※画像は祖母による系図転記版となります。


藤原鎌足
不比等
房前
魚名
藤成
豊澤
村雄
秀郷
千常
公光
公郷
清郷
助宗
實遠
實盛
盛正
實房
盛時
實時
房正
正盛
盛高
盛資
資吉
この間は614年~1480年頃。
藤原から斉藤への流れが聊か強引にも思えれます。
江戸末期から系図作りが流行し、庶民でもお金を払えばそれなりの系図を作成して貰えていた様ですので、上記のどこまでかは分かりませんが後世に実際の系図と強引に繋げる為に偽造されている可能性が高い様にも思えます・・・。残念ながら・・・。
系図偽造の手法としては名家の系図と自家の系図の間に実在しない人物を挟む事によって系図を繋げて成立させる手法をよく採っていたみたいです。
まさに我が家の場合も藤原鎌足の系図と斉藤實盛の系図をこの間に数人挟む事によって強引に繋げている様にも見えます・・・。實盛以降もそうかもしれません・・・。
さて系図の続きです。
資房(勘觧由左衛門)
房季(左衛門五良)
季吉(五良太良)
吉有(初代・徳左衛門)
有経(又四郎)
経教(二代目・徳左衛門)
経元(武助)
この間1501年~1680年頃。
家系図ではこの辺りからの記載情報は多くなってくるのですが、残念ながらこの家系図以外に上記の人々との繋がりを証明する資料は我が家でも見つかっていません。
再び系図の続きです。
難波六右ヱ門(初代・六右衛門)
某(春光道智大信士)
六右衛門(二代目・六右衛門)
石左衛門
繁八
徳太郎(三代目・徳左衛門)
伊三郎
徳市
この間1680年頃~1889年。
実は墓地にはもっと古い墓石も沢山あるのですが、墓石を積んで寄せ墓にしてしまった事で彫刻された文字を確認出来なくなってしまっています。
徳市以降の系図は現代に入ってくるのでここでは自粛しますが、これら多数の人々を経て現在に至っております。
※上記の系図は家長のみを記載しています。
またこの系図とは別に実は我が家には代々『難波家は平家の落人の末裔』であるという伝承も伝わっております。
ひょっとすると平清盛の重臣・難波経遠・経房兄弟などとの繋がりもあるのかもしれません。
他にも我が一族が宇喜多秀家と共に朝鮮に出兵したという郷土史の情報もあったりします。
そうなってくると実際に墓石を確認出来る六右ヱ門以前の系図がどこまで正しいものなのかが気になります。同時に今後の調査によってこの家系図がどう変わってくるのかも気になります。
また我が難波家がいつからどのような理由で難波姓を名乗り始めたのかも不明となっておりますのでこれらも今後の考察にて明らかにしていきたいと思います。
@@@先祖考察にあたり@@@
代々の系図を一族以外に公開する事はあまりするなという祖母からの教えもありましたが、難波家を支えてくださった歴代一族の一人一人にスポットを当てて生きた証を風化させる事無く後世に残しておくのも供養の一つであると考え、差し出がましいですが、これから随時歴代一族のご紹介もさせて頂こうと思っております。
難波家の起こりと難波一族紹介をテーマにブログをスタートしたいと思います。