日本遺産巡り#38◆飛騨匠の技・こころ -木とともに、今に引き継ぐ1300年-|日本遺産ポータルサイト

特集SPECIAL CONTENTS

2024.07.30

特集

日本遺産巡り#38◆飛騨匠の技・こころ
-木とともに、今に引き継ぐ1300年-

飛騨高山に匠の技が生まれ、
今に伝わる“わけ”を訪ねて

奈良時代、日本全国で唯一設けられた「飛騨工制度」が示すとおり、飛騨高山には古くから、木造建築や木工芸の高度技術が息づいていました。その技術は、高山の伝統工芸や産業として現在も息づいています。高度な木工技術がなぜこの地に生まれ、現在まで伝えられてきたのでしょうか。高山のまちを歩きながら、思いを巡らせてみました。
全国唯一の税制「飛騨工制度」とは
岐阜県飛騨地方の中央部に位置する高山市。2005(平成 17)年に 10 の市町村が合併して誕生した、日本一面積が大きい市です。市中心部には、江戸時代の面影を残す古い町並みが今も大切に保存され、国内外から訪れる多くの観光客でいつもにぎわっています。また絢爛豪華な屋台が曳き揃う春と秋の高山祭は、日本三大美祭の一つに数えられます。高山のまちを歩きながら、飛騨の匠の技に迫ることにします。同行してくださるのは、高山市教育委員会の大谷眞帆さんです。

飛騨高山まちの博物館入口 高山市の歴史や文化を学ぶのに最適な施設です。

まずは全容を把握するために、「飛騨高山まちの博物館」を訪れました。江戸時代の豪商、矢嶋家・永田家の土蔵を活用した建物に、高山市の歴史や文化に関わる物品や情報を展示している博物館です。学芸員さんから、日本遺産に関連する話題を中心にご説明いただきました。

まち博学芸員:757 年の法律・養老律令に、「斐陀(飛騨)国条」という条文が定められました。飛騨の国は、当時の税である租庸調のうち庸と調を免除する代わりに、1 里につき 10 人の匠を都に送ることが求められました。これが「飛騨工制度」です。匠たちは 1 年間の任期中、寺社や宮殿の建築に従事しました。匠たちの食糧 1 年分も飛騨から持ち込んだため、都までの日程は約 14 日間、帰りは 7 日間ほどを要したようです。匠たちは労役を提供するだけでなく、都における寺社建築の様式や技術を持ち帰り、飛騨での建築物に活かしました。

1 枚の肖像画の前で、学芸員さんの足が止まります。

まち博学芸員:鎌倉時代から室町時代にかけて活躍した藤原宗安(ふじわらのむねやす)です。大工として初めて、飛騨権守の官位を得た人で、江戸時代の大工から崇拝された人物です。飛騨国分寺には宗安の木像が安置されています。
藤原宗安を筆頭に、飛騨匠の名声は次第に全国へと知れわたっていきました。今昔物語を基に編まれた「飛騨匠物語」は、人気絵師の葛飾北斎が挿し絵を描いています。また、匠たちの中には都に残って活躍を続けた人もいたようで、奈良県にある地名「飛騨町」などに、その名残があります。

この他にも、匠の技がふんだんに盛り込まれた高山城の復元模型など、まちの博物館にはさまざまな展示があり、飛騨高山の歴史を知るのに最適な施設となっています。

【飛騨高山まちの博物館】
所在地 岐阜県高山市上一之町 75
アクセス JR 高山駅から徒歩約 20 分
休館日 無休(臨時休館あり)

飛騨高山まちの博物館の情報はこちら

都で学んだ建築様式を飛騨で再現?

約 500 年歴史を持つ飛騨国分寺本堂 国の重要文化財に指定されています。

国分寺・国分尼寺とは、奈良時代に聖武天皇の命により国ごとにつくられた官寺のことで、国分寺は僧寺、国分尼寺は尼寺です。飛騨国分寺は 746(天平 18)年頃に創建された飛騨第一の古刹。本堂を訪ね、ご住職の北原康央さんのお話を伺いました。

飛騨国分寺住職の北原康央さん 背景右に見える巨木は樹齢 1200 年の天然記念物、飛騨国分寺大イチョウです。

北原さん:飛騨国分寺本堂は約 500 年前、室町時代に建て直された総檜造りの建物です。数十年に 1 度解体修理が行われており、現在の本堂は昭和 26 年から 29 年にかけて改修されたものです。私は小学校 1 年生でしたが、落慶法要(らっけいほうよう:落成を祝う儀式)には法衣を着て行列に並んだことを覚えていますね。

本堂の建物で最もお気に入りの部分はどこですか、とお尋ねすると、「もちろん、柱ですよ」と即答くださいました。
北原さん:太いヒノキの柱が何本も使われています。500 年たってもびくともせず、本堂を支えてくれています。

北原住職の説明を伺いながら、本堂に安置された数多くの文化財を拝見します。ご本尊の木造薬師如来坐像は国指定の重要文化財。約 1000 年の歴史を持つヒノキの一木造りの仏様です。

飛騨国分寺の三重塔 飛騨国分寺の三重塔

展示品の一つに飛騨匠木鶴大明神(ひだのたくみもっかくだいみょうじん)の木像とその版木がありました。

北原さん:木鶴大明神は室町時代の飛騨の匠で、自分で彫った鶴に乗って大陸に渡ったと伝えられる、飛騨の大工さんの祖先のような存在ですね。
木鶴大明神像は室町時代の名工・韓志和(からのしわ)の像だとされていますが、学芸員さんのお話にもあったように、藤原宗安像ともいわれます。いずれにせよ、木鶴大明神は往時の大工たちにとってはスーパースターのような存在だったわけで、北原住職によれば、「あやかりたいと考えた飛騨の大工さんたちは、版木で刷った大明神の軸を掛けていた」ということです。
【医王山 飛騨国分寺】
所在地 岐阜県高山市総和町 1-83
アクセス JR 高山駅から徒歩約 5 分
本堂
定休日 不定休(12 月 31 日・1 月 1 日)

医王山 飛騨国分寺の情報はこちら

飛騨国分尼寺は、残念ながら現存しません。その所在地については諸説ありましたが、1988 年、JR 高山駅西口から 10 分ほど歩いた場所に建つ辻ヶ森三社の社殿改修が行われた際、高山市教育委員会が発掘調査を行い、国分尼寺金堂跡を発見しました。
礎石の配置から、南側正面 1間分が吹きはなし(壁や戸のない柱間)となっており、奈良の唐招提寺金堂と同じ様式であることがわかりました。
奈良の都で寺院建築に携わった飛騨の匠が当時の最新様式を学んで帰り、この地で再現したのかも? 想像が膨らみます。

国分尼寺金堂跡に建つ辻ヶ森三社 国分尼寺金堂跡に建つ辻ヶ森三社

【国分尼寺金堂跡】(辻ヶ森三社)
所在地 岐阜県高山市岡本町 2-128
アクセス JR 高山駅から徒歩約 11 分
明治の匠が技のすべてを注いだ住宅
飛騨高山が多くの観光客を引きつける魅力といえば、時代劇に出てきそうな古い町並みではないでしょうか。飛騨高山まちの博物館学芸員さんの説明を思い出します。

まち博学芸員:高山の町家は、江戸時代のものも一部残っていますが、大部分は明治 8 年の大火の後に建てられたものです。江戸時代の町家は、幕府の倹約令の下で質素な建物が主流だったと思われますが、規制が撤廃された明治の住宅には、手の込んだ細工などが織り込まれるようになりました。

高山市の古い町並エリアを散策してみましょう。市街中心部を流れる宮川の東側に、旧高山城下町・伝統的建造物群保存地区が南北に連なります。飲食店や工芸品を扱うお店が並び、観光客でいつもにぎわっています。左右を見渡しながら歩けば、まさに匠の技でできているまちだと実感できるはずです。
 

旧高山城下町の北部、下二之町大新町伝統的建造物群保存地区にある日下部民藝館を訪れました。

日下部民藝館(日下部家住宅)外観 日下部民藝館(日下部家住宅)外観。日下部家住宅は国の重要文化財に指定されています。

日下部家は、江戸時代に幕府・高山陣屋の御用商人として栄えた商家で、民藝館は同家の住宅兼店舗だった建物です。日下部家 13 代目当主で、民藝館を管理する公益財団法人理事長の日下部勝さんに、ご説明いただきました。

日下部家 13 代目当主の日下部勝さん 日下部家 13 代目当主の日下部勝さん

日下部さん:明治8(1875)年、高山の町家一千軒を焼く大火が起こり、日下部家住宅も全焼しました。現在の建物は4年後の明治12年に再建したもので、江戸時代の町家とは趣が異なります。幕府の禁制が解けた明治初期、当時の名工・川尻治助(かわじりじすけ)さんが、飛騨の匠の技を思うままに注ぎ込んで完成させた住宅です。
建物の魅力はなんと言っても、ダイナミックな梁組みで構成された高い吹き抜けでしょう。首が痛くなるほど見上げ続けても、飽きることがありません。

玄関からの館内の眺め、3階建の高さがある吹き抜け 玄関からの館内の眺め、3階建の高さがある吹き抜け

日下部さん:柱はヒノキ、太い梁はアカマツが用いられています。ヒノキは縦方向の圧力に強く、アカマツは粘りがあって横方向の揺れに強い材質だということで、多彩な樹種を知り抜いた飛騨の大工さんの知恵が活かされています。構造部分は釘を一本も使わず、すべて木組みだけでつくられています。東日本大震災の直後に国が調査に入りましたが、耐震性を含めて理にかなった造りだという評価でした。これも匠の経験知なのかもしれませんね。

かわいらしい彫りのはいった「欄間」 かわいらしい彫りのはいった「欄間」

囲炉裏の上に施された、力強くモダンな「自在鉤」 囲炉裏の上に施された、力強くモダンな「自在鉤」

日下部民藝館の入り口 日下部民藝館の入り口

日下部民藝館は、昼は観光客に公開され、年間約4万人が訪れます。その半数以上が海外からのお客様ということです。また、夜はイベント会場としても利用でき、コンサートやワークショップが行われています。完成から150年近くを経た今も、生きている建築なのです。
 
【日下部民藝館】(日下部家住宅)
所在地 岐阜県高山市大新町1-52
アクセス JR高山駅から徒歩約16分
休館日 毎週火曜日を休館(祝日の場合は翌日)

日下部民藝館の情報はこちら

工芸品として残っていく匠の技もある
日下部家住宅を建てた大工の棟梁、川尻治助は彫刻の名手でもあり、一刀彫りの名品も残しているということです。そう、飛騨の匠の技は建築だけではなく、木を活かした工芸品づくりにも発揮されているのです。

飛騨高山を代表する伝統工芸には「飛騨春慶(しゅんけい)」と「一位一刀彫(いちいいっとうぼり)」があり、いずれも国の伝統的工芸品に指定されています。飛騨春慶とは、赤みのかかった透明な漆を使った工芸品。木地の木目が透けて見えるため、材料の選定から木加工、塗り仕上げまですべての工程で、高い技術が求められます。また、一位一刀彫は、イチイの木を材料に用い、彩色を施さずに仕上げる彫刻作品です。

吉野昌征さんが般若の面を彫る様子 吉野昌征さんが般若の面を彫る様子

高山市教育委員会の大谷さんから「一位一刀彫の実演が見られる」と聞き、飛騨高山まちの体験交流館を訪れました。飛騨高山まちの博物館の真向かいにある施設です。伝統工芸士で飛騨一位一刀彫協同組合理事の吉野昌征さんが般若の面を彫る様子を見学させていただきました。
おや? 手元にはたくさんの彫刻刀が並んでいます。吉野さん、「一刀」ではないのですか?
 

叩きノミ、平ノミ、丸ノミ、曲がりノミなど、さまざまな彫刻刀 叩きノミ、平ノミ、丸ノミ、曲がりノミなど、さまざまな彫刻刀を使い分けます。

吉野さん:よく言われるのですが、「一刀」じゃないんです。私の場合は合わせて2~300の彫刻刀を、工程に応じて使い分けています。師匠からは「一刀一刀、心を込めて彫るから一刀彫だ」と教わりましたので、私もそのようにお答えしています。
 
吉野さんは20歳の頃にお父様に弟子入りし、この道30年になるベテラン工芸士。屋号は「吉野彫刻所」で、吉野さんは2代目です。

吉野さんの作品 吉野さんの作品。一位一刀彫のルールさえ守れば、何を彫るか、どんな大きさにするかなどは、職人さんの自由だそうです。

吉野さん:イチイの木目にこだわり、美しく見せることを大切に考えて制作しています。
イチイの丸太は、中心部は赤みが強く(赤太)、周縁部は白い(白太)という特徴があり、例えば「おしどり夫婦」なら、頭に少し白太が入るように計算して彫ります。また、お面を彫る場合は、木目の中心が顔の中心に来るように心がけます。彩色をしない彫刻ですので、木目が作品の命です。
 
イチイは比較的柔らかく粘りのある材種で、細かい細工には適した木だと教えてくださいました。昔はこの地域でたくさん採れたので、鉛筆の軸にも使われたそうですが、現在は品薄になっているとのこと。今思えばもったいない話ですね。
この仕事のやりがいとはどのようなことでしょうか。伺ってみました。

吉野さん:やはり、自分が考えて作ったものを気に入ってくださるお客様の存在ですね。一位一刀彫はほぼ全工程が手仕事ですので、お値段も相応の額になります。それでもご購入くださり、飾って楽しんでくれる人がいる。それがこの仕事のよろこびです。それから、これは父が常々言っていたことですが、「自分がこの世から消えても作品は残る。生きた証がこの先、何百年も残るのだ」と。それは伝統工芸の仕事ならではのよさだと、私も思います。

制作中の「般若」の能面 制作中の「般若」の能面

いま吉野さんが取り組んでいる般若の面は、お父様が得意としていたレパートリーで、先代の仕事を思い出しながら彫り始めたばかりなのだそう。匠の技が受け継がれていく瞬間に立ち会えたような気がしました。
【飛騨高山まちの体験交流館】
所在地 岐阜県高山市上一之町35-1
アクセス JR高山駅から徒歩約15分
休館日 無休(臨時休館あり)

飛騨高山まちの体験交流館の情報はこちら

“組”の人々が屋台にかける熱い思い

高山祭で使われる鳳凰台 高山祭で使われる鳳凰台

高山と言えば、春と秋の年2回開催される高山祭を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。豪華で繊細な装飾、巧みに動くからくりなどの匠の技が満載された屋台が曳き揃う姿が、見物客を魅了します。京都祇園祭・秩父夜祭とともに日本三大美祭に数えられ、「高山祭の屋台行事」は、山・鉾・屋台行事の一つとしてユネスコ無形文化財遺産にも登録されています。

高山祭とは、春の山王祭(毎年4月14・15日開催)と秋の八幡祭(毎年10月9・10日開催)の総称で、お祭りを行う神社も登場する屋台も、春と秋では異なります。
櫻山八幡宮境内にある高山祭屋台会館には、秋の高山祭「八幡祭」で活躍する11台の屋台のうち4台を、交代で展示しています。高山祭の屋台の実物をいつでも見られるのはここだけだということです。
この日は、鳳凰台(ほうおうたい)・布袋台(ほていたい)・金鳳台(きんぽうたい)・鳩峯車(きゅうほうしゃ)の4屋台と、重さ2.5トンの大みこしも展示されていました。学芸員の瀬木登美子さんと一緒に、鳳凰台を見学します。
 

鳳凰台下段に配置された「谷越え獅子」 鳳凰台下段に配置された「谷越え獅子」

瀬木さん:見てくださいこの彫刻。江戸時代末期に活躍した屋台彫刻の名手、谷口与鹿(たにぐちよろく)の「谷越え獅子」という作品です。ケヤキの一枚板から彫り出したもので、木目が筋肉のように力強く、立体的に見えるように計算されていますよね。
 

手の込んだ彫金細工で埋め尽くされた金具類 手の込んだ彫金細工で埋め尽くされた金具類

瀬木さん:この鳳凰台は、高山で一番大きな屋台で、金色に輝く金具類の総面積は3万坪にも及びます。観客からは見えない部分まで細かな彫金細工が施されているのがわかりますか? 一つ一つの模様に全部意味があるんです。

間近で見る屋台の美しさと迫力もさることながら、瀬木さんの“屋台愛”に気おされそうです。
 

江戸時代から伝わる、鳳凰の染め物 江戸時代から伝わる、鳳凰の染め物

瀬木さん:「屋台の寿命は100日」と言われています。1年に2日間だけ動かすので、100日というと50年。そこで約50年に一度、屋台の解体修理を行います。修理期間は3年、修理費用は数億円に及ぶ大修理です。
この修理で再発見される技術もあります。例えば、車輪。分解して計測すると、わずかに楕円形であることがわかりました。曳くときにこの形が功を奏し、屋台がゆらゆらと揺れることで、例えば見送り幕に描かれた竜が天に昇るように見えるんです。解体修理は、過去の匠たちが屋台に注ぎ込んだ技を、現代の匠へと受け継いでいく機会になるんです。

11台の屋台は「屋台組」とよばれる地域の人々によって管理や修理が行われます。各組の人々が自分たちの屋台にかける思いは並々ならぬものがあるようです。

高山祭屋台会館学芸員の瀬木登美子さん(左)と、今回の日本遺産を巡る旅をコーディネートしてくださった高山市教育委員会の大谷眞帆さん。 高山祭屋台会館学芸員の瀬木登美子さん(左)と、今回の日本遺産を巡る旅をコーディネートしてくださった高山市教育委員会の大谷眞帆さん。

瀬木さん:当館では3カ月に一度、展示屋台を入れ替えています。かなり大変な作業なのですが、組の方々は嫌な顔一つ見せず、早朝から協力してくれます。
解体修理の後には他の組の人も集まって出来栄えを称えるのですが、解散後には「ウチの屋台が一番だな!」なんて言っています。修理も職人さんに丸投げしたりせず、細かくチェックしてダメ出ししたり。組の人たちは本当に仲がいいです。屋台がつなぐ絆は強いですね。
【高山祭屋台会館】
所在地 岐阜県高山市桜町178
アクセス JR高山駅から徒歩約21分、車で約6分
休館日 無休

高山祭屋台会館の情報はこちら

江戸時代の匠と屋台組の人たち、
彼らの思いに全力で応える

元田木山 一刀彫工房を主宰する元田木山(げんだぼくざん)さん 元田木山 一刀彫工房を主宰する元田木山(げんだぼくざん)さん

屋台の解体修理のお話を伺ったので、今度は実際に屋台修理に携わる“現代の匠”の工房を訪ねることにしました。
元田木山 一刀彫工房を主宰する元田木山(げんだぼくざん)さんは、一位一刀彫の伝統工芸士であり、祭・屋台修理技術者であり、さらには伝統工芸とは趣の異なる彫刻作品で日展や日彫展への出品・受賞経験も豊富なアーティストでもあります。工房をお訪ねしたときには、春の高山祭12台の一つ、恵比須台を彩る彫刻の清掃・修理の作業中でした。

元田さん

元田さん:屋台の修理は下段・中段・上段とそれぞれ1年かけて行います。恵比須台は下段の修理が昨年終わって、今年は中段を修理しています。現在は、獅子と飛龍と雲、手長・足長像を預かっていますね。
飛龍の金色は金箔ではなく、金泥という絵の具の一種が使われています。金箔を貼ればピカピカにできるのですが、ここは金泥にこだわる必要があります。

元田さん:組の人が「ピカピカにはしないでくれ」と言うんですね。飛龍の金に限らず、長い時を経て褪せてきた、今の色がいいんだと。ぶつかったりして剥がれ落ちてしまった箇所には新しく色を足しますが、褪せた色に合わせるのは至難の業。どこまできれいにするのか、どのあたりで抑えるのか、悩みながらの作業ですね。

きれいにするだけでなく、破損した箇所を補修することも元田さんの仕事。彫師の腕の見せ所です。

元田さん

元田さん:今手がけている飛龍は、180年ほど前に谷口与鹿が彫ったものだと思いますが、ものすごく繊細な構造に彫られていて、お寺の欄間ならともかく、デコボコ道を動かす屋台の装飾としては繊細すぎて、壊れるに決まっているんです。与鹿は天才的な彫師だと認める一方で、なんでこういうことをするのかなぁとも思いますね。
元田さんのお話を聞いていると、匠同士が180年の時を超えて対話しているように感じます。最後にお仕事をする上で大切にしていることを伺いました。

元田さん3 「木山」は、技術者・芸術家としての名。本名は元田勝さんです。二十歳の頃にお父様に師事し、52年目を迎えます。

元田さん:自分の思いで手を加えないことですね。組の人たちが屋台を思う気持ちを大切にして、相談に相談を重ねて作業を進めます。「今の色、今の形が好きなんだ」という組の人たちの声に応えて、全力で現状維持に努める。そういうことじゃないでしょうか。
【元田木山 一刀彫工房】
所在地 岐阜県高山市大新町2-149
木造建築や木工芸の高度技術が飛騨高山で生まれ、現在まで引き継がれてきたのはなぜだろう。そう考えながら市内各所を訪ねてきました。
多彩な樹種の森林資源に恵まれた環境で、木の性質を見分けて使い分ける技術が発達したこと。中央からその技術が認められ、早い段階で全国に知られる「飛騨匠ブランド」が育ったこと。それらはもちろん大きな要素に違いありません。
ですが最も大きな要因は、地域文化を愛し、大切に残そう、次代に伝えようと考える、飛騨高山の人々の、並々ならぬ思いだったのではないでしょうか。
【本稿で紹介した構成文化財】 飛騨国分寺
国分尼寺金堂跡
日下部家住宅
一位一刀彫
高山祭屋台

ページの先頭に戻る