浦賀みなと祭 (浦賀港:神奈川県横須賀市 2015.8.22)
初めて「浦賀みなと祭」へ。
今年の開催日は今日と明日(8月22~23日)の2日間。
「浦賀みなと祭」よりは「浦賀花火大会」としてご存知の方のほうが多いかもしれません。
打ち上げる花火の数は5百発と、花火大会としてはさしたる規模ではありません。
行ってみる気になったのは、桟橋に灯籠が飾られると知ったから。
インターネットで調べた私が「浦賀病院前のボードウォークあたりに灯籠が飾られるらしいよ」と言うと、浦賀は地元のガンコちゃんが、「そこは"引揚桟橋(ひきあげさんばし)"と言う」のだと。
花火大会は子供の頃から知っていた彼女も、引揚桟橋に灯籠が飾られることは知らなかったようです。
引揚港としての歴史を持つ浦賀にふさわしく、鎮魂と平和の祈りのこもった行事…だと思った次第です。
浦賀みなと祭 (浦賀港:神奈川県横須賀市 2015.8.22)
"引揚桟橋"は、"陸軍桟橋"とも呼ばれていたとか。
時系列的には、通称"陸軍桟橋"と呼ばれていた場所が戦後"引揚桟橋"と呼ばれるようになった、ということなのでしょう。
第二次世界大戦終了後、浦賀港は引揚指定港の一つとなりました。
外地からの引揚者約56万人を受け入れたそうです。
横須賀市の公式サイトにその紹介文がありますのでリンクします。
敗戦時には、軍人・民間人を合わせて660万人以上の日本人が海外に在住していたと言われます。
1946年(昭和21年)末までに、そのうちの500万人ほどが引揚げ、すなわち本土に帰国したと。
生死を賭しての引揚げは想像を絶する困難を極めるもので、故国の土を踏めずに途中で亡くなった人も相当数に上ったようです。
引揚げの途次に亡くなられた人々を含めて、改めて戦争犠牲者への祈りを捧げるものです。 絵灯籠いまも引揚桟橋と (えどうろう いまもひきあげさんばしと) 平和への子らの願ひの絵灯籠 (へいわへのこらのねがいの えどうろう)
浦賀みなと祭 (浦賀港:神奈川県横須賀市 2015.8.22)
浦賀みなと祭 (浦賀港:神奈川県横須賀市 2015.8.22)
浦賀みなと祭 (浦賀港:神奈川県横須賀市 2015.8.22)
大看板切子に中島三郎助 /むく (おおかんばんきりこに なかじまさろうすけ) 切子(灯籠)とは言え、ご覧のように特大サイズなので吊るすことはできません。
灯が点滅しながら大灯籠が回転する仕掛になっていました。
灯籠を模した被り物を頭に載せた娘さんたちの舞も奉納されますが、夕方から出掛けたので見ることは出来ませんでした。
看板絵に描かれた中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)(文政4(1821)年~明治2(1869)年)は浦賀奉行所の与力でしたが、米国のペリー艦隊が浦賀沖に来航(黒船来航)した際に、艦隊の旗艦"サスケハナ"(USS Susquehanna)に乗船し、艦内を隈なく偵察したそうです。
その後幕府に重用され、戊辰戦争でも幕臣として士道を貫き、榎本武揚らと行動を共にして蝦夷地に渡り、箱館政権(蝦夷共和国)の箱館奉行並に。
敗色が明らかになった箱館戦争で、周囲には政府軍に降伏するよう説きながら自らは長男、次男らと共に千代ヶ岡陣屋で討死する道を選んだことでも知られています。
墓所は東浦賀にある東林寺。
函館には中島町の地名が残されており、「中島三郎助父子最期の地」の碑もあるようです。
浦賀は造船で栄えた町ですが、その歴史は、ペリー来航後、江戸幕府が浦賀造船所を設置し、中島三郎助らに命じて軍艦の建造を始めたことに遡ります。
また江戸時代の浦賀は江戸にも影響を及ぼしたといわれるほど俳諧が栄えた土地で、そうした風土で生まれ育った三郎助もまた詩歌を愛し、木鶏の俳号を持つ俳人でもありました。
うつせみの かりのころもを ぬきすてて 名をや残さむ 千代ヶ岡辺に /中島三郎助
テーマ : 詩・和歌(短歌・俳句・川柳)など
ジャンル : 学問・文化・芸術