今朝はより一層寒かった。
子どもたちの通学時間に合わせて犬の散歩に出かけます。
夏はそれじゃ犬がバテるからもっと早いけど、それ以外はね。
さっさと出発する息子と遅れがちな妹の間を犬と私が途中まで同じ道を歩きます。
今朝も私が犬と歩き出した後に娘が追いついてきた感じになり、見ると手袋をしておらず。取りに戻れば遅れるし、大丈夫と言うものの寒そうだなと心配つのりました。
通学路を途中まで一緒に歩いて、学校そばまでお供することもあるけど、大体はかなり手前で分かれて犬とは川沿いの道を歩きます。
娘が追いついてから分かれ道までのしばらく、一緒に歩きながら考えていました。
小さな手が寒そうだな。
でも前に娘が手袋忘れて私のを貸したら、その後の散歩でめっちゃ冷えてヤバかったな。そうなるのもキツイな、この寒さだし。
でもわかってて娘の手が冷えて真っ赤になるのはどうしても可哀想で自分が落ち着かない。
とぐるぐる考えた後、犬と子どもたちがバイバイするタイミングで
「これはめとき」と自分の手袋を差し出しました。
すぐに「え、でもママが寒いやん」と言ってくれるのです。
でも「いいって。持って行き」というとニッコリしてはめていってくれました。
ちょっと照れ臭かった私はさっさと犬を連れて別の道に進み、ああ、娘の手がこれ以上冷えなくてよかったなぁって、すごく嬉しかったのです。
親心の美談にしたいわけではありません。
こういうの、伝え方書き方が本当に難しくて嫌んなっちゃう。
親は子供に何でもゆずって我慢するのが美徳なんてことはちっとも思ってないのです。
むしろ私は子どもを放ったらかしにしがちで「あなたのため」なんてほぼ思わないし言うこともなく、ほとんどのことは「自分でやりや」という至らない未熟な母なのです。17年母親をやっててもね。
好物はじゃんけんで真剣に勝ってゆずらないし、カレーは中辛しか作りません。
でも今朝は、あの手が学校へ着くまでに冷え切って娘が辛い思いをするのは自分が冷えるよりもっと嫌だなっていう感情をしっかり味わって、好き勝手に生きてる私だけどこんなにも当たり前の親心があるなぁって、そんな自分を知れたことがただ嬉しかったのです。

ACイラストさんから 母子のおさんぽ
自発的に本音で育つ親心というのかな。
こうあるべき!という思い込みでも「お母さんなんだから」という世間体でも外聞でもなく、自分でちょっと迷いながら決めた行動
それがたまたま愛情に溢れてた。そのことが自分で嬉しかった。
それはやっぱり大事な存在が居てくれることの感謝があってこそです。母心が先ではありません。
そういえば10年前、娘がお腹にいるときにコンクリートのぬめりで滑ったことがあって、ヤバいコケると感じた私は咄嗟に手を着くよりもお腹をかばって、無様に顔を打ち付けました。運動神経がお粗末なもので、上手に手を付ける自信も判断力もなく、ほぼ本能での行動でした。
鼻と顎を勢いよくぶつけて黒くしてしまったその後の姿はマジでお恥ずかしいものでしたが、自分に赤子を守る力があったことにびっくりした後、誇らしかったです。
娘の赤ちゃん時代、抱っこして川を歩いていて滑った時も赤ちゃんは一つも傷つけずにめちゃくちゃ腕を打ち付けたし、あれれ、ずっと同じこと繰り返してますね。
でもこれ本音から、自己犠牲ではないんです。無理してやってるんじゃないんです。
自分は辛い思いをしても守りたいほど子どもは可愛いのだからうんたらかんたらという話にしたいわけでもなく、母の愛って美しいわよねという話でも決してなく、
ああ、もう難しいのですが、無理矢理まとめるならば、
人生っていいなって強烈に感じたのです。
寒いから、忘れっぽいから、小さいから、私がのろまだから
それでも前向きにお互いの思いやりも示せた。
この気持ちを持てることが、誇らしくて幸せだなって、そんな話です。
ここまで書いたのに、タイトルをAIに考えてもらうと「自己犠牲と幸福」みたいになるんだから、嫌んなっちゃうね。言葉で伝えるのが難しいからこそ、言葉を磨くのはやり甲斐のある生き方です。