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2021.02/11 [Thu]
吉田松陰への母の手紙「…………ははにたいし御たべ頼み参らせ候。けふ ははより」
手紙
鈴木敏史
ゆうびんやさんが こない日でも
あなたに とどけられる
手紙はあるのです
ゆっくり 過ぎる
雲のかげ
庭にまいおりる
たんぽぽの わた毛
おなかをすかした
のらねこの声も
ごみ集めをしている人の
ひたいの汗も………
みんな 手紙なのです
読もうとさえすれば
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さあ今日は、散歩の途中でね。
自転車で通り過ぎた女性が
じっと見つめ戻ってこられる
よくよく見たら、はつらつクラブの方だった。
なんだかうれしくなってた。ありがたい。
「コロナで中止になって、さびしいね」
あーあ、ってね。またね~~って!ふふふ。
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短歌
マスクゆえ会ってもわからずすれ違うだけど
嬉しい話ができた
白無垢のお嫁さんと羽織袴写真撮るらし出会
えうれしい
おひさまが出てるがうれし散歩でき老いてい
くなかしみじみしあわせ
息子からメールが来ればうれしくて心配され
るわたしのほうが
すぎていくときの速さにどぎまぎとなんだか
さみし齢ばかり早し
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日本人の手紙
村尾誠一 著
「宝島」の英作家が惚れた
---吉田松陰の手紙ーーー
今頃なんで吉田松陰と思うだろう。
世の中、キナ臭くなると維新だの愛国心だの言い出す。
だが、志が高く魂が純粋な男の代表として日本人より先
に松陰の伝記を書いたのが、英国作家R・L・スティー
ブンソン。『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の作者
だ。彼が書いたのは『人と書物考』の中の「ヨシダ・ト
ラジロー」。彼に松陰の話をしたのは日本人正木退蔵で
旧長州藩士、東大の前身開成学校の英国留学生の監督で
あった。
幕末の志士、吉田松陰は、30年に満たない一生に故
萩で2度投獄された。最初は、24歳の時伊豆下田で、米
艦で渡航しようとして果たさず、江戸から国もとの野山
の獄に下った。翌年出獄し、松下村塾を開くことわずか
一年半、井伊大老を首班とする幕閣、間部詮勝襲撃など
を企てたとして再投獄された。
翌、松陰は、時勢を憤慨するあまり断食に入った。そ
のとき、松陰の実母杉たきは、手作りの食べ物と一緒に
次の手紙を獄中の息子に届けた。
きのふよりは御食事御たちとか申事のよし。おどろき
入り候。万一それにて御はて被成候てはふこう(不孝)
第一口おしきしだいにぞんじ参らせ候。はは事もやまい
おふくよわり居、ながいきもむつかしく、たとへ野山や
しき(獄)に御出候ても御ぶじにさえこれ有候へば、せ
い(勢)になり力になり申し候まま、たんりょ御やめ御
ながらへのほどいのり参らせ候。此品わざわざととのへ
さし送り候まま、ははにたいし御たべ頼み参らせ候。
(略)けふ(今日)。
ははより
大様(松陰の幼名大二郎)正月二十五日
母の手紙で松陰は、素直に絶食をやめた。
妹への手紙に
「拙者不孝ながら、孝に当たる事がある。兄弟内に
一人でもぶざまの悪い人があると、あとの兄弟も
自然と心がやはらいで孝行でもするようになる」
半年後に、松陰は江戸で死罪になった。
その申し渡しのときの松陰は白洲で大声を発したという。
幕府の役人も誠心誠意で対応すればわかるはずだと松陰
は思っていた。処刑一週間前、両親への最後の手紙―ーー
平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること
出来申さず、非常の変に立到り申し候。嘸嘸御
愁傷も遊ばさるべく邦察仕り候。
親思ふこころにまさる親こころけふの音ずれ
なんときくらん
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なんだか、せつないですね。かなしいな。
しんみりとははとこを思うわ。
ありがとうございました。
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