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宮路年雄

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宮路 年雄(みやじ としお、1928年8月20日 - 1998年5月9日)は、日本実業家。家電量販店「城南電機」を運営していた信光電機の代表取締役社長

身長154cm[1] という小さな体躯と独特のダミ声に加え、明るいキャラクターで「城南電機の宮路社長」としてテレビ番組にも出演した。

略歴

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和歌山県日高郡中津村(現在の日高川町)出身。1928年8月20日、地元で有数の材木商の家に四男四女の次男として出生。

高津尾小学校を卒業後、1940年に和歌山県立和歌山工業学校(現在の和歌山県立和歌山工業高等学校)機械科に進学。直後の太平洋戦争勃発に伴い、1941年12月より、学徒動員兵庫県明石市内の飛行機部品工場で1年半ほど働く。その後運輸通信省に移り、機関車整備に従事。

1949年に鉄道事業が運輸通信省から日本国有鉄道に移管した際も、引き続き職員として在籍し、労働運動にも携わった。

1951年、国鉄を退職し、親からもらった1,000万円(現在の貨幣価値に換算して10億円程度)を元手に、大阪で兄と共に自動車のダイナモやバッテリーの販売・修理を行う阪和電機を設立するも、事業はうまくいかず倒産。その後も、パチンコスマートボールの台を製作する事業を営むものの、これもうまくいかずに失敗に終わった。この頃、親からもらった金でキャバレー通いにのめり込むうち、知り合ったホステス結婚する。

1955年、親からせびった2,000万円の金を手に上京し、ひょんなことから上野バッタ屋と知り合ったことで、家電の安売りという事業に出会う。以後、3年ほどは電気製品ブローカーとして東京と大阪を往復する日々を過ごす。

1961年彰国社社主で、東京出版信用組合(現在の文化産業信用組合)の理事長を務めていた下出源七の運転手となったことを機に東京に定住し、家電品卸業の信光電機有限会社を創業。1968年世田谷区祖師谷に小売部門(家電量販店)の城南電機1号店を出店した。

なお「城南電機」という名の会社法人は存在せず、信光電機有限会社の小売部門の屋号(店舗名)に過ぎない。宮路の正式な役職名は「信光電機有限会社代表取締役社長」であったが、一般的には「城南電機の宮路社長」として知られた。城南電機とは別に、建物管理を行う「株式会社城南」という子会社も信光電機傘下に存在していた。

「城南電機」部門は、資金繰りや大量在庫に窮した電気製品ブローカーや家電販売店から「現金買取、返品なし」の条件で安く買い集めた商品(所謂金融品)を、定価の3割引から7割引で販売する手法で急成長し、最盛期には東京都内に6店舗(祖師谷渋谷新宿自由が丘西永福三鷹)を構えた。大日本愛国党のビラに酷似した、筆描き原稿の赤黒二色刷り薄紙チラシを新聞に折り込み、松下電器の価格統制策を「ヤミ再販・欠陥商品隠し」などと辛辣に糾弾しつつ、徹底的な安売りで対抗した。

最盛期である1993年の月給は1,500万円だったと話している[2]。商品仕入は、買掛せず現金一括即払いを常套にしていた。このため常に数千万円の現金をアタッシェケースに入れて持ち歩いており、1994年5月23日には、本社社長室で刃物を持った男に襲われて軽傷を負い150万円を奪われるなど、生涯で6度も強盗被害に遭った[3]。襲われるたびに、周囲から「大金を持ち歩くのを止めるよう」勧められたが、第二次世界大戦中に蒸気機関車に乗務中、何度もアメリカ軍から機銃掃射を受けたことがある宮路は「今生きているだけで儲けものなのだから、もう怖いものなどない。機銃掃射に比べたら、チンピラみたいな強盗なんか物の数ではない」と著書[要文献特定詳細情報]で語っている。

1994年3月、前年の記録的な冷夏の影響で全国的に米不足となり、米騒動と言われる社会現象となったが、宮路は秋田県大潟村でヤミ米のあきたこまち29トンを買い付け、3月27日に城南電機・西永福店で赤字廉売した。当時の食糧庁は「食糧管理法1995年廃止)の無許可販売」と判断して城南電機に対し行政指導をしたが、この一件で宮路は時の人になり、多くのテレビ番組に出演するきっかけとなった。以降、社長業に加えてテレビタレントとしても活動するなど多忙な日々を送った。

1998年5月5日肺炎のため東京医科大学病院に緊急入院し、5月9日に69歳で死去。5月12日に通夜、5月13日に葬儀・告別式が築地本願寺和田堀廟所で行われた。葬儀委員長は中西啓介が務めた。

宮路の死後、息子が急遽会社を継いだものの、仕入れ業務は宮路本人の個人業務だったため引き継ぎが行われていなかったことや、宮路の死去によって仕入れ用の現金が遺産として凍結されたことから、現金一括即払いでの安価仕入をしていた城南電機部門の事業スタンスが成り立たなくなり、同部門からの現金収入を当てにしていた取引先が相次いで城南電機との取引を止めたことから、死去から僅か1ヶ月後の6月15日に、全店舗が閉鎖し廃業。これにより1961年の開業から約37年の歴史に幕を下ろすこととなった。

エピソード

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  • 1994年4月の朝日新聞の記事で、好物はふぐ料理しゃぶしゃぶと紹介されている[4]
  • 愛車は、6,000万円で購入したロールス・ロイス自動車電話から小型冷蔵庫、小型テレビ受像機などを備え、さらに衛星通信設備を持ち、車中から世界各国の航空会社ホテルの予約状況までリアルタイムに照会できるなどとも言われた、特別仕様車であった。本来であれば運転手に運転させる「ショーファードリブンカー」だが、宮路自らが運転しており、1ヶ月のうち20日以上を車中泊する生活だったとも言われる。
  • 城南電機が秋葉原に進出しなかった理由について「当時(1960年代~1990年代)の秋葉原には、客が買い物途中に立ち寄れる喫茶店飲食店が少なく、休憩場所がない。秋葉原は長く滞在し、買い物をしてくれる街ではないから」と答えている。
  • 人生で最も大切にしているものは「お金」と答えている(産経新聞インタビューより[要文献特定詳細情報])。
  • 米騒動時にヤミ米販売によってマスコミに扱われ、店には大行列が出来た際にも、著書で「5キロ6,000円強で仕入れた米を、3,000円で売り出すという話に、マスコミは大変驚いたようだが、私なりの計算があって、この価格を決めたという訳だ。もちろん損は出る。しかし、まあ本音を言えば、この安売りで城南電機の知名度、信頼度がますます上がることを考えれば、1,000万円ぐらいの損は(広告費と考えれば)安いものだ」と述べている。
  • 社員旅行で世界各国へ行く時は、免税枠を利用し社員にブランド品を買わせて、それを帰国後に城南電機各店で販売していた。その販売益で社員旅行経費を捻出していた。
  • ユニークなキャラクターが人気を呼び、多くのバラエティ番組にも出演した。これらのテレビ出演は宣伝目的と割り切り、ギャランティの受け取りを辞退していたという。

出演作品

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映画

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バラエティ番組

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CM

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テレビゲーム

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  • 『宮路社長のパチンコファン勝利宣言2』(1995年、スーパーファミコン、POW)
    • このゲームのパッケージには宮路の実写写真が大きく掲載されていた。自分の意志で行うはずのアルバイトやナンパなどのイベントが完全ランダムという仕様、宮路が毎日パチンコ店に通っているという少々不自然なシナリオが特徴。ストーリーモードではパチスロ雑誌の編集部に入って、自腹でパチンコ台のデータ取りをさせられ、セミプロ級のパチンカーの宮路にアドバイスを聞くという内容[5]

著書

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  • 僕の安売り商法 ― 家電品安売り日本一社長の「商いの極意」(講談社
  • 「現金(げんなま)」の魔術(マゼラン出版
  • 不況やさかい「モノ」は売れる ― 家電製品はこんなに安く買える!(日本経済通信社
  • パチンコ オレ流の勝ち方(ごま書房
  • 役人といかに喧嘩するか ― 消費者の声にこそ、“正義”はある(クレスト社
  • 人生は、オモロイ! ― 生きてるうちに頭を使え(プレジデント社

関連作品

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  • 集団左遷(1994年) - 宮路をモデルとする藤尾三郎(伊東四朗)が登場する。在りし日の渋谷「城南電機」の店舗ビルの姿も映画に映っている。

脚注

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  1. ^ 1994年2月8日AERA「現代の肖像 城南電機の宮路社長」
  2. ^ 1993年(平成5年)11月25日日刊スポーツ「連載 激安ショップ(1)城南電機(上)定価の17%で現金仕入れ」
  3. ^ 1998年(平成10年)5月28日産経新聞「【葬送】城南電機社長 宮路年雄氏(27日東京都杉並区・築地本願寺和田堀廟所)」
  4. ^ 1994年(平成6年)4月22日朝日新聞夕刊「宮路年雄さん:3 城南電機社長(元気人間・猛烈健康日録)」
  5. ^ 株式会社QBQ 編『スーパーファミコンクソゲー番付』p.46、マイウェイ出版発行、2017年。ISBN 9784865117097