この記事は、「『命か経済か』の問題設定の終焉」の続編になる。
第1波収束時に公開した「日本はなぜ新型コロナウイルス感染症の流行を抑え込むことができたのか」で指摘したことだが、その国に根づいた構造(制度あるいは風土と言い換えてもよい)は政策の帰結に良い方向にも悪い方向にも大きく影響する。上の拙稿は日本の保健所の体制が良い方向に働いた例だが、「『国民の生命及び健康に重大な影響を与える』新型コロナウイルス感染症」は、日本の医療提供体制の構造が悪い方向に働いた例になる。
「『命か経済か』の問題設定の終焉」で取り上げた問題に対しては、日本の政策の構造問題が3つの点で悪い方向に働いているように思える。
第1に、オミクロン株から大きく変化したことに、政策が大きなところから細かいところまでついていけていなくなっている問題が生じている。環境が変化しても以前の政策を続けて政策がむしろ問題になることは、日本の政策のお家芸である。政策は政策目的を達成するための手段であるが、行政の主たる業務は政策の実行であるため、いつしか手段(政策の実行)が目的化して、政策の目的が忘れられてしまうことがある。日本でのEBPM(根拠に基づく政策形成)の取り組みで「政策目的を明確化させる」ことが掲げられていることも、このためである。この結果、若者には利益がなく、深刻な不利益を強いられる状態がなし崩し的に実現してしまった。
第2に、若者に大きな負担を強いること自体が、日本の政策風土を反映している。現在の国民が公共サービスの便益を享受しながらその費用を負担せずに将来の国民に負担を回していることから、政府債務は世界的にも非常に高い水準にある。
債務に表れないが、公的年金も将来に巨額の負担を回している。これはあらかじめそのように計画されていたわけではない。厚生年金は1942年に、将来世代に負担を回すことのない財政方式で発足したが、徐々に、そしてなし崩し的に将来世代に負担を回す制度改革がなされた。
年金や財政赤字によって将来の世代に巨額の負担が回されることを、コトリコフ・ボストン大学教授は、「財政的児童虐待」(fiscal child abuse)と呼んだ。多くの経済学者がこのような所得再分配は正当化できないものと問題視しており、日本でも筆者を含む経済学者が公的年金の財政方式を批判してきたが、厚生労働省年金局は、「損得論から見る問題ではない」「世代間の助け合い」という、経済学とは相いれない言葉で実際の制度を正当化して、経済学者とはまったくコミュニケーションがとれない状態のまま進んでいる
コロナ対策の負担を若者に負わせることも、そのような日本の構造のなかに溶け込んでいきそうである。
第3に、いったん受益と負担の構造ができあがると、既得権益がそれを変える改革を阻む障害となるのも、日本の政策のお家芸である。高齢者の利益のために若者が負担を負う構造ができあがると、高齢者が若者に負担を負わせる権利が既得権益化する。そこから対策を考えると、若者の利益のために高齢者の負担を増すべきか、という議論になる。
もしも新型コロナウイルス感染症がオミクロン株から始まっていたら、高齢者の利益のために若者の負担を増すべきか、という議論になって、現状と代替案は逆転してしまうだろう。現状での権利保護が優先されると、「『命か経済か』の問題設定の終焉」で紹介した「ヒックスの楽観主義」に基づく政策の改善が阻まれる。
以上のような日本の構造は、「『命か経済か』の問題設定の終焉」で提案したようなコロナ対策の実行を難しくする理由となる。
さらに、感染症の専門家は健康被害に着目して、対策の社会的・経済的負担を軽視しがちである。これは、公衆衛生学のなかに社会的・経済的負担がしっかりとした理論化されていないことが原因であろう。経済学では、拙稿「感染症対策の厚生経済学:解説」の文献紹介でわかるように、経済的負担を考慮に入れて対策を分析することが当然の流儀になっている。
このような公衆衛生学の課題と上記の第3の日本の構造が表れた意見として、西浦博京都大学教授の最近(8月19日時点)のインタビューを見てみよう。
——政府が社会経済を回すことは言っても、感染対策や予防については国民に呼びかけなくなりました。逆に何も対策をせずに社会を開くリスクについてはダンマリを貫いています。無責任だと感じますか?もちろんです。特に倫理上の問題が気にかかります。もちろん、為政者には社会の意見を統合する役割があると思います。流行を制御してもらいたいという声があるのと同時に、社会経済活動を活発にしてもらいたいという人もいる。その中でバランスをとっているのだと決断は尊重します。ただ、そうするのであれば、その判断に関する説明が必要です。特に命を失う人たちは僕らの親や祖父母世代ですが、その人たちに対する尊敬の念はないのかと問いたいです。その人たちの命と引き換えに若い人たちの日常を取り戻すということになりますから。そのリスクを受け入れる覚悟をしたのか否か。「日本をこういう国にしようと思うから、政府としてはこう判断した」と、政治家が必ず説明しなければいけません。
西浦教授の考える倫理上の問題は高齢者の命と引き換えに若い人の日常を取り戻すことにあって、高齢者の命を救うために若い人の日常を奪うことは含まれていないかのようである。しかし、それは社会の熟議を経て決まったものではない。そのようになった根拠が説明されることもなく、なし崩し的に決まったものである。若い人が日常を取り戻すことに憤りを感じているように窺えるが、行動制限を当然のものとし、あえて対立を煽るような物言いは、感染症の問題を悪化させる方向に働いてしまう。
コロナ対策としての公衆衛生的介入でも財政的児童虐待と似通った現象が生じている。いま起きていることは、「公衆衛生的児童虐待」と呼ぶべきものである。
参考文献
岩永直子(2022)「エンデミックに至る過程で予想される大量の高齢者の死 今が未来を変えるラストチャンス」
岩本康志(2021)「感染症対策の厚生経済学:解説」東京大学CIRJE-J-299
Laurence J. Kotlikoff and Scott Burns (2004), “The Generational Storm: What You Need to Know about America’s Economic Future,” MIT Press(邦訳「破産する未来:少子高齢化と米国経済」日本経済新聞社、2005年)
関係する過去記事
「日本はなぜ新型コロナウイルス感染症の流行を抑え込むことができたのか」
「『国民の生命及び健康に重大な影響を与える』新型コロナウイルス感染症」https://iwmtyss.blog.jp/archives/1080804613.html
「『命か経済か』の問題設定の終焉」