平野啓一郎氏の「分人主義」についてのメモ - ARTIFACT@はてブロ

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平野啓一郎氏の「分人主義」についてのメモ

平野啓一郎氏が『ドーン』で提唱した「分人主義」についてメモ。簡単にいえば、人間関係で規定されるペルソナ。

ドーン (講談社文庫)

ドーン (講談社文庫)

平野啓一郎氏自身による解説。
『クローズアップ現代』再放送 - 平野啓一郎公式ブログ[↑B]

「個人」の中には、対人関係や、場所ごとに自然と生じる様々な自分がいる。それを僕は、「本当の自分が、色々な仮面を使い分ける、『キャラ』を演じる」といった考え方と区別するために、「分人(ディヴ)」と言っています。

好きな友達や家族の前での自分は、必ずしも「演じている」、「キャラをあえて作っている」のではないし、逆にあわない人間の前では、イヤでもある自分になってしまうわけで、人間が多様である以上、コミュニケーションの過程では、当然、人格は相手ごとに分化せざるを得ません。その分人の集合が個人だという考え方です。詳しくは、『ドーン』を読んでいただきたいのですが。

会社や学校でうまくいっていないとしても、それを自分という人間の本質的な、全人格的な問題と考えるべきではないです。そうした場所や対人関係の中で生じた分人だと、分けて考えるべきです。極端な例を言えば、僕でもアフリカの紛争地帯に行けば、そういう環境での分人を生きざるを得ないと思いますが、その状況でも、ネットで日本の友人とやりとりする時には、その人との分人を生きることが出来ます。

まめ狸さんによるネット上の情報のまとめ。
そっとプロジェクト@Wiki - ウェブ論/ポスト・匿名/実名論/分人主義[↑B]
最近「分人主義」についての新書を出した。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

内容についてのわかりやすいレビュー。
Amazon.co.jp: 私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)の bokabondoさんのレビュー

あなたは誰に対しても首尾一貫した態度を取る必要はないし、そもそも取れない。
なぜならあなたがこだわっている「自分」(人格)というものは、他者と向き合ったときに、その相手との関係性によって、その都度、起動し、喚起されるものだから――。
例えば、あなたは会社の上司に対してはいっさい反抗せず、自己主張もほとんどしない。
でも、友人を前にすると途端に饒舌になって、時に激しい議論も辞さない。
さらに、恋人(家族)と一緒にいると、いろいろ甘えたり、無理難題をふっかけてしまう。
どれが本当のあなたなのか?
答えは、「すべて本当のあなた」です。
あなたのなかには、会社の上司と接するときのあなたがいて、友人と接するときのあなたがいて、恋人(家族)と接せするときのあなたがいる。
あなたはあなたの中に、多様な(時に相反する)自分を持っている。
この多様な「自分」を、いわば、多様な心的なレイヤーを、著者は「分人」と呼びます。

秋葉原事件の加藤智大被告に対する中島岳志氏の分析が、分人に近い話題で興味深い。
「秋葉原事件」とはなんだったのか 気鋭の言論人が追った加藤智大の横顔 - 日刊サイゾー[↑B]

――本書では、加藤被告の精神構造を「ネタ化」「ベタ化」といった言葉で分析されています。
「彼が言っていることを整理すると、『建前』『本音』『本心』はどれも違うと主張している点がポイントです。現実の世界は、彼にとっては『建前』の関係で、本当のことなんて言えない世界です。一方、ネットは彼にとっては『本音』の世界でした。ただし『本音』と『本心』は異なります。例えば、彼は『ゲーセンでイチャついているカップルに火をつけたい』といった内容を掲示板に書き込んでいるんですが、これは『本音』だけど『本心』ではありません。本当に火をつけたいわけじゃないけど『うっとうしい』という気持ちはあるんです。その気持ちを『ネタ』にしているのが書き込みなんです。そして、その皮肉を分かってくれる人とベタな『友達』になりたかった」
――加藤被告としては、あくまで「本音」のレベルでの関係を求めていたんでしょうか。
「そうだと思います。ネットで知り合った人に、彼は自分の悩みを相談していました。そういう関係性を具体的に結びたいと思っていたんでしょうね。『ネタ』を繰り出せるのが自分の才能だと思っていたから、その『ネタ』を面白がってくれる人は彼にとって自分の才能を認めてくれる人だったんです。その承認を得た上で『ベタ』な悩みを共有でき、手を取り合える関係を望んでいたんです」

「秋葉原事件は止められた」加藤智大の手記から読み解く、現代社会の生きづらさ(1/4) - 日刊サイゾー[↑B]

――なるほど。本書では「孤立」を極端に恐れる加藤の心理が綴られていますね。中島さんは、この「孤立」をどのように解釈しますか?
中島 加藤は、地元の青森や仙台に中高からのゲーム仲間がいて、しかもメーリングリストでつながっている。友達と呼べる人がたくさんいたんです。もしかしたら、私が教えている学生の方が友達がいないかもしれません。しかも、勤務していた関東自動車の同僚を連れて、秋葉原ツアーを行ったり、伊豆にドライブに行ったりもしています。
――いわゆる“リア充”のような生活ですね。
中島 彼よりもコミュニケーションが下手で、友達がいない若者なんてたくさんいます。加藤はうまくやっている方なんです。なのに、彼は孤独だった。問題は友達がいないことではなくて、友達がいるにもかかわらず孤独だったことです。同じように、本書で加藤は「本音と建前」という言葉を何回も使います。現実は建前で、ネットは本音の場だと言っているんです。少し話は難しくなるんですが、これはジャン・ジャック・ルソーの問題に近いのではないかと思います。
――『社会契約論』を記したルソーのことですか?
中島 ルソーによれば近代人は内面と外観の世界の間にヴェールがかけられており、心と心でつながっていない状態です。私たちは内心ではものすごく怒っていても表面的に笑ってみたり、ものすごく愛しているのにすましてみたり、内と外が分断されていますよね。ルソーはそこに近代人の疎外を見だしました。この疎外感は他者と透明な関係でつながっていないという不全感と共に、自分自身を本当の自分から疎外しているという考えにつながっていきました。そこで、彼が理想とするのが「未開人」とされる人々。そして「子ども」。あるいは「古代人」です。つまり、近代の外部ですね。怒りたい時に怒り、笑いたい時に笑う。人間として、どちらが優れているだろうか……と彼は言います。
――加藤の目指す「本音の場」とは「未開人」のような関係だった。
中島 建前という外観を超えた関係ですね。心にかぶせられているヴェールをはぎ取った関係。彼は、ネットで同じネタを共有できれば、心と心の透明な関係を結べると思っていました。事件の大きな要因となるネット上の掲示板は、彼にとって心の関係を結ぶことができる場所だと思えたんです。彼はそこを「素の自分でいられる」「開放感があり、楽な場所」と書いています。