ますます「写真」が何を指しているのか分からなくなってきました。いずれ「写真」あるいは「photogragh」という言葉はなくなるかもしれません。それはそうとして、個人的には自分の考える写真を撮り続けるだけしかないと思っています。
投稿日:2024.11.26 カテゴリ:東花園辺り
写真の投稿だけです。...
投稿日:2024.11.22 カテゴリ:東花園辺り
写真の投稿だけです。...
投稿日:2024.11.14 カテゴリ:東花園辺り
ある意味、あらゆるジャンルで写真は撮りつくされたのではないでしょうか。勉強不足で断言はできませんが、見たこともない写真はもうどこにもないのではないでしょうか。新しい写真表現が模索され発表されていますが、一般的な写真表現に関してはそう思うのです。風景、ポートレート、スナップ、花、ペット・・・。もしそうだとすると、どこかで見たことのある写真、誰かが撮っていたような写真でもいいのではないかなと思えて来ま...
投稿日:2024.11.03 カテゴリ:東花園辺り
「絵になるもの」を撮って、作品にするのではなくて「絵にならないもの」を撮って、写真にするのが写真家だと思います。...
投稿日:2024.11.02 カテゴリ:東花園辺り
同じ場所を何回も撮っていると、もう撮るところがないと思ってきます。撮りつくしたと。最初のころは刺激があるのですが、だんだん感じなくなってくるのです。何も感じなくなってくるとシャッターを押す気になりません。でも撮ろうとすれば撮れるんですね。指先をほんの少し動かせばシャッターを押せるのですから。写真撮影は商品開発とは違うのですからじつは目新しさはあまり関係ないというか、重要ではないのです。器用にいろい...
投稿日:2024.10.30 カテゴリ:東花園辺り
今月は一杯(自分比)、写真を撮りました。それに比例して一杯、失敗しました。「いっぱいはしっぱいのもと」誰かが言っていたのでしょうか。「いっぱいのしっぱいはせいこうのもと」誰かが言っていた気がしますが。...
投稿日:2024.10.22 カテゴリ:東花園辺り
現実の姿の表面を写したものが写真ですが、今はその現実の輪郭みたいなものが曖昧になって来ました。AIが作り出す画像のことを言う前に、人間がこの現実の世界をどう思っているかがハッキリしなくなったのではないでしょうか。客観的には現実は一つのハズです。でも人間の数だけ現実はあるのかもしれない・・・そんなことを写真は突きつけている気がします。そのことと関連して写真はこれから、どんどんデザイン的になっていくと思...
投稿日:2024.10.21 カテゴリ:東花園辺り
そのカメラを手に入れたからそのカメラを使えるようになるというのは違うと思っています。多機能のカメラを自由自在に扱えることと、つまりその機能を表現に生かせることはまた別のことなのではないでしょうか。多機能のカメラを自由自在に扱えることはオペレーターであって、アーティストとしてではないと思うのです。そしてそのことの以前に、カメラマンがカメラを選ぶというよりカメラがカメラマンを選ぶのではないでしょうか。...
投稿日:2024.10.02 カテゴリ:東花園辺り
昔、若いころ「写真を始めたんですよ」と人に言ったら「若いのにそんな(暗い)趣味が好きなの?」みたいなオーラがその人から出ていました。写真はおじいさんの渋い道楽みたいに思われていたのです。今、カメ爺になって写真をやっていますというと「あっ、そう」みたいな、無反応オーラがその人から出ます。写真は若い人たち中心に、元気ハツラツの(明るい)趣味になりおじいさんの渋さは無味になったようです。...
投稿日:2024.09.25 カテゴリ:東花園辺り
写真の投稿だけです。...
投稿日:2024.08.31 カテゴリ:東花園辺り
8月も終わりですね。思い出の8月になりました。思い出したくない8月でした。...
投稿日:2024.08.26 カテゴリ:東花園辺り
ストレートネックによる炎症で右肩の上部に激痛が発生し1日中痛みが続くので何もする気になれない日が続きました。おまけに五十肩で右腕が重くてダルく、前にならえ!より上に上がらなくなってしまいました。オレの写真人生ももはやこれまで・・・などと冗談も言えないくらい痛みがひどかったです。整形外科に通って治療中ですが痛みはマシになり、腕も少し上に上げられるようになりました。パソコンの操作は、右肩に力が加わり痛...
投稿日:2024.08.24 カテゴリ:東花園辺り
写真の投稿だけです。...
投稿日:2024.08.13 カテゴリ:東花園辺り
写真の投稿だけです。...
投稿日:2024.08.11 カテゴリ:東花園辺り
始めたころにはフィルムが要らなくて写真を撮れる時代を自分が体験できるなんてまったく思いもよらなかったです。写真=フィルムで撮るものが当たり前でそれは、誰もが疑いなく思っていたことでした。予想って、たいていは過去のデータ内でなされると思います。そうでなければ、想定外の悲しい出来事は避けられたかもしれないのですから。写真の世界もAIなど、いろいろ言われているようですがおそらく想定外のことが待っているので...
投稿日:2024.08.03 カテゴリ:東花園辺り
AIの画像生成とかチャットとか、ありますよね。ある面では人間よりスゴイところがあるんですね。必ず、何がしらかの答えが文章や画像で応答してくれるみたいですから、頼れそうです。あとは、自分が望んだものかどうか違っていたら、質問を変えることになります。その繰り返しでかなりいい線まで行けるようなそんな記事も見かけます。でも、最大の欠点があるのではないでしょうか。それは何でも答えてくれることなんですね。「そん...
投稿日:2024.08.01 カテゴリ:東花園辺り
かつてカメラは人に威圧感を与える存在でした。向けられると固まってしまったのです。今は一眼カメラも小型化され、スマホカメラではあまり威圧感は感じないのではないでしょうか。それでも、写真を撮られることが分かるとちょっと身構えますよね。それは自分のどんな姿を撮られるかという以前に写真で自分が一瞬で凝固されてしまうと感じるからだと思います。それは大げさに言えば私がモノに姿を変えられてしまうことに対する抵抗...
投稿日:2024.07.26 カテゴリ:東花園辺り
今はテレビの画面で街角の風景の人物にはボカシが入ることが多くなりました。個人情報、プライバシーを考慮してですね。ボカすこととはその人ががそこにいたことを曖昧にすることです。曖昧にすることで、その人はそこにいたのにいなかったことにされるのです。いずれテレビの街角の風景には、そこにいた人は映っていなくてAIが作った、街行く人たちが登場するのではないでしょうか。もう、ボカシを入れる手間がなくなって、画面の...
投稿日:2024.07.20 カテゴリ:東花園辺り
写真は現実をそのままにした再現ではないけれど現実をもう一つの姿として捉えたものだと思います。だから現実にはこだわる必要があると思うのです。モノクロは現実の抽象化だと思われていますがむしろ、カラーというベールを剥がした現実を捉えるのにふさわしい気がします。また、加工がダメなのではなく現実から極端に遊離してしまうのがマズいのだと思います。写真のその人、その場所との何らかのつながりを断ち切ってしまうとそ...
投稿日:2024.07.18 カテゴリ:東花園辺り
関東甲信・東海地方は梅雨が明けたのですね。近畿地方ももうすぐだと思います。昨日は祇園祭の前祭山鉾巡行でした。若い時に撮影に行ったことがあるのですがとても今は行くのは無理・無理です。ただ、夏の風景を少しは撮りたくなったので短時間なら大丈夫だろうということでいつもの公園へ、ちょこっと散歩撮影に出かけました。さすがに、いつもの撮影時間の半分くらいで帰ってきたのですが写真は現場に出向かないと撮れません。涼...
投稿日:2024.07.03 カテゴリ:東花園辺り
晴れの日は影の部分がつぶれたり光の当たったところが飛んだりしますよね。コントラストの強い、見た目はインパクトのある写真になります。曇りの日は光はフラットになるのですが見た目は少し大人しい感じのする写真になります。雨の日は、曇りの日よりはコントラストが付くようでメリハリが出るように思います。被写体の輪郭がハッキリしていいですね。それと、公園には人がほとんどいなかったのでとても撮りやすかったです。雨の...
投稿日:2024.07.02 カテゴリ:東花園辺り
いつもは雨の日の撮影は避けているのですが久しぶりに撮影したくなりました。ネットの予想で数時間は小雨の状態が続きそうなのでいつもの公園に出かけることにしました。左手に軽量の折り畳み傘、右手にカメラを握っての撮影です。その体勢で何とか撮影を続けることが出来ました。あとはいいカットが撮れていれば言うことがなかったのですが言うことはいっぱいあったのでした。...
投稿日:2024.06.30 カテゴリ:東花園辺り
写真の投稿だけです。...
投稿日:2024.06.23 カテゴリ:東花園辺り
「考える」というのは動詞なんですね。だから疲れるのです。見えるものの動きは分かるのですがジッとしていても頭の中は大忙しなのです。写真について「考える」もじつは写真を撮るのと同じくらいエネルギーが要ります。写真について「考える」と写真を「撮る」は本質的には同じなのだと思います。写真について考えていることが写真に反映されます。写真を撮る時に考えていては遅いのです。かと言って予めイメージを完成させておく...
投稿日:2024.06.22 カテゴリ:東花園辺り
人間は記憶で出来ていると思います。その記憶を支える中心になるのはイメージであり、主に映像です。その映像と密接なのが写真なんですね。動画もありますが、印象に残っているのは静止した場面=写真ではないでしょうか。写真は表現以前に、思い出でありその人の一部として生きているのだと思います。写真は記憶と言われる理由ですね。...
投稿日:2024.06.20 カテゴリ:東花園辺り
「写真そのものの画像」と「写真まがいデジタル画像」は分けて考えたいと思っています。個人的には「写真まがいデジタル画像」は限りなく写真に近いイラストのように感じています。写真を使ったイラストというのでしょうか。ただ、いっぽうで「写真そのもの」をどう判断するか、定義するかが悩ましいです。「写真そのもの」と「写真まがいデジタル画像」の境目をどこにするかが、よく分からないからなのですね。今のところ、人によ...
投稿日:2024.06.16 カテゴリ:東花園辺り
写真は好き嫌いがハッキリするメディアだと思います。好き=撮りたいもの、嫌い=撮りたくないものですね。ただ、現実の光景には好きと嫌いが共存しています。そこでテクニックです。ボカします。明るいレンズを開放気味にしたりします。覆い焼きします。レッタチで周辺を黒っぽくするイメージです。飛ばします。潰します。ちょっと、怖い言い方です。見えなくします。好きなものの後ろに嫌いなものを隠します。トリミングします。...
投稿日:2024.06.15 カテゴリ:東花園辺り
街歩きの動画を見ていると情報量で言えば写真は叶わないなあと思います。なにしろ動画は写真=静止画の大量集団ですから数では勝てません。戦う前から要白旗なのですね。では写真は動画に勝てないのでしょうか。そんなことはないと思います。今のところ、よく分からないのですが写真には「余白の魅力」みたいなところがあると思います。まあ、争う必要もないのですが。...
投稿日:2024.06.12 カテゴリ:東花園辺り
当たり前にあることは話題になりません。当たり前には古さが付きまとうからです。人は新鮮さを求めます。写真も新鮮さが楽しませてくれます。新しいカメラ、新しいレンズ、新しい被写体・・・でも、新しいには時間という非情なヤツがやってきます。新鮮さというラベルを剥がすのです。見慣れた光景・・・退屈です。写真に撮って、新鮮な光景に変身させたとしてもやがて飽きてくるのです。写真を続けるには「当たり前」を「当たり前...
投稿日:2024.06.09 カテゴリ:東花園辺り
ChatGPTに「さん」を付けることってあるんですね。対話型なのでそうなのでしょうか。いずれ人格みたいなものを備えることを見越しているのでしょう。近い未来、相談するのにいちばん信頼のおけるのがChatGPTになるのかもしれません。自分の写真作品の評価を尋ねたりも出来るんですね。フォトコンテストの審査員に選ばれることもありそうです。そうなると、自分の応募した自信作が落選したら憤懣の向けようはなくなるのです。フォト...