カナリアるーむ こころの相談室

カナリアるーむ こころの相談室

神戸 岡本 摂津本山 おもちゃひろば~Toys' Campus内併設 カウンセリングをもっと身近に

ご利用案内

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はじめまして。カナリアるーむは、おもちゃひろば~Toys' Campusに併設の相談室です。日々の暮らしにもっと身近な相談室をめざし開設しました。女性カウンセラーが対応いたします。

普段は多くの子どもたちの笑顔がこぼれるおもちゃひろばですが、営業時間外・夜間には静かに心の中をみつめる大人のため、あるいは社会での役割を解いた一人一人のための相談室となります。お仕事帰りにもご利用いただける時間帯に開室し、社会人の方、学生の方、中高年期の方からの問い合わせも積極的にお受けいたしております。


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相談室のイメージ

おもちゃが豊富な場所で気持ちが散ってしまいがちな方のために、レースカーテンをおひきします。

また育児期の方で、ご自身についてや家族・人間関係などを振り返る時間を取ることが難しい方も、 小さいお子様を遊ばせながらのご相談に応じます。( この場合はカウンセラーとクライエント様でお子様を見守りながらのお話にはなります。おもちゃは自由にお使いください。お話し中、 やや集中がそれることもあるかと思いますが、 少しでもお一人の心の時間を取っていただけるよう努めます。)

ご相談内容は、どのようなことでも結構です。秘密は固く守られます。
些細なことでも混乱や緊張があっても、うまく話さなければと気負う必要はありません。
例)人間関係・生きがい・仕事・学校/学業・恋愛・家族/パートナーとの問題・ 介護・身体/性別や性役割に関すること・資格/キャリア・経済的なこと 等々その他どのようなことでも

その他詳細ご利用案内増補(利用に関する質問等から)

面接時間枠

月曜日 17:30/19:00~21:00

火曜日 10:00~21:00

水曜日 17:30/19:00~21:00

木曜日 17:30/19:00~21:00

金曜日 10:00~21:00

※おもちゃひろば営業日(月水木)の閉店直後17:00台からのご予約は、当日のひろば閉店業務の完了に合わせたご用意となります(目安17:30以降)。ご希望の方はお問い合わせ下さい。

※尚17:00台の枠では、面接室セッティング(家具配置)に、若干の変更が生じることがございます。予めご了承お願いします。

※土・日・祝日はお休み

※完全予約制・前日までにご予約下さい。

◆面接時間は50分~60分程度

◆1回面接 3,500円

◆3回チケット 9,000円(前払い制・ご希望の方のみ)

◆面接後にお支払い下さい 。お支払いは、現金またはPayPayでの決済が可能です。

◆銀行振込も受け付けます。ご希望の方はご予約時にお申し出下さい。

◆事前連絡なくキャンセルの場合は、料金の全額を頂戴いたします。

◆男性のご利用は、ご紹介の方を対象としております。(※紹介者がいない等のご事情のある方は、まずお問い合わせ頂いた上で、折り返し送信します質問フォームにご回答下さい。ご協力お願い申し上げます。)

◆ご予約はメールまたはLINEにて承っております。お名前、ご希望日時、ご連絡先電話番号(緊急時連絡用)などを送信下さい。

◆ご連絡をいただきましたら遅くとも翌日中には返信いたします。

◆「ご予約承りました」の返信を以て日時の確定となります。

◆他の医療機関で相談中や服薬中の方はあらかじめお知らせ下さい。

kanariarm*gmail.com

(*を@に変更して送信してください。)

LINE ID: ka.87268@kanaria-room

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〒658-0072 兵庫県神戸市東灘区岡本1丁目3−17 パッセージ岡本 3F

おもちゃひろば ~Toys' Campus内併設 

toyscampus.jp

>>おもちゃひろば ~Toys' Campus のHP

一円玉2枚分


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先日、姫路科学館を巡回していたイトカワ&リュウグウの実物試料サンプル展示を見てきました。やっと…ずっと機会を逸し続けて、ようやく今回現物を拝ませて頂きました。

小惑星探査機・初代はやぶさが好きで、2号機が既に帰還して次の任務に向かっている時代ですが、いまだに初代はやぶさ追想の癖があります。今ごろ?な話ではあるのですが、展示を見て回想すること、関係のあることないこと枝葉含めて多くありました。 (以降、他愛もない話が続きますがご容赦下さい。)

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はやぶさが鹿児島内之浦の観測所から宇宙へ飛び立った年、私は遠く外国にいました。

日本の小さな探査機の情報などまったく知らず流れ来ず、宇宙のニュースにアクセスすることもありませんでした。

思い出すのはその滞在国での当時のインターネット環境。(こんな話、いま通じるのでしょうか。分かる人には分かる…?) だいぶ遅れていて常時接続はまだ無し、壁にモジュラージャックもない古いアパートで、黒い電話機(指で回してダイヤルするあれです)に直接ケーブルを差し込んで、アナログ回線でつながなければなりません。駅のキオスクでインターネット◯◯時間分というプリペイドカードを買い、小銭でスクラッチすると現れる暗証番号をPCに入力設定してダイヤルアップ接続。ここでプッシュ式フォンならピポパパ…と音がして進行するのでしょうが、そこは文字通りのダイヤル式。黒い電話機がジリリンジリリン、と入力先の電話番号の桁数分ベルを鳴らすのです。接続中は電話が話し中になるので、うちへ電話をかけてきた大家さんから「またインターネットしてたろ?いつも話し中だな?」とよくからかわれていました。

プリペイドカードはうっかり繋ぎすぎるとすぐ時間数を使い切ってしまうため、検索・調べ物は仕方がないとしても、メール送信は接続時間を短くセーブするために一度切って、テキスト入力し終わったら本文にコピペして、また繋いでジリリンジリリン送信。よくあんな面倒くさいことをせっせとやれていたものです。(しかし知らないうちにストレスにもなっていたようで、奥歯を食いしばっていたでしょ?と帰国してから歯科医に言われました。)

暦の上ではとっくに21世紀でしたが、中古で譲ってもらったWindows98ノートPCを大事になだめすかして使っていた当時としては、それでも繋げられるだけありがたい。あとは自分の生活と食べることで精一杯でした。

はやぶさの映画で、吉岡秀隆さん演じるイオンエンジン担当の堀内さんが終盤の要所になってたしかフロッピーディスクにデータを入れて運ぶシーンがあったと思うのですが、開発・打ち上げから帰還までに時代がいかに流れ変化したかを表す一コマだったと思い出します。

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その後日本に帰ってからも目前のことに忙しく追い立てられていたある日。

ニュースで眩しい流星のごとく燃えて消えるはやぶさの映像を見ました。オーストラリアの砂漠にイトカワで採取した試料カプセルを放出しながら。

流星がつぎつぎに、細い閃光が分かれ散るように輝いて消えました。

……なにあれ…!? 

初めて見たそれが、大気圏に突入したはやぶさの最期の姿でした。

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はやぶさのリアタイ経験をし損なった私は、その後あと追いで、✕✕年の◯月◯日頃、はやぶさが何処にいてどうしていたのか、というのを知ってゆくことになります。

はやぶさが辿った過去7年分の記録、追えば追うほど、同日あのとき私は…にも向き合う。

よく卒業アルバムの巻末に同時代の社会情勢が付録で載せてあったりしますが、皆様も社会的な出来事・事件に居あわせたとき、そういう振り返り方をすることがあるのではと思います。

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今日のタイトル、一円玉2枚分。

これは、はやぶさに搭載されたイオンエンジンの推進力です。一円玉が地球の重力に引っ張られる力が10ミリニュートン。はやぶさのイオンエンジンの力は合わせて24ミリニュートン、つまりわずか一円玉2枚程度をやっと浮かせるほどの力。宇宙空間ではその積み重ねを貯金して加速します。

非常に小さな力しかありませんが、空気抵抗がない宇宙では、つねに噴射をつづけ、毎日少しずつ加速していくと、1年後、2年後にはどんどん速いスピードまで到達するそうです。

ロケットというと化学エンジンの力強い噴射のイメージばかりが先行していたのですが、最初は勢いよく目的地までの軌道に入ることはできても、あっというまに燃料が尽きてしまう。飛び立ったはやぶさは電気ロケット、マイクロ波放電式イオンエンジンで、最初の1年はじっくり地球を追う。この間は太陽の近くにいることで、開いた青いパネルで太陽光電力を蓄積する。そして綿密な軌道計算のもと地球に再び最接近。地球の重力を使ってさらに加速をかける。これが地球スイングバイですが、この過程にも無性に感動していました。

どこかわが身にはね返ってきていたところもあったと思う。

外国に行って、どうにか死なずに (ちょっと危険なところでした) 戻れたわけなのですが、独力で遠くに飛んでいったのでも、一人きりで力をぶっ放して生きてたわけでも結局のところなかった。日本ではひっぱられて身動きのとりづらい心の重力を無意識にあちこちで感じていたあの頃、重たさに反発していたようでいて、結果的にはその重力を使って、この身を放り投げることができたようなものだ。

たとえ一円玉二つがやっと動かせるほどの弱い力であったとしても、長時間運転し続けることができる初代はやぶさ。目標を持ち、軌道修正を細かく何度も入れながら、スイングバイで加速を得れば「1足す1を2以上にできる」と…。

もう星になって散ったはやぶさの動力について解説を聞いた時、私事ながら当時は、引越に次ぐ引越、ガタが来たのか検診にも引っかかって入院が3回、抱くわが子はまだやっと立ち始めたところ。先がまるで見えず仕事・勉強もプライベートも中断し、どこかエネルギー滅尽していた私には、「一円玉2枚分」という言葉がことのほか沁みたのでした。

はやぶさ1号機にはここからいろんな苦難が待っていたというのに、まだ出発の最初期段階のエピソードから私はこんな具合でした。

〈続く〉

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  画像:JAXA宇宙科学研究所のX(Twitter)より

 

 

 

 

 

オレンジ色の光に

今日9/21は、世界アルツハイマーデーです。
ライトアップが全国各地で行われているそうですね。

「認知症とともに生きる希望宣言」をご存知でしょうか。一社)日本認知症本人ワーキンググループ JDWGという団体により、2018年11月1日に表明された宣言です。私自身は、認知症と家族の会の活動やその当事者の方々でつくる会報紙を通じて、この宣言を知りました。

最初に大切なことを申し上げておきたいと思いますが、論点や前提をずらさない為に……すなわち、私達は決して認知症に「ならない」ために学んだり、「完璧な全き予防のために」注目を寄せたり気をつけたりするのではないということです。

認知症と診断されたとしても、私は私でありつづけるし、あなたはあなたである、それに変わりはない。この世の中は誰もが、一人の例外なく老いや病と共にありますが、生きることの主人公は自身であり、自分らしくあることを追いつづけてよいのだということ。それを前提として知っておく必要があります。恐れることなく、隠すことなく、こんな当たり前の基本にもう一度立ち返る必要があります。


その上であらためて宣言を読み返してみます。

但し今回は、認知症の人、ではなく、主語を〈私〉にしてご覧になってみて頂きたいと思います。


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常識のとらわれから身をほどくことの大切さ。

いくつになっても人はチャレンジし、成長していく余地があること。

味方になってくれる人や場所を見つけること。

それを選んでよいこと。

生きることは人との関係の中にあるということ。

これらがすべて幸せに生きるための基本的な権利につながっていること。

 

そう考えると、この宣言における姿勢は、実は全ての人々の生き方に当てはまることなのではないでしょうか。現実を受け入れながら、自分にできることから着手する、自らの内にある柔軟な勇気を感じられるのです。

世界アルツハイマーデーに寄せて、相談室でふだんお話をお聴きするなかで、日頃感じていることとの繋がりから、ご紹介してみました。


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写真は過去のライトアップ (神戸市のサイトから)

https://www.city.kobe.lg.jp/a39067/kenko/fukushi/carenet/ninchisyou/20200921.html

降伏する

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「今こそ 一切を放棄」

先月の長崎・原爆の日。翌日の紙面の見出しに並んだ言葉。原爆を作る人々よ!という呼びかけで始まる、被爆詩人 福田須磨子さんの綴った詩が胸を打ちました。

   今こそ ためらうことなく
 手の中にある一切を放棄するのだ
 そこに初めて 真の平和が生まれ
 人間は人間として蘇ることが出来るのだ

✼••┈┈┈┈••✼

この夏は本当に酷暑でした、皆様いかがお過ごしだったでしょうか。

今日は、無条件降伏について考えてみます。 (政治ではなく“心の”無条件降伏について。)

闇の底に沈むように、力が出ず、頭が回らなくなったことはありませんか。大抵は直前までなにかにとらわれ、全力でとっ組み合っていたはずなのに…。両手両足を四つに組んで動かせないにもかかわらず、このようなときに限って、私達は自力で頑張ればなんとかなるとむやみに信じます。そうして、自ら仕掛けた闘いの土俵から降りることができなくなります。

最善を尽くすことの大切さを否定したり、何でも投げ出してしまえと申したいわけではありません。

しかし怒り、諍いを止められないとき、不安にもがいても全て無駄になりそうなときがあります。
自分の意志の力で、とどんなに思っても越えられないことがあります。
懸命に必死に思いを訴えているつもりなのに疎まれたり、思いを致すほど結果的にまわりに害を与えてしまうときがあります。
よかれと信じていたことが、大事な人や自分自身を苦しめていることがあります。
万策尽き、もう、どうしようもないと思うときがあります。
自分の力で動けなくなりそうな、そのとき。

一度全てを放して白旗を挙げるときが来ました。

世の中は勝ったり負けたり、とかく忙しい。
見映えがいい。豊か。美味。高品質。
筋力、体力。知力。
気分がいい。悪い。
高い。安い。
大きい。小さい。
広い。狭い。
健康。不健康。
期待。不安。
成功。失敗。
経験。格差。
完璧。理想。
自分よりあの人が。
こちらよりあちらのほうが。
あの時ああしておけば?
だから今こうしておくべき?

隣のレジはいつも流れが早く、他人の淹れたコーヒーはうまい。

きりのない世界。

年端のゆかない小さな子でさえもうすでに、手の内にあるものよりも、人のものが素敵に見える。
人はそもそもそういう生き物です。

……だからこそ。

人生には、いっそ諸手をあげて無条件降服をしたほうがよい瞬間があります。

不断の努力という名の理屈で全身忙しいときこそ想像してみます、
空からわが手に下りてきた「方位磁針」を。
知識・考えやプライドで一杯になった頭ではなく、涙し痛みうずくまる心のほうに磁針を載せるのです。針はどう振れたでしょう。

もっと大きな流れに、自分を超えた次元に思いを放ち、無から、0から、人生をやりなおす……真の挑戦。

今まで考えてもみなかった選択肢や別の可能性が開けてくるのは、こんなときのように思います。

闇の中で足元を照らすのは、おそらく正直な自分自身の言葉。虚飾を外し、「私」の言葉で、ほんの一歩前の視界でよい、そこに手元の光を傾けて。洞窟の底から一歩一歩、回復への過程に自分をゆだねます。

福田須磨子さんの詩が心を打つのは、死の淵にあり全て奪われたかの人が、恨みも妬みも悲しみも敵意をもうち棄てて、命のゼロ地点からの平和を、魂の蘇りを祈ったからではないでしょうか。

無条件降伏。一切を放棄した瞬間に見る。

人生に何を成したかではない。
私は/あなたはどのように生きたか。
いかように在ったか。
そして在ろうとしているか。

そこにもう一度存在を確かめていきたいと切に願います。


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世話をする

暑い夏が本格的に始まり、皆様いかがお過ごしでしょうか。ちょうど一年前のこの月に海亀の説話を取り上げました。一年たって今年もさらにいっそう猛暑…と思い返し、また海に涼を求めて、今月も「おおきなかめ」という中国の神話をご紹介しようかと思います。絵本にもなっているお話です。

❇  ❇  ❇

昔むかし海が荒れて、大きな大きな五つの山が流され水に浸かってしまいました。その山を住まいとしていた仙人たちが困って、神様に助けを頼んだところ、神様は大きな亀を連れてきて、その亀の大きな甲羅に山を乗せてくれたそうです。山が立ち陸ができこれで安心、喜ぶ仙人たちを前に、神様はこうおっしゃったそうです。

「亀にえさをやって、お世話することを忘れないように。」

美しく華やぐ五つの山と五匹の亀。ところが、仙人たちは優雅に暮らしを謳歌する内、神様とした約束を忘れてしまうのです。亀にえさをやらないまま時が過ぎてしまいました。

と、そこへ釣りをしに巨人がやってきます。神話だけあってこの辺りのスケールが大きい、巨人のしかけた釣り餌は、象(ゾウ)。釣り糸を垂らしたとたん…お腹をすかせた亀さんたちは、釣り餌の象をパクリ、巨人はここぞと一本釣り…!

山はザバーンとまた海の中へひっくり返ってしまいます。

❇  ❇  ❇

こうしてみると、山も亀も人の心のよう、海の下というのもなんだか暗示的でおもしろい話です。

陸の上の暮らしに向き合い楽しむことは大切です。でも同じほどに、海の底でゆったり支えて泳いでいる亀を思うことも。さて我々はそのお世話をできているでしょうか。どのくらいえさをあげたり、休んでもらったりしているでしょうか。(かくいう自分もついつい疲れをためてしまいがちで自戒を込めてですが)、手厚い世話はできないまでも、せめて今日のえさやりを忘れず今のご機嫌くらいはうかがっていたい。

目に見えている山陸の華やかさだけに気をとられず、あるいは限りないタスクに忙殺されそうでも、海の下にいる亀にえさをあげる時間、お世話する時間も忘れずに、大切にしていきたいものです。

巨人は、釣り針に象を仕掛けました。どこからともなくやってきた巨人にうっかり心の底を釣り上げられないよう、自らの海の中の彼らの声に耳をすませてみては。亀さんたちが渇望するところへ、するすると下ろされてきた象とは、つまり何だったか。転覆する前に、ちょっとリラックスして考える時間を持てるといいかもしれません。

一番のお世話は、私たち自分自身がよく知っているはずですから。

「おおきなかめ」福音館書店 こどものとも(年中向き)から

夏季休室日

7/30(火)〜8/2(金) : Toys' Campus・カナリアるーむ共に臨時休業
8/13(火)〜8/16(金) : お盆休み

なおご予約受付は休室中も行っています、ご希望日時を添えてメールまたはLINEにてお問い合わせ下さい。
宜しくお願いいたします。


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黒法師

「黒法師」(クロホウシ)という植物をご存知だろうか。

とても地味な見た目で、黒いような赤みがかった緑の葉だけが、細い木の枝のような茎にロゼット(放射状)に開いている。ちょっと不思議ないで立ちの植物である。
法師というくらいだから、何がしか修行を積まれた敬うべき品格があるように…?見えなくもない。敬意を表して法師殿と名付けている。

黒法師は冬に成長する。

人が寒くて凍えているような季節に、庭で揚々と葉を開き、日光を受けて育つ。
暖かくなって人がパステルカラーの服など着て浮かれだした頃、いつの間にやらそっと勢いを潜め、しだいに眠りにつく。

夏は眠る。といっても寝たのかどうかも気づかれないほど、同じ黒衣の立ち姿のままそっと眠り、たまに暑い日に葉がほろりとこぼれたりする。そうして夏は完全に休眠期に入るのだ。森の熊と逆。へえ、変わってるなあ…と興味をひかれ、面白いもの好きが高じてもらってきてしまった。

法師殿はもとは故郷の実家の、近所で営まれていた食料品店(兼雑貨店)に育てられていたものだ。店のご主人が亡くなり、おかみさんも年老いて数年前に店を閉め、今はどこかの施設に居られるそうだ。幼い時分にはよくこの店の周りでアイスを食べたり、学用品を買い足しに行ったり、くじ引きをしたり、本当ににぎやかであったが、店を閉める前にはすっかり駐車場完備の大手スーパーにお客をとられてしまっていた。そのおかみさんがかろうじて一人で店を開けていたころ、豆腐や卵などの補充的な買い物に行った母に「よかったらもらって」と分けられたのがこの黒法師だった。実家の庭に植えられて、そうして、法師殿は数年前からうちのベランダに居る。

挿し木にしておくと増える。けっこうお元気である。原産は北アフリカで、多肉植物の仲間だ。

花も咲くらしいのだが、開花は生涯一回かぎり。その花の時期もいつなのかまるでわからない。しかも花が終わると株も枯れるというので、これまた、へえ…。

おかみさんも母もまだ花を見たことがないと言う。

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春だからといって華々しくなくてもいい。
法師殿はのたまう(いや、知らんけど…)
「春だからって花がなくてもええでしょ。自分はこれから休眠期よ。」

いつ咲くのかわからぬ花を待ち遠しく、期待する気持ちを表してなのだろうか、
黒法師の花言葉は『いい予感』という。

何を花とするかは各人生によるのだろうけれども、一度限りでも存分に、この植物なりに咲いて終わるなら、あたかも、ひとの人生のようにも思える。

育つ時期も
眠って力を貯める時期も
花咲く時期も
どの地で成長するのかも
その人その人の好きな時期、場所があるんだろう。

そうか。それも、いいじゃないか。

暖かくなってくる頃、「いつ咲くのか、どこに咲こうか。いつかはどこかで咲くのかもしれない」…と見る者にも当の本人にも、願わくばいい予感を抱かせながら、また次の木枯らしが吹くまで睡る植物。

というわけで黒法師殿、これからの春夏、ベランダにてどうかいい時間を、いい夢を。あなたの姿に、この冬もなんだか心が安らぎましたよ。

あなたが寝入る季節、私はもらった元気を活かして、自分にできる事から動き出します。

失敗するけど学ぶので

寒さの中にも少しずつの春、梅もほころびはじめました。
皆様、いかがお過ごしですか。
年度末が近づいて仕事や学業もとりまとめの季節です。
そんな時期だからこそ今日は、間違い・失敗についてお話をしようと思います。

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失敗は誰もしたくないもの。
でも、そう思うあまり緊張で身動きが取れなくなったことはないでしょうか。
幼少期、青少年期、大人の皆様なら新しいことを始めた時などを考えて想像してみるとよいかもしれません。

ミスに対し、どう向き合うのがよいのでしょうか。ミスしないために禁止したり、圧力をかけたりすることがはたしてよいのでしょうか。
たとえばアメリカの例ですが、子どもたちが教室で無駄に怖れや自己否定を増幅させないよう、「間違うこと」についての考え方や見方を変える=別のポジティブな表現に言い換えるという実践があります。私が個人的に面白いと思っているのは、「失敗する資格」というライセンスカード(失敗免許/資格証)。すなわち「私は間違ってもよい」「間違いながら学ぶ資格がある」ということ…これを子どもたち自身が作って身に着けるのですが、『失敗から学ぶ限りにおいて、有効期限は無し』だそうです。
つまりこれは一生ものの資格証、というわけなのですね。
ミスしてはいけない!と厳しく縛られるより、そんなカードをポケットにいつも入れている生活のほうが、よほど心静かに強く物事に臨める気がします。

たとえばこんな資格証…

そういえばあるドラマで、失敗しない女医さんのセリフが茶の間を魅了したことがありました。今月のブログのタイトル、そこをちょっともじっています。
もちろんビジネス、特に専門性の極めて高い業務の世界では、いかなる失敗も決して許されないとは重々承知しています。

ですが、それでも私は、宇宙飛行士の油井さんが語ったあるエピソードを思い起こします。油井さんがISSに到着したとき、スコット・ケリー船長からかけられたこのような一言があったそうです。
「宇宙飛行士だって人間だからな、失敗はするよ。失敗はそもそもするもんだと思って気楽にやれよ。」
現に油井さんは、この言葉にすうっと心が楽になり作業に取り組めたと。
「失敗を言える環境を作ることは大事で、自分が上司になったときは失敗したことを褒められるくらいの気持ちでいたい、そうでなければ高い緊張にきっと潰れてしまうだろう」と仰っていました。

人の持つ真の力を発揮するために必要な、ミスや失敗の抱え方を教わった気持ちがしたのでした。

誰でも失敗をします。生まれてから老いるまで、試行錯誤の連続です。
人生において大切なことは、その失敗や間違いから学ぶこと。

「自分は失敗して諦めて、時間は失われた。」「もう無理、今さらやり直せない!」と悲痛な叫びを上げることもあろうかと思うのですが・・・

実は、閉ざされ諦めた一つの道の先に、別の二つ以上の方法が立ち現れることが、人生には少なからず起こります。正確には、一つの挫折や失敗に対し、別の+1や+2の方策、可能性としての+1や+2の代替案を探そうとすることそれ自体が、創造的生き方につながっていくと言った方がよいかもしれません。

大きな目で見れば、やり直しがきかないことは、それほど多くないのではと思います。
どうか失敗を怖れず、何度も試行し続けた証としたいものです。

 

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鳴らないチャイム

年あらたまり、皆様いかがお過ごしでしょうか。

今回の能登の震災では多くの被害があり 心よりお見舞いを申し上げます。
阪神・淡路大震災の追悼記念もこの17日で29年を迎えました。

 ✻ ✻ ✻ ✻ ✻

相談室からほど近い中学校、本山中学校では毎月ノーチャイムデーという日があって、長年継続しておられます。この日は、終日チャイムが鳴らないそうです。

このノーチャイム、実は自ら行動するなどの教育目標からではなく、震災を忘れないために設けられたものだと聞きました。

当時、岡本地区も大きな被害を受け、同中学校も避難所になったり、学校に来られない生徒がいたり、教室が使用できない中で青空授業をおこなったり、大変多くの苦労があったそうです。

もちろん、放送も使えずチャイムは鳴らない。その中で、先生・生徒同士声を掛け合っての学校運営だったと聞いております。

 ✻ ✻ ✻ ✻ ✻

私たちの生活でも、ごく当たり前にあるものがある日突然、奪われる日常。
予期できぬ災害に恐怖し心痛みますが、そういった大きなものだけではなく、個々人の人生における様々な出来事、これも同様、正直待ってはくれません。

失うということの恐さ、しかし時間は刻まれつづけ、この人生を引き受け、ひと続きに時を生きてゆかねばならない私達。どうやってこの不安や恐怖と向きあってゆけばよいか。私自身も自分に問いながら日々を送ります。

そんな時、ノーチャイムデーに学ぶこと。

無音、暗闇、「ない」ということ。
そこで、どんなことを感じるでしょうか。

例えば、黙とうを行ったとき。
目を閉じ深呼吸をしてみるとき。
何を感じ、何が聞こえるか。または何を感じないか。
実は私達は様々な音を出しています。
心臓の音、鼻の呼吸の音、 足や手指、頭髪の擦れる音。自分が知らないうちに体の働き、自然な音が起こっています。普段気に留めていませんが、耳をすませば聞こえてくる音です。
手足のじん、とした感覚が起きたり、沈黙のしん、とした気配を感じたりもします。

騒がしい考えを流し去るためには、自分の頭や心に、元々その騒がしいものが入っている状態を知っておく必要があります。
そのための無音、沈黙の経験。
そして引き換えに、普段自分がとらわれている怒りや不安などを忘れている瞬間・状態も知ります。

 ✻ ✻ ✻ ✻ ✻

いつも使っている何かを、時間や期間を定めて、使わないでみる。「有る」と「無い」の隣合わせ、連続性を体験する。例えば、スマートフォンを持たない暮らしというのは現実には大変難しい、もはや無しでは有り得ないほどの道具ですが、この機器を使えない・使わないという時間を意図的に取ってみることで、何か気づくことがあるかもしれません。

鳴らないチャイム。これを通してあの日の痛みと堪え忍んだ力を記憶していようという先生や中学生たちの取り組み。
できるところから、実践してみたいと思います。


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銭湯

寒くなってくると広告や旅番組で温泉がよく目に入る。皆さん、銭湯はお好きだろうか。

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銭湯は密かに人気で、若い方が経営を引き継ぐなどの話題も絶えないが、私が温泉や銭湯を楽しいと思えるようになったのも最近のことだ。以前は家の風呂で十分だったし、そんなに得意な場所ではなかった。

その昔、母から言われた銭湯の作法というのがあって、これがなんとも厳しかった。湯の掛け方、バシャバシャ飛び散らかさないための姿勢、桶や手の位置、タオルのしぼり方など、今から思うと小さい子供相手になんで?というくらいの口調であった。母によれば、母の子供時代にはそのように仕込まれるものだったらしい。私が嫁ぎ先で恥をかいてはならないから、と初めて連れて行った日に意気込んだのだという。

 

しかしそもそも嫁などという立場で銭湯でどうこう評される場面など、結局なかった。そんな時代である。それに拍子抜けするほど、洗い場の隣人は特に気にもせずじゃんじゃん流しているし、後ろ背中合わせの御方のシャワーの湯が直撃したことも何度かある。が、たいていこちらもとがめないし向こうも気づかないでいるし、多分「あ、すいません」「いえいえ」で終わる。今の時代は、(最低限マナーは必要だが)家族連れも多いスーパー銭湯など、外でのお風呂はゆっくり楽しく入れば良く、母の仕込みはあまり役に立たなかった。

 

ただ、どんなに立派な肩書や経歴でも美しい身なりをしていても、裸のお湯場で無作法をすると、次に服を着たときに会ってももう輝きはない、と言われたことだけは心に残った。

 

これは、ある看護師さんのお話だが、その方は、どんな嫌な人でも、一回は検査着や病院着、ときにはそれもとった姿で想像してみると苛立ちやムカムカがちょっとどこかへ行くのだとかいう。それに似たところがあるかもしれない。

 

健康のため、疲れをとるという目的もあるのだが、実をいうと、「人」が「ヒト」になっている場所…どこそこの〇〇さんでも、どこかの偉い人でも、某の学校に行っている人でも、どこかの社員でもなんでもなく、全員が全部脱ぎ捨てて裸ん坊という場所なのが無防備でどこか面白い。ぬるめのお湯で全体を見渡していると、あの人もこの人も自分も貴女も、一体何の違いがあるのだろうと気が楽になる。

 

いやしかし、自由でいたいから堅苦しい所属も金もいらないかと言われれば、要らん…と強がれるわけではない。

「よく『本当に価値あるものはお金では買えない』と言う人は多い。だがそうした決まり文句は、その人が本当にお金に困ったことがない証拠だ」と言ったのは、ギッシングという英国の作家である。絶望の内に経験した、地響きがするような、ある種の名言という気がする。

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…と、そんなことをぼんやり考えながら湯舟に浸かっていると、そろそろつい先程まであった頭の中の騒がしいことのスイッチが一つずつ切れていくのがわかる。

そうだ。屋根があって、食べ物があって、服と寝るところがあったら、あとはもう何でもあり、人生オプションだと思えてくる。だんだん細かいことが湯気に紛れてまあいいやという気になってくる。そう、この状態になれたら、今日はお疲れ様。一旦ひと休みの時。

 

隣のロッカーで「出たら体を拭いて、ちゃんとできたら、アイスだよ」どこかのお母さんの声が聞こえてきた。ぱあっと顔が輝く小さなお子さん。その横で…さあ私も何か飲もうか。

がんばるのはまた明日。


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綱と真柴

やっと長袖の手首に秋の風。先月のはじめから町中で見かけていたハロウィンかざり・クリスマスケーキの広告・おせち料理のポスターといった季節の情報も、ようやく体の中でバグを起こさず受け留められるようになりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。


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今日は長唄から鬼と心のお話です。

ここ数年人気のアニメや漫画に、鬼や魔物の類が出てくるものが多いですが、これも古い時代からのこと、割り切れなさが渦巻く人と人の世界の延長であるからこそ想起されるもの。近い間柄であればあるほど、相手への要求水準が高くなったり、遠すぎたり近すぎたり適切な距離がとれなくなったりと、痛み傷ついている人が実際に少なくありません。

 

鬼伝説といえば関西では大江山がよく知られています。大阪にも北摂に同地名がある茨木童子という鬼と、平安の武将・渡辺綱による成敗物語で、長唄・歌舞伎でも演じられるある場面を取り上げてみたいと思います。

 

描かれ方は幾通りかあるようですが、京の一条戻橋で茨木童子と戦った渡辺綱は見事に鬼の腕を切り落とし、屋敷に持ち帰ります。いずれ鬼が腕を取り返しに必ず現れるから決して気を許すべからず、忌みの期間を設けて籠もるようにと陰陽博士の晴明から勘文を受け、綱は箱にこの腕を封印します。

門を固く閉じ、万全に警戒していたはずの渡辺綱。

ここへ綱を育てた養母という老女・真柴(物語では叔母または伯母にあたるとされています)が現れて…

「さあ母が参りました、開けておくれなさいまし」

物忌みの今はできないと綱は断るのですが、真柴は引き下がりません。

綱館の段「長唄撰集第三編」より(大正14年・日吉堂本店)

 

「愛想も素っ気もない…あなたが幼いときは大切に抱いて育て、夏の間は扇であおいで暑さをしのがせ、冬の寒さは衣を重ねてあたためましたのに。ああ、そのような邪険を申すとは恩を忘れたか。」と涙を流して門によりかかる。

これには然しもの綱も弱いのです。負けて入れてしまいます。

門だけではありません。

「その箱はなに?ぜひ一目だけでも見てみたい。」とねだられて、とうとう封印した箱まで開けてしまいます。

そう、この老女こそは腕を取り返しに来た鬼・茨木童子の化け姿。正体をあらわし腕をすばやくひっつかんだ茨木童子は山へ飛び去って逃げました。

 

この場面、人の痛いところを突いてくるのですよね。恩義。貸し借り。そして罪悪感。その他もろもろ。悲しそうな声を手段に相手をコントロールする/されるところなどは、見えない形で知らず知らず私達の人の心を侵犯する、不健全な情のやりとりがよく描かれています。それがはたして愛などと、輪郭も実態もわからない名前で呼んでもよいものなのか、一言では形容しがたいのです。

しかし時々思ってしまう。

この腕の譬えが妙に生々しくも、しっくりこないでしょうか。幼いときに一人で生きられる者はいません。かならず誰かの手を必要とします。物語で渡辺綱が切り捨て持ち帰ることになる鬼の腕を、養母の腕と考えてみるとどうでしょう。この腕は、子には自分の成長の歴史の一部。養育側の真柴叔母さんからしてみれば息子に「手がかかる」時期、いわば片腕を取られていたような時間、貴重な自分の人生の一部。子のほうは持ち帰って、もはや不要だが、ひとまず封して大事にしまい込んでいる。

鬼、もとい親は…その様をしっかり見に来て、取り返しに来たわけです。(親という立場で見るとちょっと目も当てられないですが、親と子が逆転していることもままあります。)恩で泣き落とし、心に入り込み、所在を確かめて回収する。侵入される方は危機をぎりぎりのところで耐えねばならず、孝行と罪悪感がせめぎ合いの時かもしれません。

 

まあしかし、もう立派に自分のことは自分でできるはずの者同士なのに、隠したりアポなし訪問したり。親の方もとっとと速やかに引き取るなり、子の方もさっさと返したほうが得策なのですが、なかなか実際これが難しいのです。それをいつ戻すか、どうやって引き取るか、平和に返せるか、ひと悶着しながら返し返されることになるのか。

茨木童子は、橋の上では美女、のちに老いた母(叔母)の姿かたちで綱の前に現れ気を引きましたが、自分の中の鬼はどんな見目をしていますか。自分の養育者の腕はいまどこにありそうですか?もう返しましたか?いつでしたか。返したいのに、まだ手元にありますか?

あるいはあなたが養育者なら腕はいま片方ですか?もう両方ともそろいましたか?

なんだかおかしな問いかけを書きましたが、特に大人の私達は、双方の関係が近ければ近いほど、手を借りたり切り払われたり、腕を持っていったり持っていかれたり、そんなふうになっていないか、少し見直しておくのがいいかもしれません。

可能なら情緒で操作しないで、必要なときに堂々と借り、終わったらしっかりもとの場所に戻しておきたいものです。大人になってからの鬼と人の境界は、思ったより近くて暗くて深く、ついどちらがどちらか自ら惑わないためにも。


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かぎる くぎる

暑さは長引きそうですが、9月になりました。交差点で信号待ちをするランドセルの子どもたちやリュックの学生さんの群れ、仕事や家庭の雑事をこなしながら徒歩で…車で…自転車で…道を急ぐ大人の方々、長い夏休みが終わって、街の表情も時間の刻み方もまた少し変わったように見えます。

秋はじめ、突然の雨を連れてくる空模様と同じく、ご自分の心模様もていねいに変化を見守っていきたいとき。日々を刻みながら「限る」「区切る」という心の整頓方法はいかがでしょうか。

 

もしあなたがこのところ、なにか大きなものをかかえてお疲れだったなら。

これからずっと?どうなるのだろう?先へ先へと思い、慎重が過ぎて特に不安の前乗りをすると苦しくなる。でも30分、1時間でもよい「区切る」。そして自らに声をかける。「今日一日」と限ってみる。「今日“だけ”○○でいよう」やさしい言葉で、心に留める、それに努める。
時間を限ったら小休憩も入れましょう。好きな音楽、本でもコミックでも、散歩や、おやつやお茶の時間でも。しんどいからこそこれ以上自分を痛めるのはやめ、この先迎える時間を“小単位”に分け、自分の手に持たせ直します。区切ることで小さな見通しが立つかもしれません。
 
空間のほうはどうでしょうか?ヴァージニア・ウルフという作家は、「ものを書こうと思うなら、お金と鍵のかかる部屋が要る」と言いました。なるほど。同様に、茨木のり子氏はこれを「行方不明の時間」として、詩に表しました。
住居・家屋事情やご家族の事情で、そうそうご自身の部屋をお持ちになれない方もおられるでしょう。また、逆に部屋はあるけれど、心理的な安らげる空間を取るのが難しい場合もあります…それは大変気持ちの塞ぐことですが、こういうときも、「限る/区切る」ことを念頭に置く必要があるかもしれません。物理的な場がないからこそ、どこで自分の心を「確保」するか。心の線をきちんと太字罫線にできていますか?

その時間をわずかでも、どうすれば取れそうか、自販機の前でもいい、お茶を入れた湯呑みを前にする間でもよい、ベランダでもよい、駅の端っこのベンチでもよい、この○分、○○時間を区切る。

今日という一日だけ。

よい自分で在れますように。

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昔、出会った方でこのような方が居られました。「自分はスーパーの行き帰りに、喫茶店やファストフード店・イートインのようなところで、なんの用もないけど座ってボーっとするのが好きなのだ」と。まだガラケー全盛期、女性の就業環境ももうひとつ、男性の育休など実体を伴わない時代のころ、この方は家事の担い手でした。あるとき同居のご家族から「スーパーへ行くだけなのに長い、一体何をしているのか。どこかブラブラほっつき歩くのか」と問われて、その瞬間、随分苦しくなったそうです。「別に束縛もアビューズも受けてはいないし、何の事はないただの主婦ですが、」と前置きしつつため息をつき、実はそのお店でぼんやりする僅かな時間に救われていたようです。

 

ああ…と共感する方もいらっしゃるかもしれない。無論イートインスペースなどより、たとえば自然の中で鳥の声、川の音を聞くほうが本来はずっと心休まったはずだとは思う。でも日々の雑事、買い物というなかなか重い労働の途中、この方はその動線上、食料品コーナー脇の堅い椅子の上だったからこそ時間をひねり出すことができたわけで、むしろ喧騒の中、誰からも注視されず放っておかれて頭を休めることが、切実に必要だったのだろうと思う。

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家族や親しい人、仕事や活動の仲間、どんな間柄であれ互いの身の置き方は、その人その人で安心の距離というものが異なります。自分ならどの空間どんな距離感がいいのか、そこは他人に譲らずに考えてみたい。自分の心の境界線を守りきちんと区切ることは、いずれその内で力を戻し、満ちていく自分を見つめることにもなります。それは寂しさではなく豊かな孤独。先を焦ることなく、いまは限られていてもいずれ将来満ちている自分で少しずつ拓いていけるほうが、真の自信になるのではないでしょうか。

3分だけ、呼吸をゆっくり。

5分だけ、外の風の音を聞く。

10分だけ、この課題に向き合う。

今日一日だけ、決めた事一つ。

今日一日だけ、誰かに/自分に、優しく。

面倒に感じることがあっても、一日と限ってみれば、なにか可能ではと思います。

 

魂の病院

立秋などどこか異次元の出来事のように暑い毎日が続きますが、皆様お元気ですか。先日うだるような日、空調の効いた図書館に行くと、老若男女がゆったり思い思いに過ごしておられました。


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世界遺産に登録されているスイスのザンクト・ガレン修道院。その付属図書館の入口に掲げられた札には、ギリシャ語で「魂の療養所」/「魂の病院」の文字があるそうです。当時中世には教養を欠くは病もたらすとの考えがあり、図書館はそれを治癒する場所として左様な表記になったといわれます。

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無論、知や教養が直接健康を左右したりするという短絡を申すわけではありません。ですが心癒す場所としての図書館という響きには納得させられる部分があります。本を読むということが、心身の安定に与することはたしかにあるでしょう。

読書に没している時、また静かに集中できた後、とても心や頭が落ち着いたという経験はどなたもあることでしょう。

魂を養い安らげるために、スマホではなく片手には本を、少し歩いて図書館に座ってみることもいいのではと思います。

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残暑厳しく晩夏に向かいます、体調はいかがですか。お盆前後は毎年、猛暑のなか長距離を移動したり、お知り合いやお身内であれ普段あまり会わない人に会ったり、慣れない場や雰囲気にあたったりすることも多いため、お疲れの方が多くなるように感じます。家族友人の手前、笑顔で気を張っておられるけれども、やや無理をなさっていませんか。

秋風の立つまで、少し暮らしのペース・重心の置き所を考えつつ、体をいたわり魂も休める時間をとれるとよいですね。

 

相談室は8/14〜15お盆休みを頂きます。

受付は常時行っています、メール・LINEにご希望日時(複数記載可)を添えてご予約・お問い合わせ下さい。

 

海杳

7月になりました。梅雨の晴れ間の暑い日々、皆様いかがお過ごしですか。

コロナ明けの夏、海岸やプールなど水遊びを楽しみにしている子どもたちも多いことでしょう。西へ向かう海辺の沿線は、窓から目に入る水面が眩しくなりました。

今月は海にまつわる言葉から。

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「海杳」

かいよう、と読みます。そもそもどこで当たった言葉だったかもう思い出せませんが、暗く奥遠い、海のように広く暗い世界という意味合い。動きはありながら何か鎮まるような語感からか、心の深部に長く残る好きな言葉の一つです。

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一つ別の説話を差しいれますが、――大海に住む目の悪い亀の話。その亀は一生のうち一度だけ深い海の底から水面に上がってくるという。水面にはたった一つ木片が浮かんでおり、その木片には小さなうろ、小さな穴がある。これは喩え話で、人生という場で起こる諸々は、その亀が海面にたった一つ浮かんだ木の穴に顔を入れようとするような、非常に稀な千載一遇であると。そのような話があります。

この説話と海杳がいつも伴って想い起こされます。

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はじめこの亀の説話を知ったときはどんなふうにとらえたらいいか(悟りとは斯くも得難しと訓戒めいたことを聞かされても自分の中ではすぐには反響せず)そのときはただ気が遠くなる心地でした。しかしだいぶ後になって、自分の心や本意はこの亀のように、生きるという旅の途上で海面にほんのいっとき顔を出す、それがやっとと言うほどの顕われ方かもしれないと解釈をしてみるようになりました。

己の人生の長さ尺度では到底及ばぬ大海です。百年に一度浮かび上がるというその時に、我々はどこへ上がり何を知覚するだろう。水面に出した顔は?どんな表情だったろう。

いずれにせよまた大海に戻ってゆかねばならない。

このわずかな一遇のいっときに自分は生きている。ますます、十中八九自分は木片の穴に至れる気がしないのだが…それでも?もしかしたら浮木の端っこに頭くらいはぶつけたられたかもしれぬ。それに気づけたか?気づいていなかったかもしれない?

そう考えると、不思議にこのところの人生、出会ってきた出来事、その一つずつが心によぎる。狭いながらも色々な方や機会に遇っている。愚かは愚かなりに胸を突かれては、心に染みわたる瞬間も貰ってきたと思う。あれから幾歳月。長いようで過ぎてしまえばあまりに短くあまりに早い。大海の一滴とはこのことなのか。たとえそうであったとしても、喜びも悲しみも、複雑な表し難い感情も感謝も、亀の甲羅を打つ波のごとく、いま確かに自らを巻く。

眼前の海にはなにか大きな力の存在があり、適度な抵抗を与えられながら、ゆるり手探り模索の自分たち。悲しいような、延々と途方もないこの海を懸命に藻掻いている。押し出す手足の振りがある。

そこにせめてささやかな、われわれ一人ひとりの力の漲りを、つく息を、そして流れた汗や涙を感じては思う。いつか自分は忘れても、また人から忘れられても、この広い海のどこかに、生きること、出会うことの不思議を溶かしながらゆこう、と。 

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影のある言葉ではありますが、眩しい海を見ると同時に思う「海杳」。重さも温かさも全部を包み込むこの海杳を、私たちは泳げるところまで泳ぎきるしかないような気がしています。

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