り組まれています。
このまつりが始まったのが,1994年だそうですから,岡山高生研の「温羅太鼓」のほうが,4~5年も先輩ということになります。自慢するわけではないですが...。(2007年9月記)(中略)
「温羅太鼓」と名付けられたこの情宣紙は、1990年8月2日までに34号が発行されています。私も、当時、情宣係の一員として、この発行のお手伝いをし、大会期間中は会場となっていたホテルの一室にとまりこんで早朝から深夜まで、一日数回発行の速報の編集に携わったことが思い出されます。また、現地実行委員会が提供する文化行事として、「温羅」とその一族に焦点を当てた群読劇にも取り組み、私も演者の末席を汚したものでした。このとりくみの中心を担ってくれたのが、当ブログでも何度か紹介済みの畏友H氏でした。その彼は、早々と文字通りの「鬼籍」に入ってしまわれました。
長い引用になりましたが、ここに紹介した「群読劇」で、柝を鳴らしたのは、在りし日のHさんでした。
そして、そのHさんが逝去された後、有志実行委員会で主催した偲ぶ会では、実行委員の一人だったIさんが柝を鳴らしたのだったと、I女史は思い出させてくださいました。下の記事を書いた2014年のことでした。
亡き友を偲ぶ会あり燕来る:ナードサークの四季:SSブログ (ss-blog.jp)(2014.3.28)
イニシャルばかりで読みにくい記事になり申し訳ありません。思えば、ここに登場するHさん、Iさん、さらにごく最近、I女史も亡くなられてしまいました。さらには、九の日に思う、の巻:ナードサークの四季 vol.2:SSブログ (ss-blog.jp) (2024-01-09)で書いたBさんも、若い頃、ともに教育研究・実践サークルで、ともに事務局を担っていた間柄ですが、彼もまた逝ってしまいました。
去年の9月9日の記事にこう書きました。
秋空に清らに響く鐘の声、の巻
地元「9条の会」のお仲間で、フェイスブック友達でもあるQさんが、こんな投稿をされていました。
2023年9月9日9時9分平和を祈って鐘をつきました。お寺の住職さんのご協力をいただいて9つの鐘をつきました。参加したみんなで記念の写真を撮りました。世界の平和と生活の平穏を祈って!ありがとうございました。合掌。
これに参加されたうちの一人、Bさんが、昨年末に急逝されました。ショックです。
参加メンバーの中では、最年少に近く、最近初孫を得られたばかりと聞きます。悪い病が見つかって5年、闘病しつつ、教職を続け退職後も昨年春までは非常勤講師を続けられました。
この日の九の日行動には、腕を骨折された状態で、 鐘つき行動に参加されました。ご自宅が近いからと、徒歩で。
医師からは、「治りますよ」と言われていると、にこやかにお話されていたのに、12月になって容態が急変したのだそうです。
遅ればせながら、昨日、友人とともに弔問させていただきました。
この記事でともに弔問した「友人」というのは、お互いに深い共有体験を有するKさんです。彼が、これら同世代の亡き友人たちを”まとめて”偲ぶ”文章を、最近の「会報」に二号連続で書いてくださっています。共感するところ大なので、少し無断引用させてもらいます。
I・Tさんは、新採用のK高校を皮切りに、S、K、B高校を経てS通信制で定年退職。その後も2019年まで非常勤講師をされていました。私は、I・Tさんと高教組青年部で出会い、彼が青年部長をしていたとき、日高教学習討論集会が北海道小樽市で開催されました。岡山4名の参加枠に、レポート報告なしの私とI女史が手を挙げると、I・Tさんは「KさんやI(女史)さんの将来に期待しよう」と言ってくれ、一緒に参加しました。このとき初めて全国の教職員と共に語り、その経験は自分の財産になりました。
その後、I・Tさんは腎臓の病気を患いましたが、その病気と向き合い、教員生活の傍ら「劇団H」で長く演劇活動も続けて来られました。定年退職後は、非常勤講師をしながら、岡山高退教の事務局員を務め「会報」編集にも携わってくださり、「劇団ひびき」の活動などとも併せて、精力的に活動していました。
細川さんは、新採用のT高校を皮切りに、県立O工業(途中5年間は岡山高教組での組合専従)を経て、岡山南在任中の59歳で死去されまし た。細川さんとは、(新卒当時以来の、教育研究サークル、高教組青年部活動などの活動を一緒に進め)、1990年8月の高生研全国大会(倉敷大会)開催に向けて奮闘した日々の記憶は特に鮮明です。(中略)
1994年2月28日に岡山高生研の元代表だった八木原藤義さんが肺がんのため ご逝去されました。その後を追うように、3月には三木将根さんがご逝去されました。(中略)63才の八木原さんと50才前後の三木さんの訃報に接したとき、どれほ ど年齢を重ねても、まだまだやり残したこともおありではなかったかと思わずにはいられませんでした。I・Tさんは2019年4月の新学期も非常勤講師として週2日勤務していて、亡 くなる1週間前に私は会って普通に話をしていたのに、脳梗塞で急逝されたと家族から聞きました。
細川さんは、大腸がんが判明してからの1年あまりの闘病生活の日々でも、真言宗のお寺巡りをしたり、高野山へも行ったり、月に1~2回、「珈琲館」などで会って教育談義や岡山高教組の話をしたり、平家物語の取材をしたり、「学びのひろば」に原稿を入れるなど、残された時間を謳歌していました。あたかも「歌舞伎役者」のように大見得を切って舞台から退場した細川さんでし た。
思えば、BさんとHさんはがんとの闘いに対峙して自分の生き方を貫い
たようであり、I女史とI・Tさんは、余りに突然に、演劇のように人生の舞台の幕引きをされたように感じます。
全国高生研の元代表であった竹内常一さんは、I・Tさんの追悼集の巻頭言に次の一文(一部抜粋)を寄せてくださいました。
故人のことを思いめぐらすとき、いつも私は「追悼する」とは、「死者 の願いと恨みと引き継ぎ、死者を私たちのもとに甦らせる」、つまり「死 者と連帯することである」と心に刻みこむことにしている。
それが私たちにできないでいるから、“Yasukuni War Shrine”が繰り
返し復活してくるのだ。だとすれば、「死者と連帯する」という新しい「とむらいかた」をつくることもまた、私たちの思想運動のひとつとなる。Hさんの死去以降、この「故人と連帯する」という言葉は私の心に刺さったままです。「ゲゲゲの鬼太郎」の目玉おやじが鬼太郎の肩に乗っているように、自分の両肩にHさんが乗っかかり、一緒に連帯しているように感じています。私の心の中には、いつも、今でも、Hさんが生きています。
I・Tさん、I女史、そして今回のBさんの死去に際しても、改めて「故
人と連帯する」ということが脳裏に浮かんでいます。私の肩に、これらの4人の仲間が乗っかっており、「死者の願いと恨みと引き継ぎ、死者を私たちのもとに甦らせる」、つまり「死者と連帯する」という新しい「とむらいかた」を実践していきたいと思っています。また、彼らと共に培ってきた「クラス集団づくり」「学年集団づくり」などの考え方は、教職を退いた後でも、町内会や地域や家庭内などの場でも生かせるのではないかと思っています。
今日はこれにて。
貴重なお話ありがとうございました。
by JUNKO (2024-06-29 19:34)
JUNKO様
ご訪問&コメントありがとうございます。
by kazg (2024-07-02 18:26)