超能力からスタンドへ
『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズを代表作とする荒木飛呂彦が、漫画界に不可逆な変化をもたらした巨大な作家であることはもはや論をまたないところであろう。
その成果は数多く挙げることができるが、特に少年漫画やバトル漫画の領域においては、「スタンド」の発明の与えた影響の大きさが素朴に認められることだと思う。
「スタンド」概念の画期性は、何よりもそれ以前の「超能力」漫画との比較によって明らかになるものだ。
荒木自身は、明確に「スタンド」のアイディアが大友克洋の「超能力」描写から生じていることを繰り返し語っている。
「スタンド」とか「波紋」の発想の原点にあるのは、いわゆる「超能力」というものに対する疑問からなんです。その存在自体は半信半疑なんだけど「念じるだけで物が動く」ってのが、なんか卑怯な感じがするんですよ。〔略〕裏づけというか説得力というか、そういうものが欲しかったんです。「ムッ」と念じるだけで物がバーンと割れるんじゃなくて、他人には見えないんだけど実際に何かが出てきて、そいつが物を割ってくれる、みたいな。
『JoJo6251[荒木飛呂彦の世界]』p166
つまり超能力というのはただ念じたらバーンって割れる感じを、まぁ、何か出てきて叩けば読者はわかりやすいなと。ただそれだけなんですけれど。〔略〕
〔大友克洋の『童夢』における超能力描写への対抗意識があったか尋ねられて〕そうですね。超能力のわかりにくさをなんとかしてやろうというのはありましたね。でも大友先生の空間の描き方にはすごい勉強させていただきましたよ。コップの割れ方とかね。よく見て描いていくとちゃんとわかるんですよ、理論的に描いていて。ちゃんとこう、パズルみたいに破片をきっちり描くんですよね。
〔「スタンド」について〕精神力の象徴ですね。それまでは、ガラスを「ううーん」とか念じて動かして、「バーン!」と割ったりするのが超能力だったんですけど、その「動かして割るところ」を絵にできないかなと思って。それが発想の原点というか。
『大学漫画』Vol.4収録荒木飛呂彦インタビュー(p203)
この「見えない超能力のプロセスを描きたい」という欲求の源泉は、実は「超能力漫画」以前まで遡ることができる。
荒木は白土三平の『ワタリ』が最初に模写を始めた作品のひとつだと言い(『JoJo6251[荒木飛呂彦の世界]』p168)、そして「忍者の術を理論的に描いてる」ことを好きな点として挙げている(『Quick Japan』Vol.75、p93)。
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その白土が「忍者漫画」というジャンルで行ったことは、荒木が「超能力漫画」に対して行ったことと重なるのだ。
夏目房之介は、白土が当時の漫画界に与えた衝撃を以下のように語っている。
魔法と夢想とお笑いの世界だった忍術マンガをガラリと変えてしまったのが白土三平*1だった。〔略〕
忍術を「現実らしく」するキイワード。それこそ“忍法”であり“忍者”だったわけだ。印をむすんでドロロンと化ける忍術は、白土三平によって体術と種あかしのある忍法にかえられた。これは、僕などにも相当ショックな世界だった。
それまでの忍者漫画というのは(そもそも「忍者」という呼び方が定着したのも白土三平の時代以降だったようだが)、「印を結びながら口に巻物を咥えてドロン」という演出に代表されるように、「妖術」や「神通力」と変わらない描き方をされるものだったという。
だが、白土三平の登場した時代の日本は「科学精神」が強調された頃でもあり、神秘的な「忍術」は、理論的な解説の加わる「忍法」へと変化する。
例えば『ワタリ』では、「土遁」の忍法を「印を結んでドロン」の術ではなく、科学的な説明と図解を加えてもっともらしく読者に伝えようとする。
荒木作品において、この「科学的な図解」の直接的な影響が見られるのは、『バオー来訪者』における武装現象の図解だろう。
荒木の「超能力」描写に対する欲求は、こうした科学的図解の延長上にあり、『バオー』の武装現象と、スタンドのあいだには、ジョジョ第二部までの「波紋」描写が挟まることになる。
大友(克洋)先生の漫画で、登場人物が超能力でバーンっとものを破壊するじゃないですか。力の始まりからバーンという結果までの間に、もうちょっと絵がほしかったんですよ。エネルギーの描写がほしい。描きたいんですよそこが。それが、波紋なんです。
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『Quick Japan』Vol.75収録荒木飛呂彦インタビュー(p93)
「波紋」のアイディアは、目に見えない超能力のエネルギーを「波」のように捉えて視覚化したことに眼目がある。
本来、科学的に考えてみれば「超能力」もなんらかの粒子や、波によって物理的に作用している可能性がある。物理的に作用している以上、そのプロセスを描くことができるはずだという発想が「スタンド」以前の「波紋」描写からは垣間見える。
ところで、ここでも言及される「大友克洋の超能力描写」だが、実は白土の「忍者漫画」と大友の「超能力者漫画」は、横山光輝によって結び付けられるジャンルでもある。
荒木飛呂彦にとっての横山光輝は、白土三平や大友克洋以上にその影響の強さやリスペクトが語られる漫画家であるが、横山自身が白土の次の世代の忍者漫画(『伊賀の影丸』など)を描き、そして『バビル2世』という超能力者漫画を作り出した。
少年漫画というジャンル全体から見れば、横山も「合理的な」バトルを描く漫画家であり、それこそが荒木の好む作家性でもある。しかし白土の科学的説明に比べれば、横山の描く忍法は理論的におおらかで「そういう忍法だから」と納得させている部分が多い(例えば「どこにそんな忍法の道具を大量に持ち歩いているのか」など)。
さらに、しばしば指摘されることだが『バビル2世』は「忍者漫画の忍法を超能力に置き換えた漫画」とも言われる。つまり忍法バトルを描く方法論が、現代の超能力バトルにも応用できることを示したのだ。
(これは「番長漫画」や「ボクシング漫画」の方法論の延長で、『聖闘士星矢』を描けることを示した車田正美にも通じることかもしれない。)
横山によっておおらかになった忍法描写は、超能力漫画に変わることで、まさに「ううーんとか念じて」行われるものに変化したと言えるだろう。
ただし『バビル2世』の超能力は、全身から炎を発生させるパイロキネシスや、電撃のようなエネルギーで攻撃するエネルギー衝撃波など、漫画的に視覚化されたものも多い。だからこそ、横山のさらに後から「まったく目に見えない超能力」を描いた大友が新しい作家として注目されたのでもある。
つまり荒木は、横山のような衝撃波でもなく、大友のような不可視の力でもない姿で超能力のプロセスを表現できないかと模索していたのだ。
このように、荒木飛呂彦のスタンドが生まれるまでには、白土三平・横山光輝・大友克洋という3人の作家の影響が働いていたと言える。
スタンド概念の中心と辺縁
いま現在においても「スタンド」が能力バトル漫画の金字塔のように映るのは、単に最初の発明だったからだけでなく、「超能力の視覚化」というテーマと地続きだった点にあると思う。
現代の能力バトルは、まず「スタンドのような能力バトルものの能力」という発想からスタートすることが避けられない。あるいはアメコミにおけるスーパーパワー(『X-MEN』シリーズのミュータント能力など)からのアレンジであったり、「能力」という概念が既に出来上がってしまっているのだ。
しかし荒木が挑戦したのは、念動力(サイコキネシス)や念写、パイロキネシスなど、既存の「超常現象やオカルトとしての超能力」の視覚化だった。
このスタート地点の違いが、スタンドのアイディアの自由さにも繋がっている。
初めての試みであるがゆえに様々なアイディアが次々と盛り込まれ、新しいスタンドが登場するごとに「スタンドの定義」が拡張されていくと言ってもいい。
端的なのは、当初「スタンドは一人につき一体」と作者自身が定義していたはずが、第四部で群体型スタンドが登場するにあたって「一人につき一体ではなく一人につき一能力」と修正が加えられた点などだろう。
「近距離パワー型」「遠隔操作型」に加えて「近距離型並のパワーを持つ遠隔自動操縦型」という拡張概念が付け加えられたのも第四部からだ。
また、あたかも一体のスタンドが複数の能力を持つように映る「エコーズ」や「キラークイーン」など、むしろ読者の側が「スタンド概念」について考察したくなるような欲求を刺激する。「スタンド大解析」というサイトはその集成であり、筆者も夢中になって閲覧し、時にはメールで考察意見を送ったことすらある。
「スタンド考察」はジョジョ読者の多くが通った道であろうので、それ自体について触れることが本論の目的ではない。
ただ、スタンドという概念に惹かれる理由として、あまりにも多様なタイプが立ち並ぶことによって、「スタンドらしさ」というイメージが非常に曖昧になっていることが挙げられる。
「スタンドらしさ」とは何だろう? 他の能力ものや、アメコミのスーパーパワーとの違いは? そう考えてみると、まず「スタンド像による能力かどうか」という違いが言えそうだが、なかにはスタンド像を必要としないスタンド能力だって存在するのだ。
この曖昧さは、筆者の専門分野(漫画研究)からすると、「漫画とは何か」という複雑な問題を連想する。
漫画もまた、読者の多くが「漫画らしさ」というイメージを曖昧に共有しつつも、歴史的にはそのイメージが必ずしも通用しないケースに多く直面する文化なのだ。
「漫画」と呼ばれていても形式的には別物であったり*2、形式的には「漫画」に似ているが当時は漫画扱いされていなかった、というケースがいくらでも見つかる。
これは現実的に、アーカイブとして「世界中の漫画を収集しよう」と公的機関などが試みようとした時にぶちあたる問題であって、「漫画」と「漫画でないもの」の線引きが困難である以上、「手当たり次第にすべて収集する」という方法を取らざるをえないようだ。
ただし、本当に手当たり次第では「漫画とは何か」を学術的に考えることはできない。
この難問に対応するために、夏目房之介が(講演の場などで)提唱していたのが「中心と辺縁」という枠組みで捉えることである。*3
あくまで便宜的な枠組みであるが、まずは誰もが「漫画」と認識するような「中心」を仮に設定する。例えば、日本で最も発行部数の多い漫画誌である『週刊少年ジャンプ』やそのコミックスはほぼ確実に漫画だと呼べるだろう。ここではアメコミやBDなど、文化ごとに「中心」を設定し直してもかまわないと思われる。
そしてその中心を囲むようにして、周辺に「漫画のようなもの」が位置し、さらにそこからも遠ざかると「漫画ではないもの」として扱えばよいという考え方だ。
その「漫画のようなもの」には、縦スクロールして読むWebコミックなどが含まれることになるだろう。
完全に「漫画」と「漫画ではないもの」を一気に定義するのではなく、中間に「辺縁」を挟むことで便宜的に対応しようとするこの発想は、漫画以外のジャンルにおいても応用できる「定義論争への処方」であると思う。
こうした考え方からすると、スタンドもまた魅力的なサンプルケースとして浮かび上がってくる。
確かにスタンドには「スタンドらしさ」の中心があり、「スタンドのようなもの」の辺縁、そしてさらにその外部が揃っているからだ。
スタンドらしさの中心とは何か? と問おうとするなら、やはり人型・近距離パワー型スタンドである「スタープラチナ・ザ・ワールド」と「ザ・ワールド」が思い浮かぶだろう。
「スタープラチナ」ではない、という点も重要だ。「人型のスタンド像に一種類の特殊能力」という確固たるイメージは、やはりザ・ワールドの登場によって完成する。
さらに第四部以降は、「クレイジー・ダイヤモンド」や「スティッキィ・フィンガーズ」のように、「スタンドが拳で殴った箇所に何らかの現象が発生する」というパターンが定着する。これらが「誰もがスタンドらしさだと感じるイメージ」の典型ではないだろうか。
後の部によって拡張されたスタンドのイメージよりも、むしろ第三部にこそ例外が多く含まれていることにジョジョの読者は気付くだろう。
「タワー・オブ・グレー」や「ダークブルームーン」はスタンドそのものの戦闘(運動)能力が高いだけで「特殊能力」らしい能力を持たないように映るし、「クヌム神」にはどうやらスタンド像が存在しない(スタンド使い本人は「顔のスタンド」と呼んでいるので、本体の顔自体がスタンドと一体化しているのかもしれないが)。
スタンド像も「コンセント型」の「バステト女神」のように、今イメージされるようなスタンドのデザインとは異なる場合もある。
最初期のスタンドである「ハーミット・パープル」は作者の試行錯誤を感じられる能力で、当初は「念写という超能力の視覚化」がテーマだったと思われる。
元々「牢屋のなかに勝手に物を持ち込むことができる」能力として「念動力の視覚化」を行おうとしていた「スタープラチナ」と並んで、有名な超能力をスタンド化するというコンセプトだったのだ。
しかし「念写のプロセスの視覚化」と言ってもどう具現化するのかは悩ましい。実際は「ポラロイドカメラを手刀で叩き潰す」という描写になったわけだが、これはよく考えると「超能力者が自分の手刀で叩き潰す」ことと行為そのものは同じで、手刀が纏っている「イバラ状の像(ビジョン)」は能力発動のプロセスに関与していないようにも見える。
そのため、後になって描かれる「機械や電線にイバラのスタンドを入り込ませて操る」「地面を使って地図を描く」能力のほうが「スタンド能力っぽい」と感じるのではないだろうか。
同じく最初期スタンドの「マジシャンズ・レッド」にも似た問題がある。念動力・念写と並んで有名な超能力「パイロキネシス」(キング小説ファンの荒木にとっては『ファイアスターター』もイメージしていただろう)の視覚化と言えるが、これもよく考えてみれば「半人半鳥のスタンド像」が技の名前と共に炎を出すという能力で、それ以前の「ううーんと念じる」超能力や、他の漫画の必殺技と本質的には変わっていないような気もする。違いは、炎の発生源がスタンド使いではなくスタンド像に移ったというだけで、炎が出るプロセスそのものを視覚化しているかというとちょっとどうかと思う。
とは言え、荒木にとっては「超能力のプロセスの視覚化」だけが表現の目的ではなくなっていくことが後のスタンド能力からは窺える。
温度操作のスタンドで言えば『ジョジョリオン』の「スピード・キング」が新たに登場しているが、そもそもこちらは「スタンド使い自身が対象に触れる」ことで発動する能力なのだ。
スタンド像自体は描かれているものの、能力の発動はスタンド使いが触れることによる、という設定は『ストーン・オーシャン』以降から目立つようになる。例えば「ホワイトスネイク」のDISK化能力も、遠隔操作のできる人型スタンドではなく本体が触れたほうが即効性が高いという描写になっていた。つまり、「スティッキィ・フィンガーズ」タイプの人型スタンドを「中心」とするなら、少しズレた位置に移行していたと言えよう。
ちなみに第三部は「武器型スタンド」や「憑依・一体型スタンド」など、人型ではないスタンドのアイディアも沢山投入されており、この「初期のスタンドの幅広さ」こそが後のスタンド能力の自由さに繋がっているとも言えよう。
そしてスタンド概念の「辺縁」の最たるものが第四部の「アース・ウインド・アンド・ファイヤー」だろう。
公式設定でも「スタンド使いなのかは不明」であり、クヌム神と同じくスタンド像を持たず、スタンド名も本編には登場しない。他のスタンド像は「見えるらしい」ので実はスタンド使いである、という説が有力でもある。
個人的には「宇宙人という設定を本体に与えること自体が能力のスタンド」だから、スタンドとしての例外が多いのではないかと勝手に考えている。
ここで面白いのは、アース・ウインド・アンド・ファイヤーのスタンド能力が「変身能力」ではないことだ。「宇宙人になる」能力であって、宇宙人だから変身もできる、という順序が正しいということになる。
そういう捉え方をしてみると、タワー・オブ・グレーの特殊能力のなさや、エコーズやキラークイーンの複数能力の不思議も解くことができる。
スタンドの「一人につき一能力」という定義も、そのスタンドが起こす「作用」や「現象」を個別に指しているわけではない。「スタンドの像や存在そのもの」をひっくるめて「一能力」なのだ。
タワー・オブ・グレーはおそらく「高速で襲う」こと自体が視覚化されたスタンドの像(ビジョン)なのだろう。それでもなんとなく物足りなさはぬぐえないが……。
エコーズも「しっぽ文字」や「フリーズ」がそれぞれ「能力」なのではない。まず「音のスタンド」という概念があり、その延長として擬音を操る技と、「アクトスリー→フリーズ」という「音の語呂合わせから来る*4追加技」をひとつ持つ。これらが全て「音のスタンド」の能力に含まれている。
キラークーインも同様、「第一・第二・第三の爆弾」が「爆弾のスタンド」という一種の概念から発生しているのだ。第三のバイツァ・ダストに関しては「矢」の影響を無視できないものの、「一体のスタンドが二種類以上の能力を同時に所有している」という点ではやはり例外的なので、別の能力とするよりは、「爆弾のスタンド」という「概念」こそが「スタンド能力」の本質である、という説が言えるのではないだろうか。
こうした捉え方は、そもそも「精密動作」と「時を止める」という二種類の能力を持つようにも見える「(スタープラチナ・)ザ・ワールド」にも当てはまることだろう。
資料によっては(『ストーン・オーシャン』17巻)「あまりにもスピードが速すぎて時を越える」という解釈も見られるが、そこでは「超精密」のほうがスタンド能力の本質であるように書かれているのだ。確かに、精密に動くことも、精細に観察してスケッチすることも、「究極的に精密」であろうとするなら時を止めることに繋がるのだろう。
これは「超スピードの精密動作能力」が先にあってそれを利用して時を止めている、という順の考え方をすべきではない。「超精密」という概念のなかに、精密動作や時を止める作用が含まれていると考えるべきなのだ。……例えば、超高速で動く物を「超精密に観察」したいなら、「超高速の動体視力」でも「時を止めて観察する」でも同じ結果が得られるのだから。
最後に、「スタンドのようでないもの」として挙げるべきなのは、ジャイロ・ツェペリの「ボール・ブレイカー」なのだろう。
スタンド大解析でも考察の対象になっておらず、原作ではっきりと「スタンド能力に近付いた技術」であって、スタンドではないものとされている。逆に、スタンド名のない「ジャイロ・ツェペリの鉄球(仮)」がスタンド扱いになるほどだ。ボール・ブレイカーはまさに「辺縁」の外に位置するが、「見かけ上はスタンドと見分けがつかない」能力なのである。
漫画のように見えるが、漫画とは言い切れそうにないものが存在するように。
以上のごとく、「中心」と「辺縁」という言葉の枠組みで物事を捉えることは、それ自体が面白い。少なくとも、単なる定義論争(カテゴリー・エラーだとか、定義の例外を列挙していくだけの行為も含む)をしているよりは純粋に楽しく、有意義で、発見も多いのである。