4日、「感染症対策の厚生経済学:局所的集団免疫」と「付録 ネットワークSIRモデル」の草稿を公開しました。さらに改良したいと思いますが、とりあえず議論のために公開しました。これらへの入り口が少し複雑なので、少し説明します。
前者は、「感染症対策の厚生経済学:解説」(英語版はWelfare Economics of Managing an Epidemic: An Exposition)の補遺の位置づけであるため、今回公開した拙稿への入り口が少し複雑なので、説明します。大きく2つの経路があります。
(1)「補遺」→「付録」(または「解説」→「補遺」→「付録」)
「補遺」では、個人の感染リスクが社会経済活動量に応じて異なる場合の感染症対策を論じています。社会ネットワーの構造で感染症が流行するモデルを使っており、これを「解説」のなかの多次元SIRモデルに位置づけています。
感染リスクの個人差を考慮すると、先に感染しやすい人が感染して、流行の速度が次第に落ちていき、同質的な個人が「よく混じり合う」という想定の通常のSIRモデルよりも流行が早く収束するという現象が見られます。専門的な研究では複雑ネットワークやエージエント・ベースド・モデルを使ったシミュレーション分析が多いのですが、感染症の経済への影響を分析したい研究では、比較的簡単な形で局所的集団免疫現象が現れるモデルを解説しています。そのモデルでのパラメータを「付録」で検討しています。
(2)「付録」→「補遺」
「付録」では他に、異質性を表現する1次元の指標で、感染性(感染させやすさ)が異質、感受性(感染しやすさ)が異質、感染性と感受性が完全相関する、という3種類のモデルを概観します。最後がネットワークモデルであり、周辺のモデルを理解することにより、異質性の影響とネットワークモデルの理解を増すことができると思います。
以下は、拙稿の読み方についての補足です。
(1)
感染性と感受性に個人差がある状態では、リスクの高い個人の隔離を優先する措置が流行をおさえるために有効ではないか、という発想が生まれてきます。これは隔離の費用に個人差がないことが前提になります。しかし、社会ネットワークはそこから社会経済的価値が生じているので、個人を隔離する費用が違うことは本質的な性格であり、対策を考える上で無視することはできません。感染症対策の費用と効果を同時に考えなければいけない、という「解説」の考え方の延長線にあるのが「補遺」です。
拙稿「コロナ禍の経済的計測」でも、感染リスクと対策の機会費用に関係する議論をしています。
(2)
感染症対策の議論は、ワクチンの開発前で感染することの費用が非常に大きい時期が対象であり、過去の対策が対象です。感染することの費用がワクチン接種で大幅に下がった時期では感染予防策の便益も大幅に下がったものとして別に考える必要があります。
(3)
比較的簡単な形で局所的集団免疫を表現することの結論を簡単にまとめると、SIRモデルでの新規感染者の発生に関する項(サーチ理論でいえばマッチング関数、ボルツマン方程式になぞらえれば衝突項)を\[\beta S^{3}I\]とします。なぜ3乗なのか、を解説することが「付録」の目的です。
局所的集団免疫の分析自体は経済学ではないので、「補遺」から経済学以外の議論を「付録」に集めたら、「付録」は(当然ですが)経済学ではなくなりました。私の専門分野を外れることもあり、記述は数理的内容にしぼって抑制的にしており、疫学的な意味は引用文献にまかせて深入りしません。
(4)
「付録」を執筆した動機は、「補遺」で使うパラメータの検討に加えて、(2)の意味で「証文の出し遅れ感」があることから、新型コロナウイルス感染症流行の初期の研究から局所的集団免疫を考慮できなかったのか、という疑問です。例えば、英国と米国を対象にしたFerguson et al. (2020)や日本を対象にした西浦博教授の予測(適当な文献が見当たらないので拙稿では引用できませんでした)では、「完全に混じり合う」形のモデルではないですが、局所的集団免疫は十分には現れません。私が2020年5月にブログ記事「実効再生産数が低下する5つの理由」で異質性の影響に触れたときには、稲葉・西浦(2006)で引用されたBecker and Yip (1989)を知り、他にも文献があることを確認していたのですが、当時に現れた、異質性を考慮した研究では先行研究がほぼ引用されない状態でした。そこで、新型コロナウイルス感染症以前にどこまで研究されていたのか、新型コロナウイルス感染症を契機にどこから研究が進んだか、を整理しようとしました。この点は、まだ拙稿での整理が至らないと感じています。
(5)
他分野の人が勉強ノート的に使用することも想定して、数式の展開は普通の論文以上に丁寧です。「解説」も同じ方針でしたが、経済学とは違うせいか、「補遺」と「付録」は数式が多すぎます。結果だけ知りたい読者は、数式の展開は適当に飛ばしてください。
(参考文献)
Becker, Niels, and Paul Yip (1989), “Analysis of Variations in an Infection Rate,” Australian Journal of Statistics, Vol. 31, Issue 1, March, pp. 42–52.
https://doi.org/10.1111/j.1467-842X.1989.tb00497.x
Ferguson, Neil M., et al. (2020), “Impact of Non-pharmaceutical Interventions (NPIs) to Reduce COVID-19 Mortality and Healthcare Demand.”
https://www.imperial.ac.uk/media/imperial-college/medicine/mrc-gida/2020-03-16-COVID19-Report-9.pdf
https://www.imperial.ac.uk/media/imperial-college/medicine/mrc-gida/2020-03-16-COVID19-Report-9.pdf
西浦博・稲葉寿(2006)「感染症流行の予測:感染症数理モデルにおける定量的課題」『統計数理』第54巻第2号、461–480頁。
https://www.ism.ac.jp/editsec/toukei/pdf/54-2-461.pdf
岩本康志(2021)「感染症対策の厚生経済学:解説」東京大学CIRJE-J-299。
http://www.cirje.e.u-tokyo.ac.jp/research/dp/2021/2021cj299ab.html
Iwamoto, Yasushi (2022a), “Welfare Economics of Managing an Epidemic: An Exposition,” Japanese Economic Review, Vol. 72, Issue 4, October 2021, pp. 537-579.
https://doi.org/10.1007/s42973-021-00096-6
岩本康志(2022b)「コロナ禍の経済的計測」東京大学CARF-J-114。
https://doi.org/10.1007/s42973-021-00096-6
岩本康志(2022b)「コロナ禍の経済的計測」東京大学CARF-J-114。
https://www.carf.e.u-tokyo.ac.jp/research/w6155/
(関係する過去記事)
「実効再生産数が低下する5つの理由」