通りすがりの○△□240921・強い風が吹いた。 6
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人間は記憶で出来ていると言います。
すなわち、「私」とは「記憶」なんですね。
記憶を無くすことは私でなくなることの恐怖です。
以前と比べるとミナミに来る回数が少し増えたのですが
来るたびに、前回にいったい何を見ていたのかということがよくあるんですね。
「アレ?こんなの、あった?」
結局、「私はここを見た」気になっていただけなのです。
断片の記憶、不確かな記憶、記憶と呼べない記憶・・・。
写真も記憶のために撮ると言いますが、とどのつまり、
何も見ていない、何も覚えていないことに気付くために撮っている気がします。
記憶というのは単なるマボロシに過ぎないのでしょうか。
そうだとすると「私(という思い)」」はマボロシで出来ているのだと思います。
「私」が「私」である根拠はどこにもないのです。
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