新型コロナウイルス感染症は個人の健康を損ねるだけでなく、社会の健康も損ねる。それは、感染症の社会的な負荷が特定の階層に偏り、社会の分断を招くからである。感染症による健康被害は高齢者に偏り、対策の負担は現役世代に偏る。オミクロン株の流行以降、この偏在が深刻になってきている。
 オミクロン以前にはこのような偏在の問題はありながらも、高齢者以外でも重症化率、致死率は季節性インフルエンザを大きく上回り、社会の全員にとっての共通の脅威とみなすことができた。第1波での緊急事態宣言時は対策も模索していた段階であって、一律の活動制限がとられたことから、対策の負担も(濃淡はあるものの)全体に及んだ。このことから、感染症対策を経済学的に考える際には、問題の第一次近似として、社会の構成員を1人の「代表的個人」に代表させて、その個人が直面する「健康と経済のトレードオフ」(「命か経済か」)として描写することができた。下の図は、拙稿「新型コロナウイルス感染症と経済学」にある図であり、人的被害を減らそうとすれば経済的被害を大きくしなければいけないトレードオフが示されている。黒丸は選択肢のひとつを示している(接線の意味は拙稿を参照されたい)。
「命か経済か」の問題設定の終焉1
 筆者の2020年のブログ記事「感染流行の第1波を乗り越えることで得たもの(そのZ)」では、感染症対策によって健康被害を減少させる価値と社会経済活動を制限する費用を日本社会全体の集計値で考量して、あるべき対策を考えるという問題設定をとった。「感染症対策の厚生経済学:都市封鎖の事後評価」で展望した米国と英国の都市封鎖の費用便益分析も、このような設定に基づいている。もちろん対策の受益と負担が偏在する問題の検討も重要であり、完全に無視してよいわけではない。

 オミクロン以降、この偏在がむしろ感染症対策の問題の本質となった。高齢者を除いては病状の程度が深刻でなくなったとともに、対策の負担が若者に重くのしかかる。このため、高齢者以外にとっては感染症対策が自身のためよりも高齢者のためのものとなっている。ここで若者とは社会人となる前に様々な経験を積むべき子供から学生までの年齢層を念頭に置いており、感染症対策によって人との接触の機会を長期間奪われることで、今後の人生に大きな悪影響が心配される世代である(いまは概念的な議論をしているので、厳密に範囲を定義することは重要ではなく、このような被害を受ける層として、社会人となって間もなく、経験を積むべき世代まで含めてもよい)。オミクロン前の状況のように、社会全体での便益が費用を上回れば、対策を実施するという判断が妥当しなくなる。深刻な不利益を被る階層が発生する選択肢を社会的に善い、といえるかどうかは、倫理学、そして経済学の分野では厚生経済学の大きな問題になる。
 代表的個人にとっての「健康と経済のトレードオフ」では同一人にとっての問題と設定されていることから、対策による健康的被害減少の貨幣価値と経済的被害の貨幣価値を比較することの問題はないが、個人間での効用の比較には慎重となるべきであり、異なる個人の効用の変化を貨幣価値化して、その合計が正か負かで社会の厚生が改善するか悪化するかを判断すればよいわけではない。政策評価で用いられている費用便益分析ではあたかもそのような判断をしているように見えるが、本稿の後半でもう少し詳しく説明する通り、実際はそうではない。あくまでも目指すものは全員の厚生の改善である。ある政策で不利益を被る個人や集団が他の多くの政策で利益を享受して、全体ではすべての人の厚生の改善が実現されるだろうという考え方が、現実の政策実行の理論的基盤となっている。しかし、その限界は当然にわきまえなくてはならず、ある特定の階層(ここでは若者)の不利益が解消できない事態は認められない。
 人格形成や人間関係の構築で濃密な時間を送っている若者には、いまの時間はかけがえのないものである。そのため、感染症対策の負担は取返しのつかないものになっている。他の政策の受益で埋め合わせができないものであるならば、このような負担を負わせることを正当化することはできない。

 若者にとって深刻なリスクではないにもかかわらず、感染症対策として行動制限を求めることのもうひとつの問題点は、この世代から高齢者への感染経路が問題視されていることである。いわば、若者は高齢者に感染させることに対して、大きな罰を受けている。
 故意や悪意があれば別であるが、注意していても結果的に他者に感染させることを社会的に問題としたり、罪に問うようなことはこれまではなかった。かりにその責任が問われるとすると、感染対策をとっていても感染は起こっているのであり、絶対確実に感染を起こさせないことを目指せば、社会経済活動は著しく委縮する。しかも、どうやって感染するかがわかっていなければ、因果関係を立証することも難しい。感染させることの責任を重く問わないことは、円滑な社会経済活動を営むうえでの知恵である。
 しかし、現状の対策では、若者の行動が高齢者の感染につながることが強調されている。しかも、その間には何段階もの感染があり、明確ではない因果関係に基づいて若者は大きな罰を受ける。
 似た構図は、季節性インフルエンザでの学級閉鎖に見られる。疫学では、子どもの感染予防の社会的な利益として、学校で感染した児童が同居の祖父母等の高齢者に感染させることで生じる被害を抑制することが重視される。しかし、この学級閉鎖の根拠は一般の人にはあまり認識されていない。一般人が学級閉鎖を容認しているのは、インフルエンザは子どもにとっても重症化や死亡のリスクが高く、子どもを護る利益が理解できるからである。また、学級閉鎖は数日で終了し、学習の遅れも何とか取り戻せる。
 しかし、オミクロン以降では、かりに若者から高齢者への感染経路を疫学研究で立証できたとしても、若者に利益がなければ、インフルエンザと同じように若者の行動制限で高齢者を護るという考え方は、社会的に容認されるわけではない。
 以上のことから、現在のコロナ対策を続けると、誰かに感染させるかもしれないというだけで問題視され、道義的に批判され、さらには加害者へ(加害者ではないかもしれない人へも)罰を与えるという方向に向かってしまう。

 以上の2つの問題点(特定の階層に重い負担を負わせる、感染の責任を重く問う)を認識すれば、これまでの「命か経済か」のような問題設定は、オミクロン以降の問題の本質をとらえ損なっている。では、本当の問題点を解決するにはどうすればいいのか。このような問題を生じさせない形で、高リスク層(高齢者)をどのように感染症から護るのか、を原点に立ち戻って考える必要があるだろう。
 特定の階層に重い負担を強いて補償がされない対策は倫理的に容認できない。高齢者に対する予防と治療に万全を期すことは必要としても、公衆衛生的介入は高齢者の生活範囲に限定して、生活レベルで具体性をもつリスクの軽減に努めるのが適当である。因果関係の見えにくい、直接に関係ない社会経済活動を、高齢者にも感染が波及するという理由で制限することは避けるべきである。

補足説明:経済政策の規範的判断
 以上が本文で、ここからは本文への補足説明である。
 本文を読みやすくするため、政策がある階層の効用を改善するが、他の階層の効用を悪化させる場合の判断については短くまとめたが、以下では、厚生経済学がこの問題をどのように考えているのかをもう少し詳しく説明する。公共経済学、ミクロ経済学の教科書ではさらに詳しく説明されているが、政策への応用について詳しくのべたものに八田(2009、第20章以降)がある。また、費用便益分析との関係を論じたものに金本(1999)がある。
 ここで議論したい状況を概念化したのが、下の図になる。社会の構成員を2つの階層に分け、それぞれをAさんとBさんで代表させる。中心が感染症対策実施前の状況であり、感染症対策の選択肢をAさんとBさんの厚生の変化によって図の中に位置づける。Aさんの厚生が改善する状態を右側、悪化する状態を左側に置き、Bさんの厚生が改善する状態を上側、悪化する状態を下側に置く。
「命か経済か」の問題設定の終焉2

 Aさんを高齢者、Bさんを若者とすると、オミクロン以降の感染症対策の帰結(対策をとった場合ととらなかった場合の比較)は中心から左下の領域にあるととらえられる。このような対策の帰結をどのように考えるべきか。
 パレート原理では、上の図で両者の状態が改善する選択肢(中心から右上、白色の領域)は「善い」(正確には片方の状態が変化せず1人だけ厚生が改善する選択肢も含む。また「パレート改善」と呼ばれる)、両者の状態が悪化する選択肢(中心から左下、濃い灰色の領域)は「悪い」、どちらかの状態は改善するがもう1人の状態は悪化する選択肢(中心から左上と右下、薄い灰色の領域)は「善悪は判断できない」とする。
 パレート原理で判断できない選択肢を判断する基準にはバーグソン=サミュエルソン型社会的厚生関数があるが、実際の経済政策に対する適用は、累進的所得税による所得再分配にほぼ限られる。所得再分配では高所得者の厚生悪化と引き換えに低所得者の厚生が改善されるが、この高所得者の厚生悪化は社会的に受け入れられているからである。それでも高所得者の財産権の侵害ではないかとの議論はあって、それへの反論にはルソーの社会契約論が駆り出される。
 経済政策の多くは、所得再分配をともなう税収によって、公共サービスを提供するものに類型化される。このとき、公共サービスの受益は特定の層(地域、年齢、産業)に偏ることが多く、また特定の階層に不利益をもたらすことがある。
 このような政策の選択肢を判断する基準に補償原理があり、費用便益分析の理論的基礎となっている。補償原理では、選択肢で利益を受ける人が犠牲になる人に補償をすることで、誰の厚生も悪化させることなく、誰かの厚生を改善することができるときに、その選択肢を「善い」とする。つまり、補償がおこなわれると選択肢がパレート原理で「善い」と判断できるときに、選択肢は「善い」と判断できる。
 補償原理では、上にのべた代表的個人の場合と同じように、AさんとBさんの厚生変化を貨幣価値化して、その合計が正になる選択肢を「善い」とする考え方がとられることになるが、このとき注意しなければいけない問題がある。
 まずは、細かい理論上の問題であるが、2つの選択肢のどちらも「善い」という判断になる可能性があって、選択肢を選べなくなる可能性がある(シトフスキー・パラドックスと呼ばれる)。この問題は、個人の選好をゴーマン型に制約すると排除でき、経済学でよく使われる選好の特定化がゴーマン型に属することから、費用便益分析の実用上はさほど問題とされない。
 2つ目の問題は、補償が実行されなくても、選択肢を「善い」と判断することである。このような補償は実務上不可能なことも多く、かりに補償の実行を要件に課すと、判断できない選択肢が増えて、多くの政策が採用されずに、現状維持にとどまってしまう可能性が高い。しかし、補償が実行されなければ、誰かの厚生が悪化した状態も「善い」と判断してしまうことになる。これだけを見れば、補償原理にも大きな問題があるように思える。
 これに対しての補償原理の擁護は、現実にはたくさんの政策が実行されるので、補償原理で「善い」とされる政策を積み重ねていけば、ある政策で不利益を被る個人や集団が他の多くの政策で利益を享受して、全体ではすべての人の厚生の改善が実現されるだろうと考える。これは「ヒックスの楽観主義」(あるいは「古典派の教条」)と呼ばれるが、証明された命題ではなく思想ないしは主張になるものの、現代の政策を支える基本的な理念となっている。しかし、その限界は当然にわきまえなくてはならず、特定の階層が継続して不利益を被る側に回ることは認められない。あくまでも目指すものは全員の厚生の改善である。

参考文献
岩本康志(2021)「感染症対策の厚生経済学:都市封鎖の事後評価」

岩本康志(2022)「新型コロナウイルス感染症と経済学」『医療経済研究』第33巻第2号、3月、109-133頁

金本良嗣(1999)「費用便益分析における効率と公平」社会資本整備の費用効果分析に係る経済学的問題研究会編『費用便益分析に係る経済学的基本問題』

八田達夫(2009)『ミクロ経済学Ⅱ』東洋経済新報社

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