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2014.05/28 [Wed]
ケネディが尊敬する日本人「上杉鷹山」
「上杉鷹山」(下巻)童門冬二著より
途中より {治憲=鷹山」
このままゆくでゆくと、藩は何事につけても、(私ひとりを頼るようるなる)と思った。
それはまちがいだ、藩はこれからも存続する。しかし私はいずれ死ぬ、それなのに
私ひとりに頼っていてはどうにもならない。
(では、どうするのだ)治憲は自問する。
(私ひとりに頼らせぬことだ)
(その方法は)
(隠居、退隠だ)
{まだ、若いではないか)
(年齢にはかかわりない)
(改革が途中だぞ。おまえがいなくなって大丈夫か)
(わからない、しかし、その苦労を味わわなければ、後継者は育たない)
治憲は胸の中でこういう問答を繰り返した。
そして、つい隠居を決意した。治広も20歳をすぎている。こどもも生まれている。治憲
は35歳だったが、すでに祖父なのだ。
治憲は、佐藤文四郎にこのことを告げた。佐藤はなにもいわなかった。だまって治憲を
見つめていた。
やがて佐藤の眼に涙があふれてきた。
天明5年2月6日、父子は江戸城内で治憲の隠居、治広の相続が許可された。治憲は
「鷹山」と号した。が、まだ35歳の若さである。それでいてすでに18年余も藩政を主宰し
てきたのだ。
この日、鷹山は新藩主治広に、
「人君の心得」として、つぎの三条を示した。
一 国家(この場合は米沢藩のこと)は、先祖から子孫に伝えられるもので、決して私す
べきものではないこと。
一 人民は国家に属するもので、決して私してはならないこと。
一 国家人民のために立ちたる君(藩主)であって、君のために人民があるのではないこと。
天明5巳年2月7日 治憲
治広殿 机前
というもので、世間これを、
「伝国の辞」 と呼んだ。
この伝国の辞は、米沢藩主が交代するたびにひき継がれた。
鷹山の思想がはっきりあらわれている。つまり、当時の封建幕藩体制では、藩主はそこの
藩民を私し、単なる税源としてしか考えていなかった。領民の人格をまったく無視していたので
ある。しかし、鷹山はそう考えなかった。ここで国家というのは藩のことである。藩は藩主の私
物ではないということと、藩の民すなわち藩民はこれも私物ではないということである。つまり、
領民は藩という当時の自治体に属しているものであって、たまたまそこに遭遇した藩主や藩士
たちの私的税源ではまったくない。ということを宣言した。だから藩主というのは、その国家と人
民のための仕事をするために存在するのであって、国家や人民は、藩主のために存在している
のではない。と明確にいい切った。
余談だが、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が生きていた頃、日本人記者団と会見して、
「あなたがもっとも尊敬する日本人は誰ですか」
と質問されたことがある。そのとき、ケネディは即座に、
「それはウエスギヨウザンです」とこたえたという。
ところうが、残念なことに、日本人記者団のほうが上杉鷹山と言う人物を知らず、
「ウエスギヨウザンって誰だ」
とたがいにききあったというエピソードがある。ケネディは、日本の
政治家として、なによりも国民の幸福を考え、民主的に政治をおこない、そして、
「政治家は、潔癖でなければならない」
といって、その日常生活を、文字通り一汁一采、木綿の着物で通した鷹山の姿に、自分の理想
とする政治家の姿を見たのである。しかし、ケネディが鷹山に関心を持ったのは、おそらく英訳さ
れたこの「伝国の辞」を読んだためだ。内村鑑三が、英文で、鷹山を紹介したからだ。
鷹山の考えはあきらかに藩機関説だ、藩は人民の合意を、実行するための機関だということを
明言している。およそ二〇〇年おど前に、こういう民主主義的な考え方を表明したことは、徳川幕
藩体制下で」は稀有のことであって、また、鷹山の思想がどれほど思い切ったものであったかを示
している。まだ、近代民主主義が発達しているわけでもなく、鷹山がまたそんなことを知るわけもな
い。あくまでも鷹山の独創であった。
そして、日本人よりも、アメリカ人のケネディのほうが、敏感に、しかも実感を持って鷹山をくみ取
った。
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「政治家は潔癖でなければならない」
当たり前であり、当たり前にはおこなわれずかな?
上杉鷹山の小説は長い人生の間、一度読むといいものです。ジ―ンとなります。
家族っていいなあー感謝・愛情・尊敬?
家族の中でも
尊敬したいな
尊敬される人でありたいな
ときどき
ドジばかりなんだけれども
でも いいところだけみててほしいな
家族っていいよね
でも尊敬より愛情かなあ
愛情があればいいかあー
もう 尊敬だって 愛情だって なんだっていいかな
やはり 違う ちがう
すべてに有り難いと思う心だ
感謝だあー 感謝だあー
家族に感謝することだな
途中より {治憲=鷹山」
このままゆくでゆくと、藩は何事につけても、(私ひとりを頼るようるなる)と思った。
それはまちがいだ、藩はこれからも存続する。しかし私はいずれ死ぬ、それなのに
私ひとりに頼っていてはどうにもならない。
(では、どうするのだ)治憲は自問する。
(私ひとりに頼らせぬことだ)
(その方法は)
(隠居、退隠だ)
{まだ、若いではないか)
(年齢にはかかわりない)
(改革が途中だぞ。おまえがいなくなって大丈夫か)
(わからない、しかし、その苦労を味わわなければ、後継者は育たない)
治憲は胸の中でこういう問答を繰り返した。
そして、つい隠居を決意した。治広も20歳をすぎている。こどもも生まれている。治憲
は35歳だったが、すでに祖父なのだ。
治憲は、佐藤文四郎にこのことを告げた。佐藤はなにもいわなかった。だまって治憲を
見つめていた。
やがて佐藤の眼に涙があふれてきた。
天明5年2月6日、父子は江戸城内で治憲の隠居、治広の相続が許可された。治憲は
「鷹山」と号した。が、まだ35歳の若さである。それでいてすでに18年余も藩政を主宰し
てきたのだ。
この日、鷹山は新藩主治広に、
「人君の心得」として、つぎの三条を示した。
一 国家(この場合は米沢藩のこと)は、先祖から子孫に伝えられるもので、決して私す
べきものではないこと。
一 人民は国家に属するもので、決して私してはならないこと。
一 国家人民のために立ちたる君(藩主)であって、君のために人民があるのではないこと。
天明5巳年2月7日 治憲
治広殿 机前
というもので、世間これを、
「伝国の辞」 と呼んだ。
この伝国の辞は、米沢藩主が交代するたびにひき継がれた。
鷹山の思想がはっきりあらわれている。つまり、当時の封建幕藩体制では、藩主はそこの
藩民を私し、単なる税源としてしか考えていなかった。領民の人格をまったく無視していたので
ある。しかし、鷹山はそう考えなかった。ここで国家というのは藩のことである。藩は藩主の私
物ではないということと、藩の民すなわち藩民はこれも私物ではないということである。つまり、
領民は藩という当時の自治体に属しているものであって、たまたまそこに遭遇した藩主や藩士
たちの私的税源ではまったくない。ということを宣言した。だから藩主というのは、その国家と人
民のための仕事をするために存在するのであって、国家や人民は、藩主のために存在している
のではない。と明確にいい切った。
余談だが、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が生きていた頃、日本人記者団と会見して、
「あなたがもっとも尊敬する日本人は誰ですか」
と質問されたことがある。そのとき、ケネディは即座に、
「それはウエスギヨウザンです」とこたえたという。
ところうが、残念なことに、日本人記者団のほうが上杉鷹山と言う人物を知らず、
「ウエスギヨウザンって誰だ」
とたがいにききあったというエピソードがある。ケネディは、日本の
政治家として、なによりも国民の幸福を考え、民主的に政治をおこない、そして、
「政治家は、潔癖でなければならない」
といって、その日常生活を、文字通り一汁一采、木綿の着物で通した鷹山の姿に、自分の理想
とする政治家の姿を見たのである。しかし、ケネディが鷹山に関心を持ったのは、おそらく英訳さ
れたこの「伝国の辞」を読んだためだ。内村鑑三が、英文で、鷹山を紹介したからだ。
鷹山の考えはあきらかに藩機関説だ、藩は人民の合意を、実行するための機関だということを
明言している。およそ二〇〇年おど前に、こういう民主主義的な考え方を表明したことは、徳川幕
藩体制下で」は稀有のことであって、また、鷹山の思想がどれほど思い切ったものであったかを示
している。まだ、近代民主主義が発達しているわけでもなく、鷹山がまたそんなことを知るわけもな
い。あくまでも鷹山の独創であった。
そして、日本人よりも、アメリカ人のケネディのほうが、敏感に、しかも実感を持って鷹山をくみ取
った。
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「政治家は潔癖でなければならない」
当たり前であり、当たり前にはおこなわれずかな?
上杉鷹山の小説は長い人生の間、一度読むといいものです。ジ―ンとなります。
家族っていいなあー感謝・愛情・尊敬?
家族の中でも
尊敬したいな
尊敬される人でありたいな
ときどき
ドジばかりなんだけれども
でも いいところだけみててほしいな
家族っていいよね
でも尊敬より愛情かなあ
愛情があればいいかあー
もう 尊敬だって 愛情だって なんだっていいかな
やはり 違う ちがう
すべてに有り難いと思う心だ
感謝だあー 感謝だあー
家族に感謝することだな
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