「中性キャラ」だけでなく「少年キャラ」好きとしても知られるすいちゃんこと、星街すいせいの原体験というとハガレンあたりが出てくるので経験しているジャンルが違うと思うのだが、彼女のキャラクター(二次元)への価値観は80、90年代の那州雪絵の少女漫画と相性がいいんじゃないか、と考えていたことをちょっと解説してみたい。
それが「星街すいせい」の核心を突くような話になるとは流石に思わないが、彼女の感じている世界を考える補助線くらいにはなるんじゃないかなと思う。
80-90’sの那州雪絵作品
そもそも、本人のコト(性癖)は本人にしか分からない。なので、一般論から始めてしまうが、人間にとって「男らしさ、女らしさ」とは「生まれた後から後天的に身に付けていく」ものだという、ジェンダーの考え方がある。
なので、実際に現代日本の女性でも、環境次第で「物心付いた頃から無条件に自分は女の子だと思って育った」というタイプの人と、「物心付いた頃でも男子に混ざって男女の違いをあまり自覚しなかった」タイプの人に分かれやすい。
(一方で、男の子の場合は自分は男なのだと無邪気に疑わない環境で育てられるケースが比較的多い、ということ自体が男女差を最初に作っているとも言える。)
80年代以降の少女漫画の一部では、作者・読者共に、後者の育ち方をした女性たちの受け皿を担ってきたところがあった。例えば「兄弟とロボットアニメや特撮ばかり見ていた」とか、TVゲーム好き(時代的にドラクエなどのRPG)だとか、少女向けでない趣味からの創作の影響を、作者近況などで語る作家が増えていく。
那州雪絵はそんな傾向を濃くしていた少女漫画誌、『花とゆめ』(白泉社)の代表的な作家の一人だった。
- 念のため注意しておくと、ここにいるのは全員男の子
少女漫画において、少年たちだけの共同生活を描いた『ここはグリーン・ウッド』(1986年~)が爆発的なヒットをしただけでなく、「男子に混ざって一緒に野球できなくなる少女」の複雑な憧憬や葛藤を描いた『天使とダイヤモンド』(1992年~)は、それこそ「男女の区別なく育った女子」の心の声を代弁するような、少女漫画史における象徴的作品ともなっている。
また、那州雪絵は「男勝りな少女漫画ヒロイン」のベースモデルを見事に具現化した人でもあった。男友達からは「女らしくない」と呆れられたりもするが、見た目は髪を長く伸ばしていてボーイッシュな印象というほどでもなく、女の子としての魅力も「使えるものは使わないのは損」と素直に考えられるような、ふてぶてしいタイプのヒロイン像が多い。
(ちなみに『天使とダイアモンド』のヒロインは双子の妹にあたり、主人公である双子の兄のほうが中性的で「かわいい」タイプの男の子だったりする。)
性的に未分化なキャラクターの魅力
こうした少女カルチャーの歴史もあって、女性オタクあるあるとして「性的に未分化な状態で育ったキャラクター」を好む趣味が育まれてきたことが言えると思う。
それが「性的に未分化な男キャラ」だった場合は、「男の子と一緒だと信じて遊んでいた幼い自分」が成長した姿や、ありえたかもしれない可能性の姿への憧れかもしれないし、「性的に未分化な女キャラ」だった場合は「男子との違いをはねのけられる女子」の強さや自由さへの憧れかもしれない。
だが、現実の思春期や学校教育では、どうしても分化を押し付けられることになる。そのため、「少女の魅力と少年の魅力のいいとこ取り」を自由にできる中性の魅力は、「二次元」のキャラクターでこそ実現される憧れでもある。
だからすいちゃんが、重度の二次元コンプレックスなオタクであり、「現実の少年には全く興味がない」と主張するのも、(リスナーにはイジられやすいが)性癖として納得しやすい話なのだ。
イジられやすいといえば「ショタにも全く興味がない」と言うのも得心できる話で、おそらく少年未満(※すいちゃんの定義的には中学生あたりから「少年」になるらしい)の男児は、性的に未分化などころか、そもそも対となる「女の子らしさ」も芽生えてないってことじゃないだろうか。
確かに、性的に分化する前の幼児は、髪型を変えるだけで男児か女児かも見分けがつかなくなるという意味で「中性的」と言えるが、手足は伸び切っておらず、しなやかなプロポーションや色っぽさも身に付きようがない。
つまり「男の子っぽさ」と「女の子っぽさ」(いわゆる性徴)を同時に兼ね備えるには、成人しきらない程度の微妙な成長をしている必要があるのだ。
だから多分、すいちゃん的には「手足が伸びてないショタはあくまでショタ」という認識をしてるんじゃないかと思う。(ショタ派に言うと怒られそうな話だが)性的に成長していないほうがむしろ「ただの男」になりえてしまうというのは逆説的で、ちょっと面白い。
すいちゃんが『宝石の国』をドストライクな作品として挙げるのも、そうだ。あの作品の「宝石」たちのプロポーションは、完全に無性なのではなく、「上半身は少年」で「下半身は少女」を意識して作画しているという、むしろ両性の性徴を誇張したところに惹かれるのではないだろうか(ここで「もし上下が逆だったら」はあまり想像したくない、と感じるのが今回のテーマ的に示唆的なところだろう)。
ところで、最初に挙げた切り抜き動画では、同僚の大空スバルから「ギャップがいいの?」と推測され、すいちゃん本人はなんとも言いがたい反応を返している。ただ、思うにスバルの感想は「女性は女性らしいものである」というジェンダー固定的な感性が先にあるもので、だからこそ異性装や中性装にギャップ(違和)が生じるという言語化になるのではないか。
でも、ある種の育ち方をした女性にとっては順序が逆になるはずなのだ。性的に未分化な、もしくは混在した状態こそが「本来のかたち」であり、性的に分化しなければならない過程をむしろ違和として経験していく。そこに話の齟齬が起きているという気もする。
もちろん、すいちゃんがどういうタイプに当てはまるかは、全く定かではない(そうした原体験について、自分からはあまり踏み込んで語らない人という印象もある)。
その上で彼女自身は、自分の好みのタイプこそが「人の本来のかたち」だと感じていそうだな、と、その人柄全体から漠然と思ってしまうのだ。
「中性的なキャラ」を性癖だとは言うが、推しと付き合いたいという夢女子なタイプでもなければ、自分がそれになりたいというタイプでもない。二次元のフィクションでしか達成できない、ある種の理想形が込められているようにも感じる。
だから一方で、すいちゃんがそのアイドル活動や音楽世界で示し続けているのは、「性的に未分化な推し」を至高としながらも、自身における「女の子らしさへの分化」は決して否定せず、肯定的に活かそうとしている生き様だ。
髪は伸ばしてスカートを好んで履き、歌声からクールな印象に見えても毎日「かわいい」をファンにアピールする。
アニメ感想などで「頑張ってる女の子や戦っている女の子が好き」と繰り返し語っているように、同じ事務所に「女の子女の子した」タレントが多くても、むしろ積極的に可愛がっている様子もよく見られる(彼女の「同性に対する好みの幅」は、イメージから想像するより案外広かったりするので、歌手としての第一印象から入ったファンは少しずつ驚くところかもしれない)。
あるタイプの女性にとって、「女らしさへの分化」は一種の挫折であるし、屈折の理由ともなりうるのだが、彼女に「女の子であること」への屈託はなく、むしろ「女だから」という理由で低く見られたり、弱さをウリにしたファンサービスを求められやすい現状を「弱さに基づかない可愛さ」や「性別と関係のない強さ」を示すことで、「女の子であるまま」対等にしようとする意志のたくましさを感じられる。
それこそが両性に好かれやすい、彼女の魅力の大きな部分になっているとも言えるだろう。
そして、この「女の子らしさの肯定」と「未分化な性への憧れ」は表裏で、矛盾がないように思う。どちらにも、弱さや不自由さを跳ね返せるような力への希望が根っこにあるからだ。「性差をなくせない現実の世界」と、「性差を埋められる二次元のフィクション」とで、その実現の仕方(戦い方)が異なるというだけかもしれない。
ここで象徴的な作品の例を少し足しておくと、「かわいい女の子のままでも強い」という価値観を広く根付かせたのが初代プリキュアだと言うと分かりやすいかもしれない。
新プリキュアめっちゃかわいい👼💙
— 星街すいせい☄️ホロライブ0期生 (@suisei_hosimati) 2023年1月8日
www.toei-anim.co.jp
余談だが、初めて水色プリキュアが主人公となる次回作に、さっそくすいちゃんが反応していたのも印象深い。
今の女子小学生には「女の子の色=赤やピンク」というステレオタイプから外れた「新しい女の子の色」として水色の人気が高くなっているようで、女児アニメでもそれを受けた取り組みが進んでいるのかもしれない。
ちなみに女性グループとしては何気に「メインカラーの青・水色率が高め」なのがホロライブだったりして、後輩に青族が増える度に喜んでいたくらいに青色が好きなすいちゃんも、「青髪はサブヒロインの色」とか時折ネタにされがちだっただけに嬉しいのだと思う。
それと、女性漫画家の世界においては、『天使とダイアモンド』における「女子はいくら野球が好きでも公式試合に参加できない」という苦渋の先に、高校野球の女性監督を描いた『おおきく振りかぶって』(2003年~)が生まれているという補足もできるのではないだろうか。
- 「女性という理由だけで甲子園に出られない」なぜ高野連は女子野球を頑なに認めないのか 決勝戦だけはついに実施されたが… | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
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「Stellar Stellar」とおとぎ噺
性的に未分化な状態への憧れは、心身ともに「大人」になることを拒絶する、ある種のピーターパン・シンドロームにも繋がりやすい(個人的にピーターパン・シンドロームは、他の多くのVTuberにおいても、ネガティブではなく、ポジティブな意味で見出だせる特徴なのだと思う)。
「作詞:星街すいせい」である「Stellar Stellar」の歌詞にも、王子様化願望に重ねて「夜が好きで朝を迎える時間が嫌い」という自分の性格と、「夜明けなんていらない=時間を止める」というモチーフが込められている。
『おお振り』の女性監督のように、大人になったとしても「性が分化しきる前の夢」を取り戻して叶えようとすることはできる。「夜明け」を拒むこの歌の、「そうさ僕は夜を歌うよ」のフレーズをそんな風に解釈してもいいはずだ。
サン=テグジュペリの『星の王子さま』をオマージュして作られた歌詞だが、「王子」というものに対しては、男性性よりも、その幼さや少年性をこそ特別視している。
「男役になりたい」というより、「弱い女役が求められるくらいなら女らしく成長してしまう時間を止めたい」のだと、「大人へと育ちきる前の女の子なら少年にだってなれたはずなのに」という、思春期に夢見るおとぎ話の歌なのだ。
「なりたかったのは弱々しいヒロインではなく」「王子様/ヒーローだ」と詞を綴るのは、性差が描かれてきた歴史からすれば、やや古風なテーマなように映る気もする。しかし、本人がそうした内容を「今の時代に合っているなと思って」とも語っていたのは、何よりも彼女にとって(ひいては女性VTuberという社会にとって)現在進行形の戦いの渦中に生きているからだとも言えるはずだ。
(作詞の意図については23:34~)
youtu.be
なんと言っても、VTuberをやるということは物語ではなく、例えば女子部員にとっての甲子園と同じく、現実世界における自己表現なのだから。
最後に、蛇足ながら少しだけ那州雪絵のオススメを付け足しておこう。ピーターパンといえば、『月光』(1993年~)という(今で言う異世界転移系の)ファンタジー作品は、物語全体を通して「ちゃんとウェンディを迎えに来たピーターパン」などと評した人がいたくらいで、ぜひラストシーンの余韻を感じてほしい作品。
それと『ダーク・エイジ』(1991年~、文庫版『フラワー=デストロイヤー』に再録)も外せない名作で、男勝りなヒロインを魅力的に描いているだけでなく、言わば「陰キャの女子を救う、強い陽キャ女子」のストーリーでもあって、こちらもすいちゃんのめちゃくちゃ好きそうなタイプだなーと勝手に想像したりしているのだった。