介護施設で働いているびょうです。
ゆったりした夜勤でした。
それでも疲れが取れにくくダルかったのですが、
せっかくウォーキング用にヘッドホンを買ったので、
今朝は小雨が降る公園に。
靴を履き替えて、さあ今から、という時に
大粒の雨が落ちてきて、
あっという間に前が見えない程の大雨に。
唖然としながら公園を後にしましたが、
小道に入ると排水口から水が出きらず、
またたく間に川になっていくのです。
こうして水害になるのかと思うとゾッとしました。

そして、ちょっと横になり、ふとTwitterを見ると、
胃瘻やチューブで命を永らえるのは
生命に対する冒涜。
そうなのでしょうか。
私は前の施設で胃瘻をして、家族も来ない中、
毎日毎晩、ひたすら生きている女性を見ていました。
意志の疎通はできないけれど
こちらの言うことは理解できている、
ということでした。
部屋にはそれは巨大な、宗教の祭壇とオブジェが
燦然と輝いていました。
もう、看取りに入ると言われてからも、
結構な時間が経っているのですが、
彼女はひたすら生き続けていました。
彼女のお世話をしに入るたびに、
入った職員が、
「生きるって何だろう」
と辛辣な顔をして出てきます。
私も、彼女を見ることでいろいろと考えてしまいました。
でも、胃瘻自体については
以前看護師の友達に、これは悪じゃないか、
と話したことがあったんです。
彼女は現場に立つ人間の立場で、
「確かにただ生きながらえさせるためと考えると
そうだけれど、
一時期胃瘻を開設することで栄養が戻り、
元の生活に戻ってくる人もいるから
一概に悪ばかりとは言えない」
と言っていました。
おそらく言った本人も忘れているくらい昔の会話なのですが
胃瘻、という言葉を聞くたびにそれを思い出します。
胃瘻など延命処置をして、
年金をせしめようとただ命を永らえさせる家族も
確かにいます。
それにすがって生きている人もいるでしょうから、
否定はできません。
でも、多くの方がその処置に許可を出すのは
「また元に戻るのではないか」
という淡い期待感のような気がします。
「今、諦めてしまうと後悔することになるんじゃないか」
という優しさという弱さの現れなのかもしれませんが。
以前、夫と買っていた猫が車に撥ねられて怪我をした時に
もうこれ以上処置しても可愛そうだから安楽死を、
と言われたことがありました。
でも、手術で治る確率はゼロではない、と言われて
どうしても諦めきれずに手術をお願いしたことがありました。
結果的に10万円を投入して行った手術でも
治ることはなく、間もなく死んでしまいました。
ただ、いたずらにつらい思いをさせてしまっただけ。
でも、飼い始めたばかりの猫にしてもそうなのですから
長年共に生きた家族と
いきなり
ここでお別れしていいですか、
と聞かれても、決断できない、
人間の弱さや優しさというのも理解できるんです。
前の施設の入居者の方で、
精神の病がこじれて食事ができなくなり入院された方がいて
最終的に、娘さんが、
胃瘻も透析もしない、という判断をされました。
ちょうど、透析を拒否して亡くなった方が話題になっていた時でした。
よく面会にも来られ、お部屋も美しく飾って、
献身的に尽くされていた娘さんでしたので、
その判断は相当悩まれた結果だと思います。
私も母がそうなったら、同じようにすると思います。
いや、したいと思います。
でも、
その判断を下す時に、そのような勇気があるかどうか、
ただ神様に代わって命の最後に鉄槌を下すということが
恐ろしいがために、
母を管に繋いでしまう弱い自分が
今からでも見えるようです。
ただ、こうして、介護職として働く上で、
そういうケースをいろいろと事前に知ることができるのは
とてもありがたいことだと思います。
そんなことを考えつつ、
広島旅行の旅程なんかも考え始めました。

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ゆったりした夜勤でした。
それでも疲れが取れにくくダルかったのですが、
せっかくウォーキング用にヘッドホンを買ったので、
今朝は小雨が降る公園に。
靴を履き替えて、さあ今から、という時に
大粒の雨が落ちてきて、
あっという間に前が見えない程の大雨に。
唖然としながら公園を後にしましたが、
小道に入ると排水口から水が出きらず、
またたく間に川になっていくのです。
こうして水害になるのかと思うとゾッとしました。

そして、ちょっと横になり、ふとTwitterを見ると、
胃瘻やチューブで命を永らえるのは
生命に対する冒涜。
そうなのでしょうか。
あけ@eighter_akesan
@tagamekamo @pulmo_p 昔一緒に仕事をした外科医の言葉です
2019/08/28 19:54:35
『生きる者は食べて飲んで命とする。それが出来なくなるのは死に向かう準備。チューブや胃ろうから栄養を注入し悪戯に命を長らえるのは生命に対する冒涜』いろいろな立場や考え方はあるけれど私はその通りだと思います
私は前の施設で胃瘻をして、家族も来ない中、
毎日毎晩、ひたすら生きている女性を見ていました。
意志の疎通はできないけれど
こちらの言うことは理解できている、
ということでした。
部屋にはそれは巨大な、宗教の祭壇とオブジェが
燦然と輝いていました。
もう、看取りに入ると言われてからも、
結構な時間が経っているのですが、
彼女はひたすら生き続けていました。
彼女のお世話をしに入るたびに、
入った職員が、
「生きるって何だろう」
と辛辣な顔をして出てきます。
私も、彼女を見ることでいろいろと考えてしまいました。
でも、胃瘻自体については
以前看護師の友達に、これは悪じゃないか、
と話したことがあったんです。
彼女は現場に立つ人間の立場で、
「確かにただ生きながらえさせるためと考えると
そうだけれど、
一時期胃瘻を開設することで栄養が戻り、
元の生活に戻ってくる人もいるから
一概に悪ばかりとは言えない」
と言っていました。
おそらく言った本人も忘れているくらい昔の会話なのですが
胃瘻、という言葉を聞くたびにそれを思い出します。
胃瘻など延命処置をして、
年金をせしめようとただ命を永らえさせる家族も
確かにいます。
それにすがって生きている人もいるでしょうから、
否定はできません。
でも、多くの方がその処置に許可を出すのは
「また元に戻るのではないか」
という淡い期待感のような気がします。
「今、諦めてしまうと後悔することになるんじゃないか」
という優しさという弱さの現れなのかもしれませんが。
以前、夫と買っていた猫が車に撥ねられて怪我をした時に
もうこれ以上処置しても可愛そうだから安楽死を、
と言われたことがありました。
でも、手術で治る確率はゼロではない、と言われて
どうしても諦めきれずに手術をお願いしたことがありました。
結果的に10万円を投入して行った手術でも
治ることはなく、間もなく死んでしまいました。
ただ、いたずらにつらい思いをさせてしまっただけ。
でも、飼い始めたばかりの猫にしてもそうなのですから
長年共に生きた家族と
いきなり
ここでお別れしていいですか、
と聞かれても、決断できない、
人間の弱さや優しさというのも理解できるんです。
前の施設の入居者の方で、
精神の病がこじれて食事ができなくなり入院された方がいて
最終的に、娘さんが、
胃瘻も透析もしない、という判断をされました。
ちょうど、透析を拒否して亡くなった方が話題になっていた時でした。
よく面会にも来られ、お部屋も美しく飾って、
献身的に尽くされていた娘さんでしたので、
その判断は相当悩まれた結果だと思います。
私も母がそうなったら、同じようにすると思います。
いや、したいと思います。
でも、
その判断を下す時に、そのような勇気があるかどうか、
ただ神様に代わって命の最後に鉄槌を下すということが
恐ろしいがために、
母を管に繋いでしまう弱い自分が
今からでも見えるようです。
ただ、こうして、介護職として働く上で、
そういうケースをいろいろと事前に知ることができるのは
とてもありがたいことだと思います。
そんなことを考えつつ、
広島旅行の旅程なんかも考え始めました。

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コメント
コメント一覧 (6)
わたしが初めて現場に着いたのは老健でした。
そこに胃瘻を増設した男性が入所されましたが、結果として3ヶ月くらいで経口に戻りました。
だから、可能性はあると思うし、冒涜という言葉は当てはまらない気がします。
ご家族の対応はこれとは切り離して考えるべきなのかな、と。自立の方でもご家族に放られっぱなしの方もいるし、難しいですよね。
ところで、わたしは長くこの仕事に就きたいので9月からはグループホームに移ります。小さい有料での夜専は引き続き週一で。ゆるゆるとやっていこうと思います。
50代離別おひとりさまです。
食べるために54歳で介護職を始め来年の介護福祉士を受験予定です。
いつも親近感があって楽しみにお邪魔しています。
胃ろう、とても難しく考えても考えても答えは出ません。
少なくとも私自身に関しては胃ろうどころかすべての延命拒否です。
職場のお年寄りをみていると(ご家族が)胃ろうを選択される場合が殆どです。
正直心の中で「80代後半になったらもういいんじゃないの? 自然の摂理だよ。」と思います。
だけど“胃ろう”という生き長らえる選択肢があるのに選ばないのは息子娘として世間体とか後ろめたさからかなぁと思っています。
と、ここまでは前置きでして
実は私は寝たきりの娘(成人)と二人暮らしです。最重度の障害者です。昨年、胃ろうを作りました。
自分でも矛盾していることは百も承知です。
理由なんてありません。
ただ生きていて欲しいんです。
息をしていて欲しいんです。
最近の若者はよく 「貢献したい」と言いますが
貢献どころか全面的に福祉のお世話になり(つまり税金を使い)社会のお荷物です。
でもねぇ、この娘がいてくれることが私の生きる支えなんですよね。
胃ろうがない時代だったらこの娘はもう寿命が尽きているかもしれません。
胃ろう、寿命、よくわかりません。
わからないので思考停止です。😅
病状や家族との関係で判断はいろいろでしょう。最も近い人が悩んだ末に決めたことはそれでいいのだと思います。その人が決めたなら静かに味方するのが親族や友人の役目と思いました。(たまに来る親族ほど騒いで邪魔するといいますね)
最近のお医者さんは「枯れて行くような死に方」を勧めるので、ちょっと悩みましたけれど。本人の希望で枯れて行く母を10日ほど見守った友人は極めて豪胆だったんだなあと尊敬しました。それでも悔いが残らない訳じゃないらしいです。長くてすいません。体調気をつけてお大事に。
老健だと設備も整っているから多いのでしょうかね。
元々は医療の方策のひとつだったのが、延命に多く使われるようになったのかもしれませんね。家族がどう思おうと、まず、生きること、これが生き物としての本能。一概に延命を悪とも言えない側面がありますね。実際にそういう場面をご覧になっていればさらに。
老健はお疲れ様でした。やはり過酷な労働かと思います。同年代とも、最終的にはグループホームって話をよくしています。自分はもう少し修行を積んで、かもしれません。週一の夜専もとなると、結構ハードかと思います。新しい職場でもご活躍されてくださいね。
50代から始める介護、少し先輩でいらっしゃいますが、ほぼほぼ同期、なんか嬉しいです。
そして、自分自身には延命拒否でも、娘さんはそれで生きることができている。
こんなコメント欄でうかがうには勿体無いような貴重なお話、ありがとうございます。
机上論ではなく、実際それが胃瘻を始め様々な延命に関する答えのような気がします。自分はそんな姿で永らえたくないけれど、家族であればどんな形でも一緒に居たい、自分も親に対してはそういう気持ちになるのかもしれません。まあ、老体に鞭打ってまですることでもないし、やはり私も思考停止かなあ。
透析なんかでもそうですが、一度、そうしてしまうと、止める機会は自分で作らなくてはならなくて、止めることが殺めてしまうことと同じになってしまうような残酷さもあります。医療の発達というのは、改めて、人の生き方を変えていくのだと痛感します。
仕事と娘さんとの生活と、それに加えて介福のお勉強、とても大変だと思いますが、そういう方こそ是非、活躍していただきたいので、頑張ってくださいね。応援してます!
家族の介護で一番凄いと思うのが、ご主人の親の介護です、自分の親でも一杯一杯なのに、義理のお母様によくされているのは頭が下がります。
良いお嫁さんが来てくれて、お義母さま、良かったですね。
92歳というと凄い!と前は思っていましたが施設で働いていると、まだイケると思ってしまう職業病に苦笑してしまいます(^^ゞ
そうやってタフに生きている方を見ると、どう生きるか、なんて考えは甘っちょろくて、死ぬまでは生きてやる、という今の高齢者の方々の強さを感じます。
そして、ご家族が決めたらそれに寄り添う、当たり前のようで居て大切なことですね。
枯れるように亡くなられる10日、想像を絶する体験ですね。豪胆でありながらもトラウマも抱えられていると思います。本当に心も体も介護というのは大変だと思います。
いろいろ参考になりました。難しい問題ですのに、コメントくださって感謝です。