修道会同士の縄張り争い その3 : 【大航海時代から】
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修道会同士の縄張り争い その3



前回の記事に、「26聖人殉教事件」で処刑された26人のうちイエズス会関係者は3名のみで、残りは全てフランシスコ会関係者であったことはイエズス会の「陰謀」によるものだ、との説を20数年前に読んだことがあると書いた。

そのため、「戦国日本のキリシタン布教論争」を読む際に、それが解明されているのではないかという期待があった。ところが、読んでみると「~布教論争」には、「26聖人殉教事件」の具体的な解説は無かった。ただ、序章に「イエズス会とフランシスコ会等托鉢修道会との対立抗争は、秀吉政権による『宣教師追放令』から『26聖人殉教事件』等の対外政策を考察するうえで『避けては通れない』重要な研究テーマといえる」とされ、渡辺京二「バテレンの世紀」(新潮社)が注記されていた。


「バテレンの世紀」は、過去の記事で採り上げたことがある歴史書である。学者でも小説家でもない思想家・歴史家・評論家 渡辺京二によって冷静な眼で書かれたキリシタン時代の通史であり、期待通りの内容だった覚えがあるが、「26聖人殉教事件」に関する記述については全く記憶がなく、改めて読み直した。


「バテレンの世紀」によると、「26聖人殉教事件」の概要は以下の通りである。


「26聖人殉教事件」の経緯
1596年10月19日、マニラからメキシコのアカプルコに向かっていたスペイン船サン・フェリ-ペ号が台風のため土佐国の浦戸に漂着した。サン・フェリ-ペ号には、膨大な量の高価な貨物が積まれていた。

秀吉は積荷を没収することに決め、現地に増田長盛を派遣した。増田は積荷を全て大坂へ廻漕せしめ、乗員233名の所持金2万5千ペソも没収した。12月8日帰還した増田は、秀吉に上記の処置の内容を報告したが、その際「スペインは宣教師を先兵として送り込んで侵略の足掛かりとすることで、今日のような広大な植民地を獲得したことが分かった。」と告げた。激怒した秀吉は、「都と大坂の宣教師をことごとく逮捕せよ」と命じ、1587年に公布したバテレン追放令を改めて再交付させた。

宣教師逮捕の命を受けた石田三成が念のため「全てのパードレを逮捕するのか」と尋ねると、秀吉は「自分が腹を立てているのは、都で布教してこの国を覆そうとしている新来のバテレンどもに対してである。長崎のパードレたちは自分の命に従っており、何も咎めることはない。」と述べた。(新来のパ-ドレとはフランシスコ会の司祭、長崎のパ-ドレとはイエズス会の司祭のことである。)

逮捕されたのはバウティスタ以下フランシスコ会士6名、イエズス会関係者3名、日本人信者15名に後から捕縛された両修道会の世話人各1名の合計26名で、彼らは翌1597年2月5日長崎で磔刑に処された。秀吉の意向にも拘わらずイエズス会関係者3名が処刑されたのは、「名簿作成上の手違い」によるものとされている。

この事件は、イエズス会及びフランシスコ会の両修道会の間に、消えることのない新たな不和の種をまいた。


両修道会の主張
フランシスコ会側
在京のイエズス会士あるいはポルトガル人が、「スペインは海賊で、日本の国を奪おうとしている」と秀吉に吹き込んだ。また、増田が浦戸に派遣されたのは、イエズス会士またはポルトガル人が秀吉に吹き込んだことの真偽を確認するためであった。

フランシスコ会側が秀吉に虚偽を吹き込んだと考えた在京のイエズス会士あるいはポルトガル人というのは、その頃秀吉を訪問したイエズス会士のペドロ・マルティンスを指している。ペドロ・マルティンスは、11月16日に通訳ロドリゲスを伴って秀吉を訪ねていたのである。

イエズス会側
ペドロ・マルティンスの秀吉訪問は新任司教としての表敬のため。
(それまでは、司祭に叙階されるためには、司教がいるマカオに渡る必要があったために、その不便を解消するために、マルティンスが長崎司教に着任したもの。)

渡辺京二の見解
増田が現地に出発したのは、サン・フェリ-ペ号漂着(10月19日)の直後、ペドロ・マルティンスの秀吉訪問のはるか前のことであり、フランシスコ会側の主張は合理性に欠ける。



増田長盛が聴取したと言われているスペインの征服手法についての様々な証言
1.モルガ「フィリピン諸島誌」
1609年刊行のモルガの「フィリピン諸島誌」には、サンフェリ-ペ号の舵手フランシスコ・デ・サンダが増田に地図を見せて、ペル-やメキシコなどがスペイン領であることを示したところ、増田がどうやって手に入れたかと問うので、「先ず修道士たちが入り宗教を説き、そして軍隊が彼らに続いて入り、それらの王国を服従させた」と軽率な発言をしたことが、事件の原因になったのだと記されている。
モルガは事件当時フィリピンで役人を勤めていたスペイン人である。

2.フランシスコ会士フアン・ポブレの証言
フランシスコ会士フアン・ポブレの証言では、船長フランシスコ・デ・オランディア(モルガの言うサンダと同一人物であるのは疑いを容れない)は、「スペイン人はなぜ航海に司祭を伴うのか」という増田の質問に、「スペイン人が上陸した土地の人々をキリシタンにしたいと思えば、司祭の力で望みを遂げることができるからだ」と答えた。これが誤解を招きやすい発言であったため、「それ以来船長はずっと非難されどおしである。」と付言している。

3.サン・フェリ-ペ号の舵手フアン・ロウレンソ・デ・シルバの証言
フアン・ロウレンソ・シルバは、増田の質問に対し身元不明のあるスペイン人が「植民地を征服する手始めとして、まず宣教師を派遣するのだ」と答えた、と証言している。



秀吉が察知した「侵略の危険性」はあり得ないものだったか
以上の証言等によって、秀吉に対する増田の報告は誇張されたものであり、それによって秀吉は、あり得ない「侵略の危険性」を誤って信じ込んでしまった、と言えるだろうか。否である。秀吉が察知した「侵略の危険性」が誤りではなかったことは、処刑されたフランシスコ会士マルチン・デ・ラ・アセンシオンが書いた手紙を見ればあきらかである。


フランシスコ会士アセンシオンが書いた手紙
マルチン・デ・ラ・アセンシオンは、小西行長を全国の統治者にすることを夢見て、「神父たちが所有している村々から三万人の信頼するに足るキリシタンを集め、マスケット銃で武装させれば、日本全国を制圧できる。」と書いている。


秀吉が下した返答
1597年8月、事件に抗議するためにマニラから派遣されたナバレテ・ファハルドに対する秀吉の返答には、スペイン側には反論し難いロジックが含まれていた。いわく、「彼らは約束を破って法を説き、国内秩序を乱したる故に、誅したまでのことであある。もし、貴国において日本人が、貴国の法に背き神道を説く者があったならば、貴国はいかにこれを処置せんとするや」



[私が考えたこと]

1.処刑された26人のうちイエズス会関係者は3名のみで、残りは全てフランシスコ会関係者であったことはイエズス会の”陰謀”によるものだとの説はフランシスコ会側から出たもののようであるが、根拠が薄弱なために「キリシタン布教論争」でも「バテレンの世紀」でも言及されていないものと思われる。

逆に、秀吉が「何も咎めることはない」と言ったとされているイエズス会関係者3名が「名簿作成上の手違い」によって処刑されたことには、不可解さを感ずる。間違いがあったなら訂正すれば良いだけの事ではないか。まさか、処刑されたのがフランシスコ会関係者のみであると、介入したことが疑われるので、「イエズス会側が3名を差し出した」ということではなかったのかと考えてしまう。


2.以前の記事に、秀吉の”激怒”は演技だったのではないかと書いたことがある。


この「サン・フェリ-ペ号事件」から「26聖人殉教事件」にかけても、秀吉は「宣教師の先兵としての働きによってスペインは広大な領土を獲得してきた」というサン・フェリ-ペ号船員の発言に”激怒”して、当初の約束を無視して振舞い始めていたフランシスコ会士を狙い撃ちにして処刑した、というのが定説である。

しかし、秀吉は”激怒”などしていなかった、と私は思っている。上の記事にも書いたように、ペル-をはじめとする南米がスペインによってどのように「征服」されたか、またそこに教会がどのように関わっていたか、を秀吉は既に知っていたと言われている。だから、今さら怒る訳がないのである。


3.秀吉の「威嚇」外交に乗じて1593年にフィリピン総督から派遣された使節であったフランシスコ会士は、布教活動はしないことを前提に都に滞在していたが大胆というか傍若無人というか徐々に布教活動を強化していった。

そもそも、フランシスコ会士を受け容れ在留を許可するについて、本願寺裁定(1592年)など宗教団体対策に習熟していた秀吉は、彼らをイエズス会に対する抑止力として、また貿易等の利権をもたらすイエズス会の競争相手として利用しようとしていたのではないか、と私は考える。つまり、外交関係推進を考慮して布教活動もやむを得ず許容したものの、布教活動に関しては動向を注視していたのだろう。


4.秀吉は、スペインの植民地の侵略・支配の実態を知っていたはずだと書いたが、1580年にスペインがポルトガルを実質的に併合していたことも知っていただろう。

フィリピンにおけるスペインの経済的・軍事的脆弱性を見透かした秀吉の「威嚇」外交が語られる時、忘れがちなのはフィリピンという出先では軟弱だったスペインが、当時ヨーロッパ随一の強大な国家だったということである。

そういう意味で、秀吉はスペイン・ポルトガルの拠点(ということは、フランシスコ会・イエズス会の拠点)であるマニラ・マカオを睨みながら、ポルトガルより更に強大な力を秘めているはずのスペイン国家を後ろ盾とするフランシスコ会士駆逐の機会をじっと待っていたのだろう。

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じっとその機会を待ちながら、事件に抗議するためにマニラから派遣される使者に対する返答まで準備していたのではないか。それくらい、ナバレテ・ファハルドに対する上述の返答は的を得ている。


〈つづく〉

by GFauree | 2024-10-09 04:46 | キリシタン布教の実相 | Comments(0)  

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