2025年に生誕135年、没後100年を迎える文豪・芥川龍之介。日本近代文学における短編小説の完成者と称され、時にカフカと並ぶ不条理の作家と呼ばれる芥川の人生の大きな岐路は、敬愛する夏目漱石の葬儀の受付で森鷗外と出会ったことでした。
文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)
「ぼんやりとした不安」とは、なんだったのか
——人間の心には互に矛盾(むじゅん)した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥(おとしい)れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。
『芥川龍之介全集1』所収『鼻』より(ちくま文庫)
近代文学史において特筆される存在だった芥川龍之介の才能を見出したのは、夏目漱石でした。24歳の時に書いた『鼻』(1916年)を漱石が賞賛し、晴れて文壇へ登ることになります。
しかし昭和2年(1927)7月24日、芥川は、自宅で睡眠薬を多量に飲んで自ら死を選んでしまいました。文壇はじめ世間に衝撃を与えた芥川の自殺は、時代の変わり目を告げる事件として大きく報じられました。死後に見つかり、久米正雄に宛てたとされる遺書に書かれていたその理由は、「何か僕の将来に対する唯(ただ)ぼんやりとした不安」(『或旧友へ送る手記』)でした。
芥川の生い立ちは少し複雑でした。
明治25年(1892)、牧場を経営し牛乳店を営む父・新原敏三、母・フクの長男として現在の中央区明石町に生まれ、姉が二人いましたが、長女ハツは芥川が生まれる前年に夭折しています。
父が43歳の後厄、母が33歳の大厄の年に生まれた子であるため、親の悪い条件が子に影響を与えることを恐れて、「拾い親」という風習に従いました。それは我が子を一度捨てて関係を断ち、誰かに依頼してすぐに拾ってもらうというものです。拾い親には父の旧友・村松浅次郎という人物がなりました。
その翌年に母・フクが精神を病み、芥川は母方の実家に引き取られます。芥川家は代々江戸城で将軍をはじめ幕府の役人に茶を調進し、茶礼や茶器をつかさどった御数寄屋坊主という、由緒ある家柄でした。
のちに養父となる芥川道章は一中節(浄瑠璃節の流派の一つ)、囲碁、盆栽、俳句、南画などを嗜む風流人で、一家で俳諧や草双紙、演芸、美術に親しみ、芝居見物にも出かけるような家で育ったことは、芥川の人間形成や芸術的センスに大きな影響を与えたと思います。
明治35年(1902)、芥川が10歳のときに、精神を病んだまま母が亡くなります。芥川にとって母の精神の病は非常に重いものだったでしょう。自分もいつか精神を病むのではないかという恐怖が芥川の人生に常につきまといます。