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背伸びして滅びし世あり豆桜

秀句鑑賞-秋の季語: 鳳仙花(ほうせんか)

2023/08/20 Sun

秀句鑑賞・秋



  鍵掛けぬ村の昼餉や鳳仙花 /中村零城

    (kagi kakenu mura no hiruge ya hōsenka)


 鳳仙花は暑さもまだ盛りの頃に咲く。
 「家の作りやうは、夏をむねとすべし」と兼好法師が徒然草に記したように、家屋は夏過ごしやすいように建てるのが日本の伝統だった。
 開閉が自由で取り外しさえ可能な襖で部屋を仕切る理由の一つは、風通しを良くして夏を涼しく過ごすことだった。
 日本文化はこうした開放的な住空間の中で育まれてきたと言えよう。
 気密性重視の現代家屋では、家も家族も風通しが悪くなる。
 節電に励んだ東日本大震災後の夏は、兼好法師が「暑き頃わろき住居は、堪へがたき事なり」と徒然草に続けた言葉の真実を実感した人が多かったのではないか。
 鍵を掛けなくても不用心にならない暮らしは、羨ましくもあり懐かしくもある。
 「水と安全はタダ」と自慢できた日本はどこへ行ってしまったのか、と問いかけてくる一句。



鳳仙花 (Hōsenka - Impatiens balsamina)
Attribution:
123RM


 【『惜春』2013年12月号より】
 (本ブログの2013年12月27日掲載記事を改稿の上再掲載)
 中村零城: 岐阜県在住(2013年当時)




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秀句鑑賞-秋の季語:初秋刀魚(はつさんま)

2016/01/12 Tue

January 12 2016

初秋刀魚買ふ気で覗く陶器市  丸山きよ子

(はつさんま かうきでのぞくとうきいち)



 初さんまの季節。作者が買う気になったのは秋刀魚皿。住空間の制約が大きい都会で暮す主婦にとって、さんまの塩焼きだけのためにわざわざ皿を買うのは、決心が要ることに違いない。幅は狭いのに長さだけは図抜けて長い秋刀魚皿は、食器棚に横向きに入れても縦向きに入れても邪魔になるからだ。
 その秋刀魚皿を買う決心を作者はしたのかどうか。本気で買おうと思って陶器市を覗いた…だけかもしれない。
 掲句にいたく共感したのは、その秋刀魚皿が我が家にはあるからである。家内には買う気がなさそうだと見限って、私が自分で買ってきたものだ。その皿を引っ張り出して、さんまを焼いて食う。大抵は一年に一、二回だが、それでも焼さんまは秋刀魚皿で食いたいのが男。忙しい主婦は、台所を万事合理的に切り回したい。
 都会の焼さんまは、すでに腸(はらわた)を取り一匹を頭の方と尾っぽの方に二分した魚を買ってきて焼くのが標準になりつつあると聞く。世の変化への感慨も湧いてくる庶民目線の佳句。

 (渡邊むく)



 【丸山きよ子:東京都在住。『月刊俳句界』2016年1月号より。】
 丸山きよ子(おたま)さんのブログ: おたまおばさんの谷中・根津・千駄木散歩



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秀句鑑賞-秋の季語:月夜

2015/09/28 Mon

September 28 2015

むつかしき言葉のいらぬ月夜かな  

(むつかしき言葉のいらぬ月夜かな)



 世の中にはむずかしい議論も渦巻いているが、喧騒を離れてふと仰ぎ見る月は昔から変わることのない涼やかな光を放っている。雄弁は銀、沈黙は金の格言すら思い出される…などという言葉は要らない月夜なのだ。俳句では月は秋の季語。月夜は特には仲秋の名月を指す。しかし掲句の場合は、そのように限定し過ぎないで鑑賞したほうが味わいが深い。清廉な月の夜に対して「むつかしき言葉のいらぬ」は言えそうで言えない。なんとロマンチックな措辞であろう。鬱憤は忘れて甘美な恋の夜の気分に酔い痴れたくなる句。(渡邊むく)

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秀句鑑賞-秋の季語:萩

2015/09/27 Sun

September 27 2015

なんとなく萩の花にはセレナーデ  いのうえつとむ

(なんとなく はぎのはなにはせれなーで)



 日本的な萩の花に西洋の恋歌セレナーデが合うと言うのにはちょっとビックリした。しかし、そう言われるとそうかもと、なんだか頷きたくなってくるのは、芭蕉の名句「一家(ひとつや)に遊女も寝たり萩と月」を思い出すからか。確かに赤い萩には艶な風情がある。 その赤い萩の花が咲き乱れる庭に立って、その家に住む愛しい人にセレナーデを歌って熱い想いを届ける。 うーむ、なかなか思い描けないが、明治・大正的な和洋折衷の情景のようだ。 そうか、竹久夢二の世界! やってみたくなってきた。(渡邊むく)

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秀句鑑賞-秋の季語:竹の春

2015/09/25 Fri

September 25 2015

輪になっておしゃべり楽し竹の春  かな

(わになっておしゃべりたのし たけのはる)



 竹は春に葉を落とし秋に新葉を繁らせるので、春の竹を「竹の秋」、秋の竹を「竹の春」と言う。夏も過ぎる頃には、成長した今年竹に射す光や影の美しさに心洗われる。作者は、だれと輪になってどんなおしゃべりをしていたのだろうか。答えを言わず読み手に想像の余地を与えるところに余韻が生まれる。今週末は名月。子や孫たちに竹取姫の噺を語って聞かせるのも楽しそうだ。(渡邊むく)

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秀句鑑賞-秋の季語:鷹の渡り

2015/09/23 Wed

September 23 2015

鷹ひとつ見つけてうれし伊良虞埼  芭蕉

(たかひとつみつけてうれし いらごさき)



 掲句を知った時、最初は首を傾げたものである。「鷹を待っていたら一羽見えたよ、嬉しいなぁ、さすがは鷹の渡りで名高い伊良湖崎」。これが俳聖の句?と。しかし、繰り返し味わっているうちに、その感動が分かるようになった。「見つけて」と言うのだから、芭蕉は鷹を観察していたのだ。現代のように双眼鏡があったわけではないので、肉眼での観察である。私も今日観察してみたが、高い空を渡る鷹を肉眼で捉え、それを鷹だと識別するのは容易ではない。それが出来たから嬉しかったのである。しかし、それだけではない。「笈の小文(おいのこぶみ)」には、掲句は芭蕉が慕って止まなかった西行法師(さいぎょうほうし)の歌「巣鷹渡る伊良古か崎をうたかひて猶木にかくる山かへり哉(伊良湖崎まで来て、巣鷹(すたか)はそこから大空高く海を渡ってゆくが、山帰りの鷹は自信がないのか、ちょっと飛んではまた木に戻ってきてしまうよ)[山家集]」に寄り添っていると記されている。鷹には巣鷹や山帰りというものがあるらしいが、それはともかく、芭蕉は西行法師が詠った伊良湖崎の鷹の渡りを追体験できたことが何よりも嬉しかったのだ。「鷹渡る」は秋の季語だが「鷹」は冬。芭蕉の句は11月に詠まれている。(渡邊むく)

 【松尾 芭蕉(まつお・ばしょう):寛永21年(1644)~元禄7年(1694)。現在の三重県伊賀市出身)】

鷹の渡りを観察する人
鷹の渡りを観察する人 (衣笠山山頂:神奈川県横須賀市 2015.9.23)




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秀句鑑賞-秋の季語: 吾亦紅(われもこう)

2015/09/09 Wed

September 9 2015

季吟まで辿る家系図吾亦紅  北村峰月


 季吟とは江戸時代前期の歌人・俳人であり和学者でもあった北村季吟(きたむら・きぎん:寛永元年(1625年)~ 宝永2年(1705年))。俳諧を安原貞室、松永貞徳に学び、優れた門人を輩出。俳聖芭蕉もその一人である。作者はその季吟の後裔で、だから吾も亦(また)紅なのだと言う。自慢ではなく、あくまで洒脱な俳諧として。世の中にすごい家系の人はいるものだが、こういう人も珍しかろう。(渡邊むく)

 【
北村峰月(きたむら・ほうげつ):昭和23年(1948年)滋賀県生まれ。『城南宮』主宰。『京鹿子』同人。『月刊俳句界』2014年12月号より。】



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秀句鑑賞-秋の季語: 花すすき

2015/09/01 Tue

September 1 2015

花すゝきひと夜はなびけむさし坊  与謝蕪村


 【句意】
 そこにいる女(性)は “色は匂へ”と風になびいている花すすき。
 一晩ぐらいなびいてもいいじゃないか。
 武蔵坊弁慶のようなお堅い御坊よ。

 【鑑賞の手引】
 この句には、『弁慶の図賛』という蕪村自身による“解説”(七つ道具を背負った弁慶の袖を辻君が引いている絵に賛したもの)がある。

 〔余むかしはじめて京うちまゐりしけるに、月しろき夜鴨河の流れに沿ひつつ、二条を北のかたへ吟行しけるに、
 色黒くたけたかき法師のすみのころもまくりでにして、あづまぶりの小うた声をかしくうたひ行く有りけるに、
 堤のもとより辻君とおぼしきが、つとはしり出でてたもとひかへ、
 「いとこゝろにくき御有さまかな、我がやどの草の枕、露ばかりのいとまを、などていとひ給ひそ、無下にはえこそ過しまゐらせじ」
 と、月におもてをそむけてうちほのめきければ、
 「ひが目にも見給ひつるものかな、
 我は比枝の西塔何がし坊に、坂東太郎と呼ばれたる顕蜜の法師なり。
 さあるたとき仏の御弟子をいかにけがし奉らんや。
 かしこくもゆるしたばせ」とひたわびにわびれども、とかくうけひかざりければ、法師今はとて、だみたる声うちあらゝげて、
 「なんだ弁慶、理しらぬ奇異のくせものよ」
 と、やがて袖打ちはらひて、力足どどとふみならし、たゞはしりにはしりける。
 いと尊くをかしければ、梅翁が風格にならひて〕

 ≪現代語訳≫
 私がかつて初めて京に上った時、
 月の明るい夜に鴨川の流れに沿いながら、二条通りから北へ向って句を考えながら歩いていくと、
 色が黒くて背の高い法師が墨染の衣を腕まくりして、江戸ふうの小唄をよい声で歌い行く姿があったところに、
 堤のほうから夜鷹と思われる女(性)がさっと走り出てきて(法師の)たもとを押さえ、
 「大そう奥ゆかしいご様子ですこと、
 私の宿で仮寝をして、ほんの少しのお暇を過ごすのを、どうぞお嫌いなさいますな、
 簡単にここを通しはしませんことよ」
 と、月の光から顔を背けるようにしてささやきかけると、
 (法師が)「見損なったものよ、我は比叡山延暦寺の西塔これこれの坊に居て、坂東太郎と呼ばれる顕・蜜の二教に通じた学僧だ。
 そのような尊い仏の御弟子をどうして汚してよいものであろうか。
 勘弁してここを通してくだされ」
 とひたすら言葉を尽くして詫びたけれども、何のかのと(女性が)承知しなかったので、
 法師はもはやこれまでと、東国訛りの大声を荒々しく張り上げて、
 「なんだ弁慶道理(涙弁慶=辻君が哀れに誘ったので“泣いて勝ちを制する”[泣き落とし]にかけた)も知らぬ奇妙な怪物よ」
 と、そのまま袖を打ち払って、どしどしと力足を踏んで、ひた走りに走って逃げていった。
 とても珍しくまた面白かったので、梅翁(西山宗因)の(「いろはにほへの字形の薄哉」)の発句の趣に倣って(この句を詠んだ)。

 参照:穎原退三著『蕪村全集』(有明堂:廃刊)。

 【与謝蕪村(よさ・ぶそん):享保元年(1716年)-天明3年12月25日(1784年1月17日)。摂津国東成郡毛馬村(せっつのくに ひがしなりごおり けまむら)(現大阪市都島区毛馬町)生まれ。】

 忘備録:古いwebsiteに書いたものを再掲。




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秀句鑑賞-秋の季語: 秋燕(あきつばめ)

2015/03/26 Thu

March 26 2015

三泊みなと


       Y字路のひとつは海へ秋つばめ

 作者は北海道の人。冬が長い北の大地で暮らす人にとって、南へ向かって旅発つ秋燕を見送るのは淋しいものだろう、と共感に迫られる。旅の空で見た秋燕ではなく、毎日の生活の中の景色だと解したい。「Y字路のひとつは海へ」と言って、もう一つの道はどこへとは言っていない。伏せることによって強い印象を与えることに成功した一句。芭蕉いわく「いひおほせて何かある」(『去来抄』:向井去来作)。俳句は科学論文や法律文書ではない。言い尽くさないところに余情が生まれ、一句に呪文のようなパワーが具わる。芭蕉は旅の詩人であったが、旅行に出掛けなくても、日常の中で心の旅は無限にできる。俳句は、生活の中心に四季を置くことから発する詩と言えようか。自然への畏敬の念を持って、その大きな懐に抱かれて詠む四季の詩である、と。移り行く四季と虚心坦懐に向き合うことの大切さを痛感させられる秀句。(渡邊むく)

 【三泊みなと:北海道在住。『月刊俳句界』2015年1月号より。】




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秀句鑑賞-秋の季語: 秋

2014/01/08 Wed

January 8 2014

来馬道代

 泳ぎくる亀は犬掻き池の秋

 スカッと心が晴れるような俳句に出会いたいといつも思う。でも実際にはなかなか出会えない。と他人の句のことを云々する前に、「おまえの句はどうなのだ」と自分に問い質してみれば、やはり「そんな句はなかなか詠めるものではない」という答えが返ってくる。掲句には思わず噴き出してしまった。確かに、池の亀の泳ぎっぷりはいわゆる犬かきである。そしてのんびり。そのユーモラスさを私も一句詠もうとしたことがあるが、残念ながらこんな楽しい句を授かるには至らなかった。俳人は「句は授かるもの」だと言う。(渡邊むく)

【来馬道代(くるま・みちよ):東京都在住。『惜春』会員。句集『空』】



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プロフィール

Muku Watanabe-渡邊むく

Author:Muku Watanabe-渡邊むく
英語通訳業はほぼ自主引退。愛妻と二人で神奈川県秦野市でスローライフしています。山中湖の別宅で野鳥観察三昧に耽ったり。俳句のことに限らず、お気軽にコメントをくださると励みになります。

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