消えて行った或る理想郷 そのIX 第6章 独り勝ちしてしまうので  : 【大航海時代から】
人気ブログランキング | 話題のタグを見る

消えて行った或る理想郷 そのIX 第6章 独り勝ちしてしまうので 

消えて行った或る理想郷 そのIX 第6章 独り勝ちしてしまうので _a0326062_01011389.jpg




『A VANISHED ARCADIA』(消えて行った或る理想郷)
Robert Bontine Cunninghame Graham (ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)著

今回は、その第6章である。

「やっと」と言うか、「いよいよ」と言うか、主題である教化村の環境や組織やそこでの生活が、語られている部分に入った。私がこの本を読んだ理由は、要するに、イエズス会教化村について知りたかったからであるが、それを知りたかった理由は、色々ある。その中に、イエズス会教化村を知れば、日本のキリシタン教会がより鮮明に見えるようになるのでは、という期待があった。


南米(主に、パラグアイ)のイエズス会教化村は、1610年頃日本での禁教・迫害が本格化した頃からその建設が進められたのだから、日本のキリシタン布教と教化村活動に共通する点があるのは当然であるが、本書の内容からイエズス会の活動の特徴が浮かび上がり、それが同会の成功とまたそれに対する羨望や憎悪や警戒心を生んだ事情を理解出来るのでは、と思ったのである。どうやら、その期待は当たっていたようだ。


本書の内容から浮かび上がる教化村活動と日本でのキリシタン布教との共通点

・人材活用の成功 各業種の専門知識・技術保有者の活用、特に先住民軍の指導における軍人出身者
・産品の販売・輸出の進展 これも知識を持った会士の存在が推測できるが、日本のキリシタン布教もポルトガル船貿易に支えられていた。

専門知識・技術保有者の絶対的不足は、南米へのスペイン人移民全般に言えることで、これが植民地でのイエズス会の活動全般に有利に働き、同時にそれが、他の修道会のみならず入植者全般からのイエズス会への羨望・嫉妬・憎悪の要因になった、と私は考える。




この第6章の内容は以下の通りである。

・イエズス会によって建設された教化村領地と町
・先住民を引き付けるためイエズス会の努力
・宗教的祝祭の儀式と行列
・農業と商業のための組織(仕組み)


カルデナスがばら撒いた中傷は根絶できなかったが
カルデナスの死によって、パラグアイでのイエズス会の最も危険な敵は消滅した。彼らは、彼を打ち破り、司教職から追いやった。しかし、彼によって目論まれた展開と彼が彼らの修道会に向けた中傷は、未だに残ってはびこっており、結局は彼らに逆行して流布し、彼らを地上から追いやることとなる。

中傷を根絶やしにすることは困難なことである。人というものは一般にそれを大切に心に抱くものである。彼らは、決してそれらを死なせはしない。それは、たとえ萎(しぼ)むことはあっても、別の形で蘇(よみがえ)るものだからである。人々は、悪い評判と良い評判という形でそれに拘(こだわ)り、それは一旦根付くと、森の樹木のように数世紀にわたって成長し続けるのである。

パラグアイにおけるイエズス会に対する誹謗中傷は、当初カルデナスが始めたものだが、それ故未だに続いており、パラナやウルグアイの教化村におけるイエズス会の活動についての評価を、今日までさえ、歪(ゆが)め続けているのである。


教化村の拡大と畜産業の発展
しかし、中傷もパウリスタの襲撃も、パラグアイのスペイン人植民者の妬みでさえ、イエズス会士の任務遂行を押し留めることはなかった。そして、教化村は次第に拡大し、パラグアイのサンタ・マリア・マヨ-ルから現在のブラジルにあるサン・ミゲルへ、そしてパラナ川流域のヘススからウルグアイ川流域のヤペユにまで及ぶこととなった。

ヘススとトリニダの教化村を例外として、パラナ川流域の大部分の地域は、今日、原始林の中の開拓地であるが、支流の河岸上の森を伴ったゆるやかな起伏の開けた平原で全て構成されている。そこは過去にも現在にも、美しく短い草に覆われていて、牛を育てるのに適した素晴らしい地域である。そして、それ故に、家畜の世話が教化村の先住民に壮大な産業をもたらすことになる。

その地域は、牧牛に非常に有利だったから、牛は急激に増え、フランシスコ・ハビエル・ブラボ神父によって公表された在庫台帳によれば、牛の数は膨大なものとなったのである。


教化村の赤い土
これら開けたゆるやかな起伏の原野は、先住民には「起伏の多い原野」と呼ばれ、そこに普通はヤタイスという名の生育不全のヤシが密集して生えるが、春や初夏に原野を覆う草を損なうほどには密集せず、冬でさえ、そこは良好で肥沃な土壌となるのだ。そして、堅い木の密集した木立ちが、あちこちで半島や島の形に大草原を分けている。窪地や岩の多い谷では、小型ヤシが馬の膝の上にまで立ち上がっている。

普通、土壌は豊かで明るい赤色であり、それは木々を通して微かに光り、地面に特徴的な暖かい色を与えている。フランス人イエズス会士である記録者たちが、それを「教化村の赤い土」と呼んだ。イエズス会士たちは、教化村領地内の彼らの教会と家々を塗装するのに、その土ともうひとつ別の黄色の蔭を持った土を使った。その組み合わせは、むしろ黄土色で、雨の後には、濃い泥色となったが、それは移動を非常に厄介なものにするものでもあった。


植物学者であった会士たち
その地域の花や灌木は、非常に興味深く樹木よりもさらに多様である。イエズス会士の多くは植物学者であり、モンテネグロ、ジギスムンド・アスペルガ-、ロサノ等の神父達は強い関心を持って、今日でさえ未だ分類されていない植物の多くを記述し、リストを作った。

有名なフランス人植物学者ボンプランは長い間、パラグアイで執政官フランシアに捕らえられていたが、不運にも何も公表する機会が無かった。現代の筆者たちは、多くの記録を残したが、国全体の植物相は不完全にしか知られていない。


教化村のある地方の地理・自然
湖や川の逆流した淀みは、先住民が総称してカマロトと呼ぶ無数の水百合に覆われ、森林地帯の水溜まりでは、ヴィクトリア・レヒアが巨大な葉っぱで水を覆っている。 全ての樹林にはオレンジとレモンがスウィ-ト・ライムと共に自然のままに成熟し、壮大な藪を形成している。

個々の農園や果樹園には、オレンジの森があり、その木陰の下で、私はしばしば野営した。 だから、オレンジの花の香りは、濃密な原始林や沈黙した平原や静かな先住民たちや、ワニたちが寝そべる誰も足を踏み入れたことのない水路を、いつも思い出させるのだ。

東北地域の教化村領地を貫く、ムバラカユ連山を除いては、それ程の高さを持った山々はなく、その地方の中部を通ってパラナ川とウルグアイ川が走っており、後者は東南の境界を形成している。


ジェルバ・マテ(パラグアイ茶)の葉っぱ
イエズス会士が教化村に植えることになるイレックス・パラグエンシスの種を手に入れたのが、それらの山々である。 潰(つぶ)されてきめ細かい粉となる葉っぱは、スペイン人によってジェルバ・マテと呼ばれ、また先住民からキャドと呼ばれるパラグアイ茶となり、イエズス会士はそれからかなりの収入を引き出したのだ。 イエズス会追放の後、その木が野生のものになってしまった北部の森から、パラグアイは2~3年前まで全てのジェルバを収穫していた。


ゆるやかな起伏の平原と森林はエステロスと呼ばれる壮大な沼沢地に変わる。 それは、いくつかの地域では広大な地域を覆って、冬には殆ど侵入不可能な沼地となり、春や初夏には素晴らしい牧草地となる。 地域を通じて、樹木の生い茂った北部の山岳地方を除いては、気候は健康的である。


ここにもまた、イエズス会嫌悪の種が
この豊かな地域と鉱山についての虚偽の報告は、不成功に終わった探検でさえ一掃することは出来なかったのだから、イエズス会士が何処においても嫌われたことは、極めて当然のことであった。(探検が中途半端に終わったために、イエズス会が鉱山を持っているという噂が否定されず、彼らに対する反感が消えなかった。)


先住民狩りの禁止は多くのスペイン人植民者にとって我慢ならないこと
ドミンゴ・デ・ベタンソスとドミンゴ・デ・ミナヤの二人の修道会司祭の求めに応じたパウロ3世の教皇教書によって、先住民はサンタ・マルタの司教フアン・オルティスが望んだような無分別な存在としてでなく、理性的な人間として、初めて考えられるようになったとされている。

それは、複合社会にとっては面倒なことであったに違いない。 パラグアイのスペイン人居留地のより大きな部分がそうであったように、先住民はまず冒険者たちのものであったし、彼らは先住民を獣とみなしていたのだから、その自分たちを超える力で、壮大な自然という障害も無いのに、遥か遠隔地の先住民狩りが禁止されるなどということは、我慢ならないことであったに違いないのだ。


スペイン人入植者の悪質さ
イエズス会の偉大なる敵対者イバニェスは、ヨーロッパ人犯罪者と教化村の反抗的な先住民がスペイン人居留地に、最後の手段として送られた、と言っている。(スペイン人居留地は、手に負えないヨーロッパ人犯罪者と反抗的な先住民を最後に投げ込む場所だった、という意味か。)


ブエノス・アイレス司教の言葉
シャルルボア神父が保管していた、ドン・ペドロ・ファリサルド(ブエノス・アイレス司教)の好奇心をそそる書簡(1721年、スペイン王に宛てて書かれたもの)を思い出すと、驚くことではないのだ。というのは、そこに彼は「教化村では、1年に1つの大罪も犯されることがない、と思う。」と書いているのだ。彼は、さらに「もし、イエズス会がそれ程豊かなら、なぜ彼らのコレジオはそれ程、貧しいのだろう。」と付け加えている。


様々な人の語る印象
フランス人植物学者ボンプランは、その地方について語るとき、「その土地全体が、言葉で表現できるものを超えており、全ての段階で、人は自然史において役に立つ新しい事柄に出会う。」と言っている。

フランス人旅行者デメルセイとドルビグニ(グラティの大佐)の『パラグアイ共和国』(1862年グラッセル発刊)という興味深い作品は、この国について書かれた最良のもののひとつであるが、最近のフランス人探検家ブルゲイドゥ・ラ・ダルディ、そしてパラグアイの教化村をかつて訪れたことがある人々全ての意見もまた、そのようなものである。


30カ村は一つの計画に基いたものだった
イエズス会教化村30カ村のうち、8カ村だけがパラグアイにあったこと、そして残りは、今日のブラジルとアルゼンチンの、エントレリオスとコリエンテスとミシオネスの地方にあったことは、記憶されるべきことである。これらの肥沃な平原に、イエズス会士たちは、際限のない問題の後、充分な数の先住民を結び付け、彼らを村に統合したが、その殆ど全てはひとつの計画に基いて建てられたものである。


突如、森に姿を消した人々と行動を共にした神父
彼らは集められた後、時には、トバティネス族のように突然全員が逃亡してしまうことがあった。彼らは1740年、突如サンタ・フェ教化村を去った。そして、イエグロス神父が彼らを見つけるまで、11年の間、森の中に姿を消した。そして、彼らが戻ろうとしないため、神父は彼らの中に定住した。(クレティノオ・ジオリイ『イエズス会の歴史』より)


教化村を再現してみると
教化村跡は、パラグアイ自体の中には、僅か3または4カ村のものが残るだけである。しかし、とても良く保存されているので、同時代の記録の助けを借りれば、イエズス会統治の間に、教化村がそうであったに違いないものと殆ど同様なものを再構築することは容易である。

四角い広場を囲んで建てられた教会と倉庫が一角を占め、日干しレンガまたは編んだサトウキビで、3軒の長い差し掛け小屋(三軒長屋)に造られた先住民の住居が三方を占めている。一般に、家々はサンタ・シモニアンの兵舎またはランカシャ-の鉱夫の街のように非常に長いものである。そして、個々の世帯は自分のアパ-トを持つが、それは「仕切り壁」と呼ばれる小幅の石膏壁によって隣のアパ-トと隔てられているだけのものだ。一つの縁と一つの屋根を100またはそれ以上の世帯が共有したのだ。

四角い広場の中心の空間には、見事な芝が敷き詰められ、その芝は飼われた羊によって食われて、短く保たれているのであった。

全ての町が、直線状の街路で形成されている。先住民の家は、ある町では正方形の石で、他では材木や石で作られ、全て瓦で覆われ、そして全ての家に石または木の柱が付いたアーケ-ドまたは廊下があった。


教化村の教会
教会は、時には石で、また時には、その地方に豊富にある堅い木で建てられ、イエズス会の町が外の世界から遠く隔たっていたことを考えると、どのように描写されても、実際はそれより素晴らしいものであったろう。例えば、ロス・アポストレスの教化村では、教会は3つの通路を持っており、非常に高い塔、祭壇、特別祭壇、そして高い費用をかけてイタリアやスペインから運ばれて来た彫像で飾られていた。

1750年の「7カ村の戦い」に従軍した騎兵連帯の隊長であったドン・フランシスコ・グラエルは、サン・ミゲル教化村の教会について、次のように描写している。
「教会は非常に広く、全て切り石造りで、三つの外陣とドーム付きである。きれいに塗装され、ドームは木製であり、主祭壇は木彫りで、金箔は被されておらず、遺体はない。(当時、ヨーロッパでは教会に遺体を安置するスペ-スが通常あったのだろう。)」

教会はしばしば石造りであったが、先住民の家は普通石造りではなかった。しかし、サン・ボルハ村のように、石が豊富にある場合には、イエズス会の家々は、柱に支えられたベランダ付きで、彫刻された石の手摺り欄干が付いた階段のある、石造り建築のものであった。―彫刻された石の柱や手摺りや階段付きの廊下(ドン・フランシスコ・グラエル)

カルディエル神父『真実の言明』によれば
全ての村には日時計があった。カルディエル神父の1750年パラグアイ教化村でのこの報告『真実の言明』(これは1800年まで刊行されなかったが)は、おそらくルイス・モントヤ神父の『精神的征服』以降のパラグアイにおけるイエズス会政策についての最も強力な同時代の弁明である。それは、強力にしかし素朴に書かれており、世界の始まり以来、愚かな者たちにとっては障害物であったユーモアの長所を保つものをそこに含んでいる。


司祭館とイエズス会住居のある内町
司祭館の一般的な平面図は、スペイン・ムーア風住居のそれであり、その詳細において、ポムペイまたはヘラクラネウムのローマ風の家に似ていた。四角い中庭の周りに建てられ、中心には泉があり、イエズス会住居は、少なくとも一種の内町の一部を形成していた。その内町は壁に囲まれ、その中でボーイ小屋によって閉じられる門が外側の世界に通じているのである。

壁の内側には、教会があり、広場に向かって入口、下級司祭の部屋、庭、客間、倉庫があり、そこには村に属する武器、トウモロコシ、小麦粉、羊毛と、遠隔のしかも危険な場所での生活に必要な食糧が保管されていた。

全ての場合に、家々は平屋で、家具は控えめで一般的に自家製であった。全ての部屋に彫像や宗教画が飾られ、宗教画はしばしば先住民自身によって描かれたものだった。比較的小さな村では、二人のイエズス会士が全先住民を統率した。

サン・ミゲルの教化村には、1,353世帯6,635人が、サン・フランシスコ・デ・ボルハには650世帯2,793人が居住していた。マヌエル・ケリ-ニによる国王への報告(1750年8月1日、トゥクマン・デ・コルドバ)


最大の困難は先住民の生来の怠惰
イエズス会士達が直面せねばならなかった最大の困難は新改宗者(先住民)たちの生来の怠惰であった。あらゆる種類の規則的な仕事に、彼らは極めて不慣れであったから、スペイン人居留地で実践されるような通常のヨーロッパ的仕組みは、直ぐに彼らを絶望するはめに陥らせ、しばしば数百人を皆殺しにした。


農業と公共事業の原始共産制の導入
それ故、イエズス会士たちは、農業と公共事業の原始共産制を制度化し、それによって、彼らの名前はアメリカ大陸において永遠に忘れられないものとなるのである。


ボリビア領内(チキ-トスとモホスの教化村)
彼らの広大な教化村の中で、チキ-トスとモホスの地方(現在のボリビア領内)で、彼らは同様の仕組みを推し進めた。パラグアイにおけるよりもそれらの地方では、彼らは遥かにより孤立化していたので、そして結果的に、より干渉されなかったために、彼らの特有な仕組みが最も花開いたのは、その地方だったのである。

1767年、イエズス会がアメリカ大陸から追放された後、ペル-高原のスペイン人たち、後のボリビア人たちは、イエズス会の計画に総合的に従ってみようと考えた。一方、ブエノス・アイレスの総督であったブカレリは、パラグアイのイエズス会による統治方法を完全に変更した。

結果として、ボリビアでは先住民はパラグアイでしたように離散する代わりに教化村に残った。そして、ドルビグニは、チキ-ト地方のサンティアゴとエル・サント・コラソンの教化村でイエズス会国家の残存を見た。教化村は、チキ-トには10カ村、モホには15カ村あった。現時点では、ボリビアにはフランシスコ会がいくつかの小さな施設を持っている。


イエズス会士は「狡猾な悪漢」
パラグアイの独裁者として有名なドクトル・フランシアは、かつてイエズス会士たちを「狡猾な悪漢」と呼んでいた。そして、彼は確かに彼自身があらゆる面での悪漢ぶりに精通していたのだから、おそらく彼の評価は彼自身の観点からは正当なものではあろう。
狡猾な悪漢;非常に抜け目なくずる賢い人(ロバ-トソン「パラグアイからの手紙」より)


「狡猾な悪漢」でないにしても、少なくとも人間性についてのかなりの知識は必要
政治における悪漢というのは、自分と意見が合わない者という意味に過ぎない。しかし、たとえそうだとしても、満足感というものの性質からして、どんな種類の労働にも精通していない者に日常的な仕事を提示するためには、人間についてのかなりの知識が必要だったようだ。

困難は膨大であった、が、それは先住民が原始的な呪いに支配されていたからではなく、自分たちの必要性に充分なだけ、たまに耕作して、放浪しながら生活するからであった。


自分がうぬぼれていることを知らないことも必要だが、少なくとも悲惨は拡大しなかった
イエズス会士、ジャンセニスト、プロテスタント、カトリックや回教徒などの宣教師が、自分自身の生き方や信仰を、指導者の誰よりも幸福で自由な生活を送っている者に対し、提供することが出来るかどうかは、議論の余地のある問題である。未来のみが、その問題を解決することができ、今日我々がすることについて判断できるのである。疑いもなく、善意が必要であっただろう。しかし、また自分のうぬぼれについての生まれつきの無知も必要だった、のではないだろうか。

世界の悲惨の多くは、善意によって引き起こされたものだ。しかし、少なくともイエズス会士については、彼らがパラグアイでしたことは、彼らが関わった部族の死や消滅を広げはしなかった、とは言い得る。


人類史上最も不幸だった筈の彼らが祈りと労働とともに生活した
歴史家アントニオ・フェレル・デル・リオは、「カルロス3世に関する期待の論文集」において次のように述べている。
「特に、パラグアイでのイエズス会教化村群を除いては、先住民というものは、世界史上の人類のうち最も不幸であったと考えられる。」

ホルヘ・フアンとアントニオ・デ・ウジョアは、著名な『秘密報告』の中で、語っている。
「イエズス会は、特にスペインから運んだ宣教師たちによって、彼らの目標に取り組んだ、しかし、その全てによっても、先住民の改宗を忘れていないし、また他の修道会では試みられないことであり、またほんの僅かしか前進しないにしても、この件をなおざりにしていない。」

農作業にについて、イエズス会士は、新改宗者たちを音楽で統率しさえした。そして、畑へ向かう行進の際に、高く掲げた聖人とともに、毎日、日の出と共に共同体はその行動をとる。軌道に沿って、決められた間隔で、聖人の廟(びょう)がある。それらの前で彼らは祈り、個々の廟の間では、聖歌を唄う。


グアラニ族は音楽好き
アサラ、デメルセイ、ドゥ・グラティ、ドルビグニのような多くの旅人たちは、如何にグアラニ族が音楽好きであったか、そして如何にすぐに彼らがヨーロッパの楽器の使い方を習得したか、を述べている。

ドルビグニは、チキ-トス地方のエル・サントス・コラソン教化村についての興味深い解説の中で、次のように述べている。「私は、演奏を聴いて驚いた。先住民のダンスの後のロッシ-ニやウェーバ-の作品、音楽で歌われる主要なミサは、非常に素晴らしく演奏されている。」

ヴァルガス・マチュカは、彼の最も興味深く珍しい『先住民の軍隊と表現』の中で、「先住民の音楽」の標題で、「彼らは、彼らの祭りの中の古い音楽を使い、その節は非常に悲しいものだ。」と述べている。今日、パラグアイの先住民には、「悲しみ」として知られる歌がある。

ドン・ディエゴ・デ・アルベアル准将は、彼の『教化村報告』の中で、「グアラニ族に、ヨーロッパ音楽を最初に教えたのは、フランドル人イエズス会士フアン・バスコ神父であり、彼はアルバ-ト大公の音楽教師だった。」と述べている。

聖歌を唱い続ける毎日
行列が進むと、先住民の集団は様々な集団で働くために脱けて行くから、それは次第に小さくなり、最後は司祭と侍者だけが、楽師と共に戻ってくる。

カルディエル神父の『真実の言明』によると、「それが終わると、皆が出席するミサの番である。聖歌を、自分たちの言葉か、スペイン語で唱うが、それらは彼らが知っている二つの言語なのだ。」

昼には食べる前に、彼らは皆一緒になって聖歌を唱う、そしてそれから食事と昼寝の後、日没までの仕事に戻る。日没になると、行列が再び編成され、労働者たちは歌いながら彼らの住居に戻って行く。

半理想郷的・半共産主義的労働
楽しく「理想郷」風の、より北方の国での「骨折って働く」労働者の仕組みと違う耕作。しかし、その頃でさえ、歌っているだけの「聖歌の日」が決められているわけではなかった。なぜなら、短い休息の後、彼らは皆教会へ行って、ロザリオの祈りを唱え、それから夕食を取り就寝するのだった。雨の日には、彼らは同様の半理想郷的、半共産主義的な仕方で、他の労働にいそしみ、畑での代わりに教会で聖歌を唱うだけのことである。

エンコミエンダやミタの強制労働とも違うので
仕組みは、スペイン人居留地でエンコミエンダ制やミタ労役の下で先住民が耐えさせられていたものとは、大いに違うものだったから、その事実だけでもイエズス会が被った憎悪の多くを説明するに充分である。

南アフリカ・ローデシアの共同体でも計画発案者に中傷が
ロ-デシア国境に近接した半共産主義的な入植地を想像せよ。そこでは、カフィル人が共同体によって世話され養われて、教化村の先住民が送っていたものと類似した生活を送っていた。彼らの生活は極めて細部の特殊性の全てにまで配慮され、その結果、どんな中傷の嵐が、その計画の不運な発案者の上に降り注ぐことになったか。

先住民のスペイン人入植地からの引き揚げ・スペイン人からの分離に対するスペイン人の抵抗
第一に、労働市場からの数千人の先住民の引き揚げが、全ての進展に逆行する罪になったであろう。そして、彼らを手厚く処遇することは異端である、ということになったであろう。また、スペイン人入植地でヨーロッパの屑(くず)である人々の汚染から彼らを引き離すことは、不自然だとされたであろう。なぜなら、先住民は、我々(ヨーロッパ人)の中で最も教育し甲斐のない人々と自由競争すれば(勝利して)最大の利益を引き出すことを我々には分かっているからである。しかし、農業以外に、教化村領地内の巨大な畜牛農場が、新改宗者先住民の多くに仕事を与えたのだ。

ディ-ン・フュネスは、『パラグアイ史随筆』等に、パラグアイ教化村群の中のサンタ・テクラ農場には、5万頭の牛がいた、と書いている。

ガウチョに似てきた先住民牛飼い
畜牛農場での生活によって、管理すべき範囲は狭くなったし、牛飼いたちはガウチョ(パンパ平原のカウボ-イ)に似てきた。しかし、宗教的修養を身に付けたガウチョは原野では半分ケンタウロス(半人半馬の怪獣)であって、半野性の子馬は彼の一部分であるかのように飛びかかって彼らに座るのだ。そして、家で足で歩いているときには、イエズス会士に従順であり、常に教会へ行き、彼らの子孫が教化村の統治の撤退後に、すぐにそうなった程には、残虐でも血に飢えてもいなかった。



農業と牧場の生活と同様に、イエズス会士たちは先住民の間にヨ-ロッパの芸術と商売の大部分を導入した。

財産目録によって分かること
イエズス会追放時に、ブエノス・アイレス総督ブカレリが入手した財産目録によって、彼らが綿を大規模に織っていたことが分かる。時には、一つの村で2~3か月間に8,500ヤードもの布を生産していた。

『イエズス会追放時に発見された財産目録』序論XXVII,フランシスコ・ハビエル・ブラボ

・機織(はたおり)に加え、皮なめし工場、大工道具屋、仕立て屋、帽子メーカ-、たる製造業者、縄類製造業者、船大工、車大工、建具屋、その他生活に役立ち必要なもの殆ど全ての製造業者がいた。
・彼らはまた、武器・火薬・楽器を作り、銀細工師、音楽家、塗装屋、もいた。

また、印刷機を使う印刷屋がいた。というのは、教化村では多くの本が印刷されていたし、ヨーロッパの修道院の修道士たちによってなされたように、立派な手書き写本が生産されていたのだ。

稀少価値のある本が印刷された
先ず、パラグアイの教化村に貢献したイエズス会の神父たちのための手引書がある。
これは、『ローマ・カトリック教会典礼』からトレドにて選択され、ロレト教化村にて印刷されたもの。
これには、ラテン語の祈りと同時に、グアラニ語での祈りが含まれている。

ロレト教化村では、他に、ニコラス・ヤプグアイによるグアラニ語による説教とグアラニ語の多くの語彙と、ルイス・モントヤのグアラニ語文法に関するものなど稀少な本が印刷された。


教化村の半共産主義
全ての農園、農地と作業場はいわば共同体の財産であった。つまり共同体が、共同でそれらを運営し、生産物によって養われ、維持された。全体が、各村に住む2人のイエズス会士の指示の下にあった。
グアラニ語でトゥピナムバルと呼ばれる部分は、孤児と未亡人の生活維持のため取っておかれた。
牛と馬は(村祭りの見世物のために使われることになっている「祝日のための馬」を例外として)、共同で使用された。

資本の余剰は、ブエノス・アイレスから、またスペインから必要物資を購入するために留保され、個々の世帯は、良好に運営されている間は、その維持のために必要なものを在庫から受け取った。なぜなら、イエズス会は、もし人が働かないならば、その時彼は食うべきでない、というパウロの格言をそっくりそのまま支持したからである。しかし、彼らは、それを支持したので、彼ら自身もそれを充分に実践した。それ故、彼らの人生は、最も骨の折れるものとなり、教え、説教をし、先住民に対する彼らの労働における監督者として、教化村への到着の最初の瞬間から死に至るまで継続的に活動した。

それ故、もし首長が誰かについて、仕事における職務怠慢を訴えれば、彼は改善するまで全く割り当てを受け取ることが出来なかった。


週一度だけの食糧支給
与えられたものは何でも直ぐに消費してしまい、後で断食に走る傾向のあった先住民に、節約の習慣を植え付けるために、彼らには週一度だけ食糧を支給した。

そして、彼らの雄牛を殺すときは、1週間ずっと持ちこたえるように、一定量の牛肉を干し肉にするよう先住民に強制した。この干し牛肉は、南米ではチャルキと呼ばれている。

野菜
野菜は、個々の世帯が、彼らの庭と共有の畑の両方に植える義務を負った。そして、実のところ、消費されないものは全て、共同作業所の働き手に分配するか、販売のために保管された。

生産物は共有
先住民のある者は、自分自身の牛や馬を所有し、彼らが働く庭を持っていた。しかし、生産物は全て共有の物資として、イエズス会士に引き渡すことが義務とされた。そして、それらと交換にイエズス会士は、ナイフ、はさみ、布、鏡など、外の世界で作られた他の物品を与えた。

男女の服装・装身具
衣服は、全ての住民に支給されたが、男については、それはズボン、きめの粗いポンチョ、麦わら帽子とシャツで構成されている。しかし、男も女も靴は履いていなかった。そして、女性の服装は、グアラニ族のティポイという丈の長い袖なしのスリップであり、それは肩回りに粗い刺繍が付いていて、粗い木綿の布でできている。パラグアイでは、貧しい階級の人々は皆、ティポイを着ていた。彼らは、寒い時は、白い綿のシーツを何重にも重ねて巻いて、身体を覆っていた。

装身具としては、彼らは銀の輪が付いたガラス・ビ-ズと真鍮または銀のロザリオ、そして、ガラス又は角製のネックレスで、それから十字架が吊るされているものである。


イエズス会士の服装は贅沢なものだったか
イエズス会士自身は、手織りの服を着ていた。
1900年、ブエノス・アイレス発刊のカルディエル神父の『真実の言明』の前書きに引用されていることだが(前書きはパブロ・エルナンデス神父によるもの)、マティアス・アングルスは、次のように述べている。

「神父達の衣装は、黒く染められた綿布で出来ており、これは村の先住民自身により紡がれ、織られたものだ。もし、神父がカスティ-リャ製の毛織物の袖付きマントまたは長マントを持っていれば、それは一人、二人と引き継がれ、丸々1世紀はもつものである。」

それ故、食物と衣服はイエズス会士や共同体には、殆ど負担にならなかったのだ。一方、先住民の最大のぜいたくは、マテ茶だった。それを生産するために、彼らは野良仕事をするのと同じように、マテ茶畑で働いた。集団で、行列になって、聖歌の声にあわせて、司祭を先頭にして。


イエズス会士の統制の半原始共産制的性格は反感を受けているが
これが、そのときのイエズス会士が、如何なる強制力も行使せずに成功するための手法だった。先住民の群れの中で、グアラニ族の人々を苦役の束縛に耐えさせようとしても、殆ど途方に暮れる他はなく、彼らの場合それは不可能だったのだから。

彼らの統制の半原始共産制的性格は、自由主義者の反感の原因となっている。というのは、自由主義者たちは、18世紀スペインの博物学者フェリックス・アサラのように、競争の中に進歩への最良の道を見ているのである。しかし自由主義者は、アサラ同様、進歩を渇望するあまりに、幸福(の追求)を忘れているのだ。


宗教的祝祭の活用
既に描いたような方法に加え、イエズス会士たちは、「頻繁な宗教的祝祭」を活用した。というのは、暦は、彼らに全面的な能力を与えたのだ。そのため、イエズス会教化村での生活は、非常に多様化し、先住民にとって楽しいものとなった。先住民は、表現に対する強い愛着を持っていたのだ。


「守護聖人の祝日」の様子
各教化村には、もちろん、それぞれの守護の聖人がいた。そして、その聖人の日には、誰も働かず、全てが喜びにあふれ、ひたすら浮かれ騒いだ。

夜明けには、打ち上げ花火や、小火器が発射され、鐘の響きが楽しい朝を告げる。住民全員が早朝のミサに与るために、教会に集まる。

1788年から1801年の間に書かれた『天使たちの集まり』に収められたブリガディエル・ドン・ディエゴ・デ・アルベアルの『教化村報告』には、イエズス会教化村の守護聖人の祝日についての次のような興味深い描写がある。

彼らは織り合わせた籐(トウ)の長い小道を作る。そのアーチは、気品と風味で(大いなる優美さと均整で)、ヤシやその他の木の枝で飾られている。
ア-チの下には、聖人の像や衣服や初物(トウモロコシやサトウキビのような)やトウモロコシ・ビール(チチャ)で一杯のひょうたん、肉やパン、生きているのと死んでいる動物など、彼らが手に入れることが出来るものを吊るしてある。(それは、彼らの熱中ぶりを示すようだ。)
それから、輪になって踊り、叫ぶ。「王様、ばんざい!」「守護聖人、ばんざい!」

教会の内部に席を見つけられなかった者は、扉の外に長い列を作って並び、扉は式の間、開けられてあった。
ミサが終わると、儀式(祭典)での自分の役割の準備をするために、各自が駆け出した。
イエズス会士たちは、役目や仕事を増やすことによって、他の者たちがすること全てにおいて明確な分担を持たないために放置される者が無いように、既に配慮してあった。


公務員の名称
数が多く、そして興味深いのは、公務員が名乗った名称である。全ての官職は、それをめぐって激しく争われる。そして、コレヒド-ル(王室代理菅)とアルカルデ(市長・村長などの首長)は、特に、非常に高く評価されたから、品行の悪さや不注意によって降格させられた先住民は、悲嘆して死んで行くことになる。

最も低い地位にも、最も高い地位にも、それぞれの役割があった。そして、最も重い負担は疑いもなく、二人のイエズス会士が担った。彼らは全てに責任を負っていたのだ。(各教化村には2名の司祭がいた。パラグアイ全体では、1767年のイエズス会追放時にいたのは、僅かに78名である。)

第一の任務は行列に行進の準備につかせることであり、祝祭のために特に保管されていた豪華な衣装を身に着けた先住民が乗る「聖人の馬」を護衛任務に就かせるべく、鞍を付けることである。(ブラボ神父によって保管された財産目録によれば、ロス・アポストレス教化村には、これら「聖人の馬」は599頭いた。)


「守護聖人の祝日」の行列の様子
ロス・アポストレス教化村の財産目録によって、やや正確を期した試みをしてみると、行列が如何に形成されたか、それが如何に行われたかを再現することが出来る。この財産目録は、追放の際に、ブカレリ(ブエノス・アイレス総督)が入手し、ブラボ神父によって初めて印刷されたものである。(イエズス会追放の際、発見された財産目録)

村の全市民軍は、彼らの最上の馬に乗って、そして槍と投げ縄と球といくらかの銃で武装して、付き添った。
先住民の将校たちは、先頭に乗り、豪華な衣装を身に着け、舞踊団は決められた間隔で、騎兵隊の中で、一種のピリック(古代ギリシャ風)ダンスを演じた。

先住民の舞踊について
イエズス会士は、先住民の未開な段階での舞踊に対する強い愛着を活用して、舞踊で大いに訓練した。
ドルビグニとデメルセイは、1830年から1855年の間に、モホとチキ-トスの先住民が、イエズス会時代に彼らがしていたような踊りを、未だに踊っているのを見出した。

私は、1873年、パラナ川の河岸の巨大な森林に埋もれたイエズス会教化村の廃墟となった教会の外で、先住民が奇妙な半分未開人のようなダンスを踊っているのを見たことがある。

「聖人の馬」に乗った「国王旗手」
皆の前に、金で豪華に縁取った青いビロ-ドのダブレットを着た「国王旗手」が白馬に乗り、錦織りのベストを着て、銀のひもでとめた短いビロ-ドの半ズボンをはいて、足には銀の締め金で飾られた靴を履き、そして全体の装いは、金の縁取りをした帽子で完成させていた。

彼の右手は、銀の取っ手につながる長い籐製の杖にしっかり固定された王旗を掲げていた。
この様な場合にだけ彼は剣を付けることが出来たのであろうが、それは彼の脇にあった。
そして、「聖人の馬」は、エントレ・リオスとコリエンテスの大草原の大部分の馬ほどには扱いにくかったわけではなくても、「国王旗手」を相当にまごつかせたに違いない。


オウムのような「気取り屋」たちの行列
彼の後は、黄色のサテンの服で盛装し、絹のベストに金バッジを付けた王室代理菅(代官)であった。
黄色のビロ-ドの半ズボンをはき、彼の大胆な同志のものと同程度の豪華さの帽子をかぶっていた。

2人の首長は、それ程目立つ服装はしておらず、藁色の絹の上着と、同じ色のサテンのベストを身に付け、帽子は金色である。他の役人たち、警察署長、歩兵連隊長、そして上級曹長は、銀色のレースで縁取りした深紅色のダマスク織ベストを着て、緋色のコートで華やかに装い、重いレースで飾った黒い帽子を被っていた。

パラグアイの輝く日光の中で原始林を背景として、またはパラナ川の傍らの広大な原野の中のいくつかの教化村で近隣の森林から飛翔するオウムのように、彼らは豪華に見えたに違いない。また、彼らは、燃えるような色彩と共に練り歩き、あたかも虹が彼らに、また彼らの跡取り息子たちに溶け込んだように、華美な服装にまさに自己満足して、ターナ-効果を生んでいたに違いない。

極めて可能性の高いことは、彼らの広く平らな鼻、長く真っ直ぐな髪、彼らの硬直した顔はあたかもダチョウに刻み込まれたように、固く固定していただろう。それは、彼らの華やかな服装とは奇妙にも対照的だった。

しかしながら、判断する余地はなく意見を言う者もいなかった。最も有り得ることは、皆が良心と優しい心を持っていて、彼らの最も手厳しい敵でも、イエズス会士の話を人間性の評価で罪に問うことは無かった、ということだ。

30カ村の在庫目録の中に、「王国旗手」の付けた靴下とバックルを例外とすると、先住民のための靴下や靴の記載を見ていない。豪華な衣装は膝までで終わり、これらのオウムのような「気取り屋」たちは、裸足で、おそらくは足首の周りにロバ皮の靴紐で固定した長い鉄のガウチョの拍車を付けて、乗馬したのだろう。

子供と猛獣
オウムの衣装の年長者たちの行列に満足せず、「幼児の参事会員」には「もじりのもじり」があったのだろう。それは、子供の集団で出来ており、年長者と同じ標題が付けられ、彼らにサイズを合わせた衣服を着て、彼らのすぐ後に続いて乗馬したのだ。最後に、シャルルボアが語っているように、ライオンと虎が、しかし祝宴を邪魔することが無いように、しっかり鎖に繋がれて行き、行列の全体は聖堂に向かった。


教会堂の中で
教会には全て、ビロ-ドと錦織りの布が掛けられ、光り輝いていた。そして、香の煙(間違いなく必要な)が一般会衆席を覆い隠していた。左右の聖歌隊席(それは、スペインで普通であるように、聖堂の中央であるが)には、若手の先住民が皆、列になって座り、少年少女達は分かれていたが、それは全てのイエズス会教化村での習慣であり、疑いもなく、イエズス会士たちは「聖なる女性と男性の間には、堅牢な壁がある。」と述べることの妥当性を確信していたのだ。

何らかの官職を持ち、私が描いた衣服を着た先住民は、並んで腰かけるか跪(ひざまず)いていた。そして外では、町の人々が白い綿の服を着て立っていた。彼らのシンプルな衣服は、正面に跪いている、もっと多彩な色の服を着た信者仲間に対して、疑いもなく効果的な背景となっていた。

教会全体を通じて、男性と女性は別れていた。そして、もしパウリスタ侵入の噂が取り沙汰されれば、先住民は聖なる建物の中に、そして荘厳な祝宴に武器を運び入れた。

ミサは、オーボエ、ファゴット、リュ-ト、ハープ、コルネット、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラとその他の30カ村の財産目録が示している全ての楽器勢揃いの楽団付きで行われた。実際、財産目録のうち2つに「サンチアゴ」というオペラ名が述べられており、そこには、舞台で使われる特別な衣装と小道具が記載されていた。

ミサが終わり、行列は教会の外で再編成され、もう一度町中を練り歩いた後、解散した。それから、先住民は夜を徹して祝い、夜明けまで踊ることも稀ではなかった。

それが、素朴な人々にイエズス会士が与えようとした、目に見える芸術であり、先住民に対しイエズス会士は、牧者や教師として両方を兼ねるだけの立場のみならず、一面でパウリスタから、また一方でスペイン人入植者からの保護者の立場に立っていたのである。スペイン人入植者が、エンコミエンダ制(という実質奴隷制)と、ヨーロッパの人と人との間の自由競争システムをもたらし、おそらくは知らぬ間に、全先住民にとって最も恐ろしい敵になっていたからである。


一旦失われた美徳を回復することは難しい
殆ど全ての未開の人々の心の中には、グアラニ族のように、連帯感や相互の密接な関係が植え付けられているのだが、それらは、我々ヨーロッパ人の近代的な流儀に従った、なりふり構わぬ競争によって一旦衰えると、必ず衰退に至ってしまうのだ。

それゆえに、カリフォルニアやオーストラリアで、中国人に対する激しい嫌悪が発生したのだ。もちろん、当然の事に、我々が嫌う人そしてある程度恐れる人を、我々は非難する。そして、これによって「東洋の悪徳」というものに対する全ての非難が引き起こされた。如何なる「東洋の悪徳」も、それが如何に邪悪なことであろうと、パリやロンドンの市民のそれと同様であるはずであるのに。それは、野蛮さ及び同種のことについてであったが、全く抑制されることなく、不運な中国人に向けられた。


安売りしないことが誇り
パラグアイで最も目立つことは、国内市場において人々が決して安売りをしないことである。彼らが妥当と考える価格よりわずかに安く商品を手放すことさえ、拒否するのである。

(1898年11月 月刊コスメ)パラグアイの小新聞の興味深い一節
『パラグアイ市場』
グアラニ族はグアラニの習慣を頑固に守っている。これは、ヨ-ロッパ人にとってはいら立つことであるが、グアラニ族は正しくないと誰が言えるだろうか?

自由である故に貧しい人々と賢明なイエズス会士だからこそ
ヨ-ロッパによる植民地化は、グアラニ族にとって、致命的なもの以外ではありえなかった。しかしながら、地主や商人階級にとっては、利益となったようである。

パラグアイ市場は、女性のクラブである。彼らは30~40マイル(50~60キロ)を地方の白クルド・チ-ズの服を着て、狭い道を歩いて満足そうにやって来る。彼らは、キャベツを16等分し、チ-ズは市場価格で売るよりは自分で食べてしまう。長い間、そうしてきたのだろう。なぜなら、長い間彼らは自由だったからであり、おそらくは貧しかった。そのころ、パラグアイのような国では、自由と貧しさは同じことだったのだ。

こういうことのようだ。イエズス会士は、新改宗者(先住民)に現世での戦いで自分たちの場所を獲得させるために、彼らにより充分な素養を身に付けさせようと考えた。彼らが送っていた素朴で幸福な人生は、外の世界の人生の一般的仕組に対し余りに反していたために、それを受容することや、我々の宇宙起源論の中に場所を見つけることが困難だったということだろう。

一つ、私が確かだと思うことは、自分の馬に乗って、まだらの服を着て、裸足で、金モ-ル飾りの帽子を被り、自分の影を薄くしてしまった貧しい先住民の「行列旗手」の罪のない歓喜が、あたかも彼がその時代の知識の全ての樹木の全ての果実を食べ尽くしたように完全であり、そして、そのくらいイエズス会士たちは賢明であった、ということである。

非常に奇妙なことに、しかし、それにしても何と奇妙にも、全ての危機は人間性の中に集結する。イエズス会士だけが(少なくともパラグアイでは)、アラブ人が太古の時代からそうであったように、「人の第一の義務は自分の人生を楽しむことである」ことを理解していたようだ。

芸術、科学、文学、夢など、人が専念する全ての楽しみには、あるべき場所がある。しかし、生活が第一である。そして、いくらか奇妙で不思議な方法で、イエズス会士はそれを感じたが、疑いもなく彼らは、無数の誓願によって、最もそれを否定する可能性のあった人たちである。


教化村の軍隊
イエズス会教化村では、全ての人が祝宴を催したり、行列をしたりしているわけではなかった。なぜなら、マメルコスのような隣人に彼らは備えていなければならなかったからだ。

ガウチョのことわざに、「武器は必要だが、何時だかは誰にも分からない。」とある。
統率の良し悪しに関する内部事情について言えば、個々の教化村には先住民の間からイエズス会士によって選ばれた役人による警察があった。

イエズス会に入る前に軍人だった司祭たち
同様に、内部の防衛のために市民軍を持っており、その中で様々な部族の首長が主要な指揮権を持っていた。おそらく、彼らの上または彼らの手近に、イエズス会に入る前に軍人であった司祭が配置されていた。なぜなら、イエズス会の中には、そのような者が数多くいたからである。彼ら自体の創設者が、かつて軍人であったから、会は、剣を十字架に持ち換えキリストの軍隊に仕えた軍人の間で人気があったのだ。

スペインの水兵の墓に、「海軍最高幹部キリストのとりなしにより、魂が救済されるように」との願望が刻まれていたのを憶えている。スペインの習慣に従って、将校はしばしば、海・陸の将官になった。それは、軍人が最高幹部のとりなし(つまり特別な処遇)から除外されないように、との願望が叶えられたということなのだろう。

教化村市民軍の組織
防衛上も政策上も首長を満足させていることは、最も重要であったから、彼らは多数の異なる点において、他の人々より良い処遇を受けていた。

彼らの食べ物はより豊富であった。そして、先住民の護衛は永続的な義務として、彼らの住んでいる家の周りに配置された。これらを、彼らは使用人としてまた伝達係として雇い、遠く離れた先住民仲間を畑に招集した。

彼らの組織の仕方は、ボーア人やアラブ人のそれのようであったに違いない。なぜなら、全ての先住民は会に所属したが、それは今も当時も戦場の移動ごとに、または訓練の期間に、英国の市民軍やドイツの義勇軍の方法に習って呼び集められたのだ。

教化村市民軍が何故存在したか
おそらく、常に戦場に備え武装した市民軍のこの制度は、他の全ての理由以上に、彼らを中傷する人々に、イエズス会士は恐れられ人気が無いと述べさせるものであった。何故、この聖職者の共同体が、その地域で軍隊を維持するのか、が問題になったのだ。

パウリスタの侵入・国王からの武器保有許可
もし、そうしなければ教化村は、パウリスタから彼らの境界線を守る力が無く、「たとえ1年といえども存在することは出来なかった」ということを誰も憶えていなかった。皆が、モントヤとデル・ターニョの両神父が、教化村の先住民が武器を保有するための特別許可を、国王から得ていたことを忘れた。

スペイン人入植地の防衛
人は無礼な取扱以外の事には何でも感謝するという訳ではないのだから、(人にしてもらったことを感謝しない人は珍しくはないのだから)、スペイン人入植者はイエズス会軍が何度彼らの窮地を救ったかを自分の都合で忘れたのである。

対ポルトガル戦でスペイン軍を支援
1678年、ラ・プラタ川上のサクラメント植民地での攻撃において、ポルトガル軍に抗するスペイン軍を支援するために、イエズス会の協力によって送られた3000人のグアラニ族のことは、すっかり忘れられている。

他の先住民に対するスペインの複数の戦いの支援
忘れ去られたのは、パヤグアス族というチャコ地方の先住民に抗するものだけでなく、現在のフフイ地方の遠隔のチャルカキス族に抗するものまで、スペイン総督の要請に応じてイエズス会によって送られた数限りない分遣隊も、である。

英国(海賊)のブエノス・アイレス沖出現に対しても出動
スペイン史では、ロケ・バルロケと呼ばれ、ある人によっては、平易にリチャ-ド・バルロウであるとして解説されている英国海賊がブエノス・アイレス沖に現われた時でさえ、ひるむことのない新改宗者(既にキリスト教に改宗した先住民)は、「ルタ-の犬」に対して、同一宗教信者を助けに行くことに、一瞬たりとも尻込みしなかった。

(「ルタ-の犬」:スペインで、如何に比較的無害なルタ-が、非人間的で冷酷なカルヴィンに向けた方がより適当であるはずの嫌悪という遺産を受け継いだか、には驚かされる。)


『随筆 パラグアイの歴史』等でディ-ン・フュネスが、以下を述べている。

「これらの先住民は、ドン・アントニオ・デ・ヴェラ・モヒカの指揮下にいた。彼らの軍曹たちはグアラニ族であり、隊長はスペイン人であった。彼らのカシケ(首長)はイグナシオ・アマンダアであるが、彼はヴェラ・モヒカの下の隊長であった。彼らは勇敢に戦い、幾度か撃退された後の度々の村襲撃に対し、戻って来て頑強な勇気と彼らの子孫が、1866~70年の対ブラジル戦争で見せた死への無頓着さを示した。

その戦争で多くのパラグアイ人は、大砲で防御された敵の陣地を頻繁に攻撃し、退却するよりはむしろ最後の一人まで撃ち殺されようとした。また、別の時には、浮かんでいる牧草の塊の後ろに隠れ、彼らのカヌ-からブラジルの装甲艦船に飛び乗り、船を捕らえようとの無駄な努力の中で、全員が殺された。」


私は、左翼の少し狡賢い(ずるがしこい)弁護士を知っていたが、彼は10人の仲間と共に、カヌ-でブラジルの将官艇を捕らえようとしたのだが、仲間が死んだ後、その甲板に残され、弾丸を浴びながら水に飛び込み、酷く傷ついて川の砂漠側のチャコまで泳ぎ渡った。

彼は、3日間そこに留まり、野生のオレンジで生きながらえ、それからパラグアイに沢山いるワニや多くの獰猛な魚にもかかわらず、木材のいかだで再び泳ぎ渡った。彼は、足は不自由であったが元気になり、私が彼を知った頃には、全くのちっぽけなごろつき公証人で、また地球のどこかで会ってみたくなるような奴だった。

他の多くの場合も、教化村の先住民は、スペイン政府のために顕著な働きをしていたのだ。

フランスのブエノス・アイレス攻撃に対し、国王の要請に応じスペインを支援
1681年、フランスがブエノス・アイレスを攻撃したときには。2000人の先住民派遣隊がその支援のために送られた。この時、フィリップ5世自身がパラグアイ管区長に、市の防衛のための軍隊を送るよう依頼するべく書き送っている。

1785年、ドン・バルタサル・ガルシアに指揮された4000人のグアラニ族がサクラメント居留地の第2次包囲に当たった。フュネスは彼らについて、「目撃者によれば、司祭たちの冷静さは驚嘆せざるを得ないものだった。」と語っている。

最後には、同時代と18世紀末両方の全てのスペイン人総督や筆者たちは、もしイエズス会が彼らの領地内に新改宗者の軍隊を持っていれば、事実はスペインの法廷で知られ、立証されたということを忘れているようだ。

1745年、フィリップ5世は、6年間継続した調査の後、パラグアイでのイエズス会の全ての活動を認めた。(クレティノウ・ジョリ著『イエズス会の歴史』)
従って、1774年に書かれたヒエロニムス修道会司祭の奇妙な手紙は、イエズス会士がパラグアイでなしたこと全てが、国王勅令や公示された命令手続に適っていると述べている点で、然るべく適正である。

しかし、カルヴィンは、彼の見解「イエズス会士は中傷された者か、殺人者であったに違いない」について、多くの支持者を持っていたようだ。

人は、一般的な正当性を堅持するならば、カルヴィンが、自身の実践において、彼が擁護したことを、例えば彼のセルベトゥスに対する振る舞い(セルベトゥスは、彼が最初に中傷しそれから罠に掛け、そして最後には冷酷にも殺した。)を実行したことを認めざるを得ないのだ。


イエズス会軍が戦闘を開始するときには、その前に食うべき充分な牛を走らせ、その側面に馬を付け、それは25年前、エントレ・リオ地方で私が見た多くのガウチョ軍に似ていたに違いない。唯一の違いは、過去のガウチョは、弓矢を使わなかったことのようだ。もっとも、彼らは、彼ら自身に相応の利益があり、彼らが携帯していた錆びた悪い状態の銃によって起こされるほどの危険が彼らの敵にはなかったために、そうしたようだが。



先住民は、弓で武装し、遠征には、先に鉄を付けた150本の矢を持って行った。他の者は火器であるが、全員が鞍に球を携行し、投げ縄と長槍を持って行った。パムパ平原の先住民のように、乗馬するときは、一方の手を縦髪に置き、もう一方の手を槍に置いて、鞍に跳び乗るのである。

ドン・フランシスコ・コルは、ブエノス・アイレスの副王サバラに次のような武器リストを送っている。(フュネス『随筆』等)
優れた武器850、鉄製槍3,850、投石器10、矢(無数)

彼は言う。「先住民は、軍事作戦に参加せねばならないときには、鉄の矢150を持って行く、がそれは火器より少ない。また、投石器を持って行くが、1本の縄に2つの石を付けたものだ。散弾銃を運ばない徒歩の者は、槍と矢と手投げ弾兵のもののような大きな袋の中に備えの石の付いた投石器を持っている。村々の間では、馬を貸し合う。」

歩兵は、槍と2~3の銃で武装した。彼らはまた球を運んだが、最も投石器を頼りにした。そのために、彼らは、なめらかで丸い予備の石を入れた獣の皮の袋を運び、それを巧みに使ったのだ。

多くの場合に、彼ら先住民軍は頑強な勇敢さを示し、イエズス会の監視の下戦ったから、司祭たちを神とみなし、男らしく行動したことは、間違いない。



教化村の商業活動
農業と畜産が教化村の収入源の全てではなかった。というのは、イエズス会士は、外の世界を相手に、また他の教化村との相互の便宜のために彼らが足を踏み入れた複雑で興味深い物々交換の仕組を通して、広く商業にも従事していたからだ。

帳簿から見る商業活動
ブラボ神父によって印刷された在庫台帳の多くで、様々な商品について、教化村の間の一種の貸借勘定(交互計算)を表わす「負債」の記載に出くわす。それ故、彼らは、牛と綿、砂糖と米、小麦と銑鉄またはヨーロッパからの道具を交換していたであろうことが推測できる。

どの在庫台帳にも利子勘定がいっさい現われていないことから、イエズス会士は社会主義を想定していたようである。少なくとも、彼らが利益のためでなく、使用のために売買をしていた限り、そう見えるのである。

彼らの領地内の教化村の間では、全ては相互の便宜のために取り決められ、外の世界との取引においては、イエズス会士は「取引原則」として知られているものを厳守したようだ。これらの原則は、もし私が間違っていないとすると、「最も安く買って、最も高く売る」という決まり文句」によって理想化されてきた。

そして、それ故に最も厳格なプロテスタントかジャンセニスト(そんな人たちが未だいるとすれば、だが)でさえ、世界全体を喜ばせてきたそのシステムに参加したからと言って、イエズス会を非難することは出来ないはずである。


マテの葉の取引
木綿や麻の布、たばこ、獣の皮、その国の様々な硬材の森林の樹木、そしてなかんずく、マテの葉は、外の世界への輸出の主要な商品であった。彼らの最も近い市場は、ブエノス・アイレスにあり、その港へ彼らの作業場で作ったボートで彼らのジェルバを送るが、その作業場のうちいくつかを、彼らはウルグアイ川ノヤペユに持っていた。

稼いだ金は、教化村の修道院長に送られ、修道院長は、村で使用するか、または必要な物資の調達のためにヨーロッパへ送るかの分配方法について処分権限を持っていた。

獣皮・馬毛・木材の輸出
マテの葉同様に、大量の獣皮を送った。追放の際に押収された教化村の在庫台帳によれば、年間に輸出される緑の獣皮の数は、保存される6,000とともに50,000に上り、加えて300から400アロ-バの馬毛を、また毎年25,000から30,000ドルの価値の木材を売っていた。(1アロ-バ=4トン)

(注)イバニェス『イエズス会統治下のパラグアイの歴史』によれば、獣皮は1点約3ドルで売れていた。

マテ葉の全輸出量は、80,000から100,000アロ-バの範囲にあり、それは最も低価格の場合も、1アロ-バ当たり7ドル以下の利益で売られることは、あり得なかった。(56万ドルから70万ドルの利益が上がっていた。)

従って、30カ村の収入は相当に大きかったに違いない。

(注)ディ-ン・フュネスは、『随筆 パラグアイ国内史』等の中で、それを百万リアルとしており、それは20,800ポンドに相当する。イバニェスは(『イエズス会共和国』の中で)大部分の論争的筆者が持つ非常に目立つ影響力を見事に無視して、これを百万ドルに改めているが、彼の目的は、イエズス会が新改宗者たちから法外な税金を取り立てて(利益をあげて)いることを証明することだった。


はちみつ・たばこの輸出
200から300樽のはちみつ、と約3,000から4,000アロバのたばこが、彼らの輸出全体額を作り上げたが、もし彼らが金を必要としないなら、そのような国で、またそれ程多くの、殆ど無期限に進んで働く人々がいれば、それは増加しただろう。

(注)教化村のはちみつは有名だったし、オペムスと呼ばれる小さな蜂が作る蝋は、シャルルボアによれば、他に比肩するものが無いほど、純白で、先住民の新改宗者たちは、愛の像の前でそれを燃やすことに全力を挙げて尽力したということだ。

自給自足の達成・輸出品の開発・労働意欲の醸成に関するイエズス会士の貢献度
教化村は、農業と商業の両面で、殆ど自給自足となるように組織されたことと、単なる生活必需品についても、彼らは輸出に充分なものを持っていたこと、そして、彼らが対処すべき先住民が如何に労働というものを嫌っていたか、を考えると、成し遂げられたことが決して小さくなかったこと、が見えてくる。

文明化された共同体がおそらく欲するであろう(例えば、文化・芸術的欲求に応える)要件を備えるための配慮がなされていた一方、彼らには、鎖や足枷や鞭などの備品や、道徳律が広く強制されるための、あらゆる道具を備えた監獄があったことも見えてくる。

刑罰・監獄の完備
最もよくある刑罰は、鞭打ちであり、最も頻繁な犯罪は、大酒、職務怠慢、重婚であった。そのうち、重婚は、イエズス会士が道徳からの逸脱だとして、特に厳しく責めた罪である。それは、独身主義を守らねばならないイエズス会士としては、鞭打ちの刑の助けなしには、その罪を避けるのは難しい、と考えたからかもしれない。


〈つづく〉

















by GFauree | 2022-10-18 09:30 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

<< 消えていった或る理想郷 そのX... 「キリシタン時代」は国家存亡の... >>