【書評】大野英士『オカルティズム』(講談社選書メチエ,2018年)
大野英士は2010年に刊行されたユイスマンス論で仏文界隈に衝撃を与えた,と私は勝手に考えている.少なくとも,私の指導教員は絶賛している.それが大野英士『ユイスマンスとオカルティズム』(新評論,2010年)だ.
本書は,ユイスマンスのフランスにおける研究史を丁寧に追い,デカダンス文学の旗手となっていたユイスマンスがどうしてカトリックに転向することになったのかを,19世紀「マリア派異端」の領袖の一人ジョゼフ=アントワーヌ・ブーランとの関係を軸に,綿密な作品読解と作家交流から,鮮やかにオカルティズム的ユイスマンス文学を再構成した点にある.ユイスマンスや19世紀デカダンスとオカルティズムは,澁澤龍彦や種村季弘といった人々によって導入された80年代によりもフランスでも非常に文化史的研究が進んでおり,本書はそうした空隙を大きく埋める点でも優れた研究だった.
また,上梓された当時はフェミニズム論でも世界的にみてあまり使われなくなっていたジュリア・クリステヴァの文学理論を,彼の指導教員であったというこもあり,その議論の中心に取り入れていた点も個人的には驚きがあった.クリステヴァはその独自の数学解釈によって構築されたポストモダン的理論家として受けるべき批判をしかるべく受けたものの —— 『知の欺瞞』周辺のことであり,私自身も彼女の数学的知識の応用は端的に間違っていると考えているので,一部の研究に関しては見直しが必要だと思う —— ,精神分析の文学解釈の応用には一定の文学理論的成果があり,大野の研究でも「おぞましきもの」の概念形成では,その成果が遺憾無く発揮されている.私個人は,精神分析による文学読解から撤退していくつもりだが,精神分析ならびにその応用の文化史的意義を否定するつもりもないので,こうした素晴らしい作品解釈を読むことができるのは僥倖であった.日本ではクリステヴァはまともに読まれなくなってしまっている.彼女の活動の全体を明らかにする研究が日本語で紹介されていない現在,この本によってその優れた理論の応用例を知るのも良いだろう.
この度上梓された本書は大野によるユイスマンス研究のごく一部が引き継がれているがかなり部分でバージョンアップされているのでその労作ぶりが感じられ,素晴らしい著作であった.
太陽王ルイ14世の時代.それは他のヨーロッパの政治体制のほとんどがそうであったように,絶対王政と,宮廷の陰謀の時代だった.その絶大な王権の影で起きたある殺人事件は,その時代の人々の文化によって規定された行動の結果だった.著者が最初に言及するのは,そうした殺人事件だった.ブランヴィリエ侯爵夫人マリー=マドレーヌと彼女の情夫サン=クロワによる親族殺害によって遺産相続を狙うという比較的平凡なこの殺人事件が,実は,錬金術と薬術という17世紀にもっとも流行った詐欺に手を染めたサン=クロワであった,というように,事件の背後にはオカルティズムが蠢いていた.他にも,17世紀で宮廷の内部で起きた数々の殺人事件には黒ミサや占い師といった人々の存在が大きな影を落としており,王権の崩壊と民主制による統治というフランスから始まり,ある時期まで誰も疑うことのなかった近代合理主義精神の光のうちにも,つねに影があった.その影こそ,オカルティズムだ.
オカルティズムの文化はいまも生きている.嘘だと思った人は,もしも新宿にある紀伊國屋本店に行く機会があれば,3階にある精神世界コーナーを正面に見て右側にある棚にある書籍の名前を見るといい.それらが何かを知るために,本書は格好の案内書となっている.書籍だけでなく,ゲームといった娯楽作品でもオカルティズムは生きている.バージョンアップでタイトルまで変わってしまったホラーゲームの怪作The Conjuring HouseことThe Dark Occult(Rym Games, 2018)はそのタイトル変更によって自らがオカルティズムの末裔であることを表明することになった.極限まで地理把握能力を試す本作の主題は黒ミサの呪いだ.また,回転テーブルによる対話,悪魔の召喚,呪いの人形,フードをかぶった謎の集団などオカルト要素満載だ.極度にマップ構築能力を要求するゲームシステムもいたずらに複雑化するオカルト儀式的なものの形式を反復しているようで,ストーリーはともかく非常に優れたホラーゲームだった.以上のように,現在でもオカルティズムを主題にした娯楽作品はごく一般的に作られ,消費されている.
また,神秘思想や新興宗教の研究からいっても本書の登場は有意義なものといえよう.本書で紹介されているオカルティズム思想家たちは少なくともフランス文学研究では作家の同時代思想としてオカルティズムの知識を得ている必要があるものの,そうした特定の研究領域以外ではなかなか注目されていなかった.一方で,日本では新興宗教やニューエイジ思想についての研究はかねてから盛んであるものの,こうしたオカルティズムの研究自体のここ20年ほどの研究の紹介はほとんどない.この点で私にとって最も重要だったのは,ベルトラン・メウストの研究(Bertrand Méheust, Somnambulisme et médiumnité, tome. 1. ,Le défi du magnétisme, tome. 2. , Le choc des Sciences psychiques, Institut Santélabo, Coll. « Les Empêcheurs de Penser en Rond », 1999.)がいよいよ本格的に紹介されている点だ.これまでもメスメリスムに言及のある文学研究などでもほぼ間違いなく参照されていたこの本が日本でこれほど丁寧に紹介されているのはおそらく初めてだろう.メスメリスムから心霊科学までの研究水準は現在に至るまでおそらくメウストによって成立していることを鑑みると,本書によるメウスト研究の紹介は非常に大きい.私もフランス語のこの著作を読み通したことはなかったので大まかにでも研究の全貌を知る機会となり,大変助かった.
また,本書にはもう一つ特筆すべき点があり,それは19世紀フランス末の反ユダヤ主義と右派オカルティストによる聖母マリア信仰の結びつきによって生まれた陰謀論についての考えだ.現在でも奇妙な影響力を持つユダヤ人世界征服陰謀論の淵源と言える,レオ・タクシルの反フリーメイソン・キャンペーン,そしてその捏造されたキャンペーンが地続きにホロコーストまで続いている点を示している点は各社会で運動を盛り上げていったアクターたちの思想的背景を明らかにしながら,別の研究(者)によってさらに発展させられるべきであり,現代日本社会においても絶対になされなければならない研究と言える.
その他細かな点を見ていくと,グノーシスとその派生,エリファス・レヴィ,アレイスター・クロウリー,ブラヴァツキー夫人などのオカルティズム思想家・運動家たちについても,先行研究と合わせて言及され,ときには文献学的批判に耐えられるかどうかいったような文学・文献学研究の姿勢を忘れていないのは類書(学術研究はのぞく)にはない特徴と言っていいだろう.さらに,紹介されているオカルティストたちの教義や主題について簡潔に箇条書きしている点も参考書として活用できる.今後,日本において神秘主義やオカルティズムに言及する際には必ずこの本に目を通したうえで,そこで挙げられている参考文献を読むようにすべきだろう.ついでにフランス語の参考文献を読むためにフランス語履修者が増えてくれると,業界が助かるのでぜひ参考文献を読むためにフランス語を学習してほしい(唐突なお願い).
しかし,本書にはいくつかの点について批判すべきだと私が考える点もある.以下ではそれについて見ていこう.
オカルティズムには人生の意味や死後の世界といった類の問いについて明快な答えを与えるため多くの人々を引きつけてきたという側面があり,それは本書の主題の1つとなっている.ところで,現代においても科学はそうした問いに答えてはくれないと著者は指摘し,次のように述べている.
しかし,十九世紀から二十世紀初頭の一時期,オカルティズムは偏奇な興味に駆られたごく少数の科学者が人知れず取り組むというマイナーな研究対象ではなく,キュリー夫妻をはじめ,ノーベル賞を受賞したクラスの一流の学者たちが真剣に取り組むメジャーな研究対象だったのだ.(『オカルティズム』,24頁.)
こうした考え方には問題がある.まず,オカルティズム的研究対象(超心理学,霊の実在,なんでもよいが)が当時の人々にとって関心を寄せたのは,新しい光線の発見と同時期であるという広く知られている事実を閑却してしまっている点だ.その光線の代表的なものにX線がある.X線を当てて写真を撮影すると透過率の差から人体の内部を透視したような図像を得られる.これが,当時の人々の視覚的体験の定義を再考させ,見えるものと見えないものの境界の再定義を促した.こうしたことは心霊写真研究では一般的に知られているし,同じ頃に流行した四次元表象について体系的な仕事を行なったLinda Dalrymple Hendersonがその主著のイントロダクションで関連事項で言及しているように,芸術研究においても科学と心霊科学の交差が非常に限定的だったのは基本的な認識だ.次の問題として,そもそもこの本では科学史についてほとんど言及がない.科学とオカルティズムは確かに近代において対立しているので言及するのは当然だが,あまりにも科学史を閑却しすぎているきらいがある.例えば,当時の科学水準と現在の科学水準は全く異なる.計測・観測技術の発展によって生理メカニズムから宇宙物理学まで,そもそもシステムの理解そのもの仕方が変わっているし,研究の背景にある研究所運営のあり方や研究者のアイデンティティ,研究対象の性質も大きく異なっている.それを無視して1世紀前の科学者のオカルティズムへの関心と現在の科学におけるオカルティズムの排除を比べるのは無理があるのだ.他にも本書には類似した問題点もあった.以下に示す.
一方で,現在,電磁波を利用したさまざまな電子機器の発達により,テレパシーを使わずとも,遠距離,場合によっては地球の裏側まで,自己の意思を伝え,他人の音声を聞き取ることが可能になった.脳波を外部の機械によって検知することは医学の領域においては当たり前のこととなり,近い将来には,脳波を外部機器と連動させることにより,自分が何かを心に思い浮かべただけで,さまざまな電子機器や家電,移動機械に指示を出すことも可能になるだろう.そういう意味において,人間が「超常現象」に期待しなければならない領域はますます減ってきているともいえるし,逆に,たまさか,脳波の発信程度が大きく,通常の人に優って,周囲の環境に働きかける程度の大きな「異能」を持った人間が,検出されるかもしれない.(『オカルティズム』,242)
まず,こうした一文は脳波計測について誤解を与える可能性がある.「脳波の発信程度が大きく」といった一文はとくに問題があるだろう.おそらく著者としてはfMRIやNIRSのような非侵襲的な出力型BMIを想定していると思われるが,これは脳に直接触れることなく,頭部に設置した脳磁計によって計測された微弱な磁気信号を暗号として,それを解読することで磁気信号がどのような運動を意味しているのかを解釈する.言うは易しでこうした方法で取得されるデータは膨大なノイズの山である.このノイズを取り除くために統計処理を用いて,その中から統計的な有意な信号を取り出す.たとえそれが侵襲的なBMIだったとしても,そうした問題がなくなることはない.数十年の研究成果から,特定の周波数域のもつ脳波が多数知られている.よって,よりはっきりとしたパターンを示す波形がありえるとしても,それは「脳波」なるものの「程度」の「大きさ」とは関係がないし,むしろ研究発表に値する新しい特定周波数域の脳波となるだろう.万が一著者の想像するような機器が作られたとしても,そうした統計処理がバックエンドにて実行されるに過ぎない.そのため,「異能」を持った人間が現れても,まったく他の人と同じようにしか周囲には影響しないし,むしろ誤作動を防止するために,受信することのできる脳波を発せない場合,その機械はおそらく動くこともないだろう.この点については,以下のような記述もあった.
超常現象そのものの「実在性」について,それがあるとも,ないとも,筆者の能力の範囲では確定できない.人間の身体から出る微弱な電気信号に反応してパソコンやスマホのパネルが反応する時代なのだ.たまたま個体差で他の人間よりも強い電気を発信することのできる人間がいないとも限らないではないか.(『オカルティズム』,279)
私はそもそも,超常現象には否定的だ.個人的には量子力学やブラックホール研究,数理論の成果に触れた時に感じる,観測可能なこの世界や単なる数の振る舞いが思いがけない複雑さと他の公理との予想外の関連を生み出す数学の世界がすでに超常的ですらあると言えるのに,超能力や心霊の科学的な実在に議論を割く必要性も感じない.それは現代において科学の対象ではないし,科学で扱う必要もない(そんなものに予算を使うなら頼むからあらゆる科学の基礎研究に時間とお金を使って欲しい).
私個人の意見はおくとしても,先に指摘したように「個体差で他の人間よりも強い電気を発信することのできる人間」がいたとしても,工学的な安全性の観点からいって,おそらく機械が止まるか,作動しないだけだろう.同じ程度の入力に調整された結果として常に同じ程度の出力がなされなければ,どんな危険性があるのか想像もできない.現代においてもなお航空機パイロットに一連の手順を守らせるのは,異なった入力を避けることで異なった出力を避けるためだ.それ以外にも様々な場面でそうした工学的な安全性(それこそスマホのタッチパネルにいたるまで)は頑健に保たれている.引用箇所の想像はあまりにもメスメリスムに引きずられているとも言えよう.また,引用したような世界が本当に来るとしても,それはおそらく私たちの想像とは異なった形によるだろう.
以上のように,大野による科学とオカルティズムの関係についての言及は科学知識やその理解に関して大きな問題があると言える.一方で,オカルティズムの側から描かれた科学とオカルティズムの接近についてまとまった記述がなされており,本書の利点の1つと言える.なお,私自身の説明にも間違いがあるだろうから,もしも問題があると思った方は@penguinmeditateまでご一報いただければ幸いです.
次に,新自由主義のカウンターとしてのサブカルチャーにおけるオカルティズムという仮説が提示される最終章についていくつか指摘しておきたい点がある.まず,以下に本書の結びを引く.
世界の歴史を書き換えんとする現代の魔法少女や,ゴスロリという鎧に身を包んだ少女たち,オカルト・魔術を追い求めるオタクたち,自らの身体を自傷することで自らの実存の意味を追い求めようとする永遠の中二病患者たち.彼ら,彼女らこそが薔薇十字友愛団よろしく,新自由主義のディストピアの一瞬にしてユートピアに変じることを夢見る現代の魔女,魔導師かもしれない.いやそれどころか,彼ら,彼女らこそが,世を統べる「現前」の形而上学を「揺らぎ」のうちに解消すべく「来るべき蜂起」を企む邪眼を帯びたテロリストかもしれないのだ.(『オカルティズム』,285頁.)
「世界の歴史を書き換えんとする現代の魔法少女」とは,『魔法少女まどか☆マギカ』のことだが,同作品への言及には不正確さが目立っていた.まず,キュゥべえについて「新自由主義の論理「貸したものは返せ!」を地で行く闇金さながらの「悪魔の契約」だ」(『オカルティズム』,284頁.)とあるものの,こうした負債と返済の義務が生命そのものを脅かすことについてはとくに新自由主義というイデオロギーに特別なものではないことは先ごろ流行したグレーバー『負債論』でまとめられている先行研究でも示されているので,そうした研究をサーベイしていると考えられる以上は,こういった論調にするのは議論を単純化しすぎているように思われる.次に,『魔法少女まどか☆マギカ』の語彙には誤植が目立っている.「キューベイ」ではなくて「キュゥべえ」と表記すべきだし,「主人公マギカの友人暁美ほむら」も「主人公鹿目まどかの友人暁美ほむら」だ(『オカルティズム』,284頁).「マギカ」と「まどか」とで表記揺れしている箇所もある(『オカルティズム』,284-285頁).また,作品のあらすじも少し違っている.あたかもほむらがまどかの救済と魔法少女たちの救済をしたような内容になっているが,どちらかというと,まどかのイエスのような自己犠牲(自らを差し出すことで他の犠牲者の犠牲をなかったことにする)による人類の救済の物語である.
なお,関連する作品として『STEINS;GATE』も『涼宮ハルヒ エンドレスエイト』という一連のループものの作品が挙げられていたが,科学とオカルト,そしてオタクといえば『とある魔術の禁書目録』をぜひとも挙げておきたい.秘術で生き長らえたアレイスター・クロウリーが超能力の科学研究を行う研究施設のトップを務めているという設定自体のもつ近代的なオカルティズムのあり方は,無視できない娯楽作品と言える.そのキャッチコピーは「科学と魔術が交差するとき,物語は始まる —— 」だった.まさに「19世紀性」そのものだろう.しかし,その著作の長大さ,10数巻を読み続けてようやく読みやすい文体になるという試練,指数関数的に増大する登場人物たちの存在がこの作品の分析を妨げている.また,独自の国際政治力学のモデルを提示する旧約後半の展開以降,この作品はほとんどオカルティズムの用語を換骨奪胎しているだけの側面もあり,オカルティズムそのものとは無縁のものとなりつつある(あるいは,無縁である).
再び引用箇所に戻る.左派ユートピアとオカルティズムの関係を大野は第4章で論じているので,現代のサブカルチャー作品に注目し「新自由主義のディストピアの一瞬にしてユートピアに変じることを夢見る」思想的背景を見るのは本書を通底するテーマとなっている.しかし,一方で取り上げられているのはいわゆるループものの作品で,『魔法少女まどか☆マギカ』も地球外生命体の干渉という観点でいえば,『STEINS;GATE』も『涼宮ハルヒ エンドレスエイト』もいずれもSFだった.まず,ユートピアとSFならジェイムソンの『未来の考古学』で提示された「ユートピアのジャンルのもっとも深速な使命とは, 私たちが〈ユートピア〉そのものの想像を構造的にできなくなっていることを,局所的かつ明確に,豊富な[sic]具体的な詳細とともに理解させることである」(『未来の考古学 下』,作品社,2012年,95頁.)というユートピアの不可能性こそユートピアが現実の社会に対する批判として成り立っている立場が思い出され,これは大野と共通していると考えられる.しかし,ジェイムソンのSF論では「世界の縮減」モデルが提示されていた.ル=グウィンの傑作の1つである『闇の左手』の作品読解の中で提示されたこのモデルは,ル=グウィンが書き込んでいる両性具有の人間たちの文化形成などの人類学的記述の豊穣さの中で見落とされているある単純化の操作こそ重要であるという指摘である.『闇の左手』の場合,それは両性具有の人間たちの文化によって現実社会で生じるセクシャリティとジェンダーの問題が解決されてしまっている,と考えられる.つまり,現実の社会問題としてそれを解決する方法ではなくて,そうした複雑な世界を「縮減」したモデルを分析することで何からの解決を与えてしまう方法だ.これは近年ワイスバーグのようなシュミレーションの科学哲学のモデル論などを引き合いに出しても非常に興味深い考えだ.ループものの作品はまさにループによって解決を可能にする「世界の縮減」を行なっているし,ループものでありながら歴史を改変できないというループものもいくらでも見出すことができる.そうした様々なループものの作品は,ループ可能な理由を事細かに説明するユートピア的世界を示している(時にそれはゲーム的リアリズムとも呼ばれる).しかし,それだけでは,オカルティズムとユートピア論が接近する理由を明確に語っているようには思われない.むしろ,こうしたループものやゲーム的リアリズムがオカルティズムを背景にしている可能性が示せれば新しい研究領域が形成されることも十分に考えられるだろう.
以上,批判的に本書の一部の議論を取り上げたが,根本的な欠陥なしに多様な批判を生み出す本は良書の中の良書である.私が批判している点のうち後半は将来的にほかの人々によってなされるべきだろうし,著者の研究テーマからいっても,次回の著作はオカルティズム・フランス文学史が期待される.まさにこうした展望を開く本書の尽きせぬ魅力を味わうためにも一読は必須である.