フェルメールはどうして物語画から風俗画へと転向したのでしょうか? 美術市場最悪の贋作事件が起きた秘密もここにありました。寡作だったフェルメールの絵画の変遷から、その理由を読み解きます。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)

《取り持ち女》1656年 油彩・カンヴァス 143×130cm ドレスデン、絵画館

風俗画を描くようになった理由

 フェルメールの特徴として、まず現存する作品数は32〜37点と少ないことが挙げられます。真筆は33点というのが多くの研究者の見解でしたが、昨年、大回顧展を開催したアムステルダム国立美術館は37点としていました。

 絵のジャンル別では宗教画、神話画、風景画、寓意画が数点ずつでほとんどが風俗画です。

 最初期に描いたのが前回紹介したカラヴァッジョ様式の《マリアとマルタの家のキリスト》(1654-55年)という聖書の物語を描いた物語画、次に《ディアナとニンフたち》(1655-56年)というヴェネツィア派を思わせる神話画でした。次に描かれた《取り持ち女》(1656年)は、物語画から風俗画へと転向することが見て取れる過渡期の作品です。

ファン・バビューレン《取り持ち女》1622年 油彩・カンヴァス 102×108cm ボストン美術館

《取り持ち女》は聖書の物語「放蕩息子」にある、放蕩息子が売春宿で遊ぶ姿を描いたものです。父から財産を分けてもらった兄弟の弟が、家を出て放蕩の挙句に豚飼いにまで落ち、ついに回心して帰って父に許しを乞います。兄は家に入れるなと言いますが、父は寛大な心で許すというキリスト教の教えの物語で、当時のオランダで人気の主題でした。

 フェルメールの義母がカラヴァッジェスキのひとりであるオランダ人画家ファン・バビューレンの《取り持ち女》(1622年)を所有していたこともわかっています。聖書を典拠としながら売春宿を描くという限りなく風俗画に近いテーマであることから、物語画から風俗画への転身を図る画家たちにとって《取り持ち女》は格好の画題でした。フェルメールもこの作品から風俗画家の第一歩を踏み出します。左に描かれた男性をフェルメールの自画像を指摘する研究者もいます。

 ではどうしてフェルメールは、宗教画や神話画といった絵画の格としては上位のものから風俗画へと転向したのでしょう。そこにはオランダの独立が大きく影響していました。

 オランダは独立後、偶像崇拝につながることから宗教画に対して否定的な新教=プロテスタントを信奉したため、カトリック教会のように天井画や祭壇画など大規模な絵の注文は望めませんでした。また、オラニエ公によって独立を勝ち取りましたが、独立後は王侯貴族が不在の市民社会でした。つまり、教会や王侯貴族からの大きな絵の注文がなかったのです。ですから絵は家に飾るために裕福な市民が買いました。フェルメールの絵のほとんどがとても小さいのはそのためです。

 同じ時期にレンブラントとルーベンスがいますが、ドイツで生まれアントウェルペン(ベルギー)で活躍したルーベンスは大教会の注文を受け、大きな作品を残しています。一方、オランダ出身のレンブラントはそういった作品はありません。しかし、アムステルダムに出て、肖像画や出世作《テュルプ博士の解剖学講義》(1632年)のような集団肖像画で名声を得て、オラニエ公などからの依頼で大きなキリスト教絵画や神話画も手掛けました。

 しかし、ほとんどのオランダの画家は、市民を描いたフランス・ハルスを筆頭に風俗画を描いていました。また17世紀、オランダには多くの画家がいて、その総制作点数は500万点とも言われるほどだったため、生き残るのはたいへんでした。そのため画家たちは風景画、静物画、花の画家といったように自分に合ったジャンルを見つけていきました。

 フェルメールは同時代の画家の作品から多くを学び、色彩とその巧みな組み合わせ、光の表現、心理的効果を生む構図を用いて独自の世界を築きました。

 また、主要人物の女性を室内に描くという構図や、部屋の壁に掛けられたた画中画や地図といったモティーフを繰り返し登場させました(画中画と地図については次回紹介します)。

 今日でも人気が高いフェルメールが描く女性は、妻や娘、身近にいた女性をモデルにしたとされていますが、頻繁に描いた額の出た丸顔の女性は当時、オランダ絵画で好まれた女性像でした。

 実家の借金や妻の家族との関係でデルフトを離れることができなかったフェルメールは、この地で需要がある画風を確立し、人気の風俗画家となったのでした。