生活文化・食文化・ファッション文化論:続々・たそがれ日記:SSブログ
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蕎麦切りの原形態 [生活文化・食文化・ファッション文化論]

9月2日(月)

「X」で友人の研究者が「蕎麦史」論議をしているので、私の見解を少し。

蕎麦(蕎麦切り)の原形態をどのようにイメージすべきなのか?

江戸時代、大都市における蕎麦の大衆化は、屋台見世の「二八蕎麦」が主導したと思われ、その形態は
器に入れた蕎麦に汁をかける「かけ」だった。

これは狭い屋台見世で、丼一つで蕎麦を提供できる合理的な形態だった。
都市における蕎麦文化が「かけ」主流であったことは、間違いないと思う。

しかし、典型的な蕎麦食地帯である埼玉県秩父地方に生まれ育った私の経験(1960年代)からすると、自宅で蕎麦を打つ家では、「かけ」の食べ方を見た記憶がない。
記憶にある限り、すべて、大皿などに並べられた蕎麦切りを付け汁に軽く浸してすする「もり」形態だった。

街の蕎麦屋には「かけ」もあったが、自家食としては「もり」がほとんどだった。

つまり、自家食だった蕎麦切りが、都市に流入して商業化することで、主流形態が「もり」から「かけ」に変化したと思われる。

「もり」の形態も絶えたわけではなく、「もり」の高級化として「ざる」が出現する。


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三角形のフレアー・ミニ [生活文化・食文化・ファッション文化論]

6月27日(木)

キャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」(1977年)
キャンディーズ  暑中お見舞い.jpg
松田聖子「夏の扉」(1981年)の衣装。
松田聖子「夏の扉」.jpg
こういうシルエットが三角形になるフレアーのミニスカートが流行った時代があったのか?

?を付けたのは、記憶がまったく欠落しているから。
ちょっと調べてみよう。

女装世界で、このタイプのフレアー・ミニといえば、MR先生こと宮崎留美子さん。
もしかして、MR先生の原点の1つが、このあたりなのかも。


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女房装束の重さ [生活文化・食文化・ファッション文化論]

6月20日(木)

NHK「朝イチ」で、平安時代の女房装束を再現して、重量12kgと言っていた。

まあ、そんなもの。
もう少し重いかも。
絹もたくさん重ねると重いのだ。

画像は「王朝時代の私」。
王朝時代の私.jpg
唐衣・裳を着けていないので女房装束ではなく、小袿姿。


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ボディコン・ワンピースの背景 [生活文化・食文化・ファッション文化論]

6月13日(木)

1990年代のバブル崩壊期のディスコファッションとして身体のラインが出るボディコンシャスな服が流行った背景には、伸縮性に富んだスパンディング素材の導入がある。
ボディコン・ファッション1(1993) 3.jpg
ボディコン・ファッション4(1993).jpg
↑ 私が着ているボディコンワンピース(1993年)はどちらも、かなりの伸縮素材。

人間、とりわけ女性の身体には凹凸があるので、スパンディング素材がない時代に、身体ラインにぴったりした衣服を作ろうとすると、丁寧に採寸して、立体裁断・縫製をしなければならなかった。

しかも、そのままでは脱ぎ着ができないので、背中などを開いて、着た後にファスナーで閉じるという操作が必要だった。

それがスパンディング素材の導入で、頭からすっぽり被れば、あるいは下から引き上げれば、誰でもボディコンシャスなワンピースを着られるようになった。

実 は、1980年代のバブル全盛期のディスコファッションは、それほどボディコンシャスではない。
ちょうど1990年前後を境に、衣料素材の変化があったということ。

Fashion3.jpg Outdoor33.jpg
↑ 2000年代の欧米のボディコンファッション。
見事にボディラインが演出されている。
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サイドが開くボディコンミニ(その2) [生活文化・食文化・ファッション文化論]

6月13日(木)

バブル崩壊期、1992~93年頃のディスコファッション、サイドが開いているボディコンミニは、通常の下着が着けられない。
930203-3.jpg
ブラジャーのサイド部分やショーツの紐がみえてしまうからだ。

で、どうしたかというと、特殊な形状の下着?を着けていた。
ブラは、乳房に直接貼り付けてリフトする「ヌーブラ」。
ヌーブラ.jpg
ショーツは「Cッッストリングス」という、下着と言えるのか?と思う不思議なものを着けていた(らしい)。
Cストリングス.jpeg

私はどうしていたかというと・・・。
胸はシリコン製の偽乳を接着剤で直接貼り付けていた。

股間はいわゆる「前バリ」。
ガーゼを三角形にたたんで脱脂綿を当てて、それを粘着テープで股間に装着していた。
これは、おしっこに行けないので、耐久時間は長くない。
あと、接着剤や粘着テープはけっこうかぶれる。

今にして思うと、なんでこんなことしてたのだろう?と思うけど、そういう時代だったのだ。



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サイドが開くボディコンミニ(その1) [生活文化・食文化・ファッション文化論]

6月13日(木)

バブル崩壊期、1992~93年頃のディスコファッションは、ボディコンミニの裾丈が極限的に短くなって、もうこれ以上は無理状態になると、なぜかサイドが開き始めた。

ボディコン・ファッション1(1993) (2).jpg
↑ 私が着ているワンピース(1993年)は、裾から腰骨のあたりまで、そして両袖のサイドが金属リングになっている。

ボディコン・ファッション2(1992~93) (2).jpg
↑ この女性のワンピース(1992年)が典型的で文字通りサイドに穴が開いているデザイン。

ボディコン・ファッション3(1993年後半) (2) - コピー.jpg
↑ この女性のワンピース(1993年)など、前身頃と後身頃がほとんど分離してい手、紐でつなげている。

こういうファッション、欧米にもあるのか?と思い、ファッション画像のコレクションを探してみたが、ほとんど見当たらない。

Fashion131-2.jpg
↑ この女性の白いワンピース、片方のウェストが開いているが、デザイン的になんか違うように思う。

さらに探したら、デザイン的に似ているのを見つけた。
Karla Carrillo 1.jpg
Karla Carrillo というshemaleのお姐さん。
ただし、これから男性と遊ぶ(Sexする)状況なので、服というよりランジェリーなのかも。

結論的に、サイドが開くボディコンミニは、日本独自の進化ということで、いいように思う。

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女性の行動を制約する衣服 [生活文化・食文化・ファッション文化論]

6月12日(水)

以前(10年前)、資料として集めたフェティッシュ・ファッションの画像。
Latex20.jpg
この女性のポーズがずっと不思議だった。

画像処理を変えたら、モデルさんが挙げている右手は、天井に着いているのがわかった。
つまり、つっかえ棒にして身体を支えている。

この接地面積ではそうでもしないと立っていられない。

Latex7.jpg
こちらの画像の女性も同様で、左右の壁に手を突っ張って、姿勢を保っている。

問題は、そんなことをしないと、立ち姿勢を保てないような身動き不自由なファッションをなぜする(させる)のか? そうした欲望はどこから来るのか? ということ。

端的に言えば、女性の行動を制約(身動きを不自由にする)する欲望。

衣服(靴を含む)や身体変工がそうした欲望の道具になっている。

念のため付け加えると、このモデルさん2人は生得的女性です(たぶん)。



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漢字の字形と使用について [生活文化・食文化・ファッション文化論]

5月27日(月)

昨日の米澤泉美さんの「幽霊漢字」の報告でコメントしたことを敷衍しておく。

日本の奈良時代(8世紀)は世界中で一番たくさん文字資料が残っているが、仏典を除く行政文書(戸籍を含む)に使用されている漢字は、それほど多くない。

当然のことながら文書は書記官が毛筆で紙に書くわけで、字体の細部にややブレはあるが、公文書ではまずまず「標準化」がなされている。

地名は、和銅6年(713)に国・郡・郷レベルまで「好字二字」で完全に「標準化」されている。
だから、やたらと難しい漢字を使う地名はない。

戸籍も、庶民の名前に難しい漢字を使うはずもなく、多くは音に漢字を当てるか(佐久良)、子、丑、寅・・・のように生年の十二支を使うくらい(子麻呂、寅女)。

そうした状況は、徐々に崩壊しつつも律令文書主義が行われていた平安時代までは、大きな変化変はなかったと思う。

平安時代中期、898~901年頃にb編纂された最初の漢和辞典『新撰字鏡』(僧・昌住)12巻本には、約2万1000字が収録されている。
目一杯集めてこれで、日常的に使われていた漢字はもっとずっと少ない。

自筆本が残っている藤原道長の日記『御堂関白記』も、それほど使用漢字は多くない。
藤原実資の『小右記』や藤原行成の『権記』の方が、若干、使用漢字が多いように思う(誰も数えていない)が、まあ大差ない。

律令文書主義に起源する漢字の「標準化」が外れて、やたらと漢字の字体が増えていくのは、おそらく
鎌倉時代以降ではないだろうか。

その傾向は江戸時代にさらに拡大していく。

そうした字体の多様化の背景には、漢字使用者の拡大があると思う。
使用者が多くなり、標準化チェックが効かなくなると、誤字も増え、その誤った字形が引き写されて拡大していく。

私は、多様な字形のかなりは、誤字起源だと思っている。

明治時代になって「王政復古」で律令制的な戸籍や土地台帳(土地登記簿)が作成されるようになったが、漢字の「標準化」がまったく不十分で、江戸時代以来の多様な字形が、戸籍や登記簿のような公文書に持ち込まれる。

本来、誤字であっても、いったん公文書に記されると、「この字形は誤りである」と言えなくなる。
で、字形がどんどん増えていく。

そうした状況が、昭和戦後期の漢字使用制限(でも、名字は例外)、1970年代末のコンピューター使用の開始による漢字の電子化まで続く。

という理解でどうでしょう? 泉美さん。
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手袋を「はく」? [生活文化・食文化・ファッション文化論]

3月9日(土)

昨日、テレビでやっていた話。

手袋を装着することを、手袋を「はく」と言う人、全国では7%。

しかし、北海道に限ると、なんと70%以上。
青森、徳島、香川も「はく」が多い。

ちなみに、全国では「する」が50%、次いで「はめる」が29%、「つける」が14%。

私は「する」もしくは「はめる」かな。

「履く」は、靴や靴下だと思うが、明治時代に手袋が日本に入ってきたときは、「手靴」と呼ばれて、靴の一種?だったからとのこと。
へ~、へ~、へ~。

北海道札幌市出身の知人は「はく、は使っていました」と言っている
香川県の友人は「確かに足袋も手袋もハクといいます」と言っている。
徳島県の友人によると「60〜40代(私の周りですが)は「はく」ですね」とのこと。
山形県の知人によると「山形でも「手袋履く」って年寄りは言いました」ということで、どうも古い言い方らしい。
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鳥使いのシャーマン [生活文化・食文化・ファッション文化論]

2月11日(日・祝)

「紀元節」にあたり、神武天皇の神話を顧みると、三本足の八咫烏(現代ではサッカーの神様)の導きにしても、金の鳶の光線攻撃にしても、「鳥使いのシャーマン」としてイメージされていたのではないか?と思えてくる。

鳥をトーテムとするシャーマンは北東アジアでは珍しくないので、それが神武天皇の原像なのではないだろうか?
神武天皇.jpg
月岡芳年『大日本名将鑑』(1877~82年)の神武天皇。
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