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2013.11/24 [Sun]
合掌し「極楽じゃ」とひとりごと
今日の暖かさはどうなのでしょうね。街路樹の根元にタンポポが咲いていました。
あちこちに咲いて、空には飛行機雲、美しい紅葉に、公園はまるで落ち葉が敷き詰め
られたようで、落ち葉の感触が心地良く歩いて、楽しめました。
踏めば靴底に感触がなんというか忘れていた懐かしい感触なのです。
老若男女の人ら、子供らが多く歩いておられいい日曜日です。善いこともできて、
わたしなりにいい日曜日です。
すぐれた作家のいいところは、正面切った言葉ではなく、
ささやきのなかにある。 L・P・スミス
大西良慶(元清水寺貫主)の本より
人間の手ほど面白いものはない。
手には表情がある。人生がある。若い人の手には若さがあふれており、老人には老人の
苦渋がある。顔の表情のように目まぐるしく変わりはしないが、それだけにじみ出る味
がある。
しかも手は”もの”をいう。人間の身体のなかで、手ほど意志をたくみに表現するも
のはない。~
~仏法では、右手を慈悲、左手を智慧といっているところがある。手を単なる肉体の
道具としてでなく、霊的な働きをもとめたのではないか。
旧いところで言うと、お釈迦さんの生誕がそうやった。お釈迦さんは、生まれおちる
なり、七歩歩まれて「天上天下唯我独尊」といわれたという。ただ、そう言われただけ
ではない右の手の人差し指で天を指し、左の手で地をさしている。天と地をさしている
。ここに意味がある。天にも地にも、我ひとり尊しと言われた宣言の意味がある。~~
~信心の手は善になる。不信心の手は悪になるの。
~~
相手の心を聞く。---合掌の心は、やがて自分への合掌になる。向こう向いての、
合掌やなしに無事に今日あるが有り難い、父母が有り難い……この社会の恩を自覚し
たら合掌の世界になる。心の合掌いうたら;姿のないのが心やからね。手をあわせずと
も、合掌の心になったら、有り難いという思いになる。この思いがゆき届いたら、人間
の世界は極楽になる。そのままが極楽やの。
{合掌の心は敬愛、信頼、感謝、仏教で言えば念ずる心、頼む倍、願う場合が合掌}
こういっておられます。手と言うと一番に思いだすのが、島崎藤村の詩です。
今の場合に合いませんね。でも 好きな詩なのです。わたしも その昔このようでした。
よく手を眺め「ふうー」とため息したものでした。このとき合掌すると良かったのですね。
今はなんでもかんでも、合掌の心で合掌しています。そして「極楽じゃ、極楽じゃ」と、ひ
とりごとです。「有り難い。極楽じゃ。幸せ」
藤村の詩の中から
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
じっと手を見る
何もかも行く末の事みゆるごとき
このかなしみは
拭ひあへずとも
あちこちに咲いて、空には飛行機雲、美しい紅葉に、公園はまるで落ち葉が敷き詰め
られたようで、落ち葉の感触が心地良く歩いて、楽しめました。
踏めば靴底に感触がなんというか忘れていた懐かしい感触なのです。
老若男女の人ら、子供らが多く歩いておられいい日曜日です。善いこともできて、
わたしなりにいい日曜日です。
すぐれた作家のいいところは、正面切った言葉ではなく、
ささやきのなかにある。 L・P・スミス
大西良慶(元清水寺貫主)の本より
人間の手ほど面白いものはない。
手には表情がある。人生がある。若い人の手には若さがあふれており、老人には老人の
苦渋がある。顔の表情のように目まぐるしく変わりはしないが、それだけにじみ出る味
がある。
しかも手は”もの”をいう。人間の身体のなかで、手ほど意志をたくみに表現するも
のはない。~
~仏法では、右手を慈悲、左手を智慧といっているところがある。手を単なる肉体の
道具としてでなく、霊的な働きをもとめたのではないか。
旧いところで言うと、お釈迦さんの生誕がそうやった。お釈迦さんは、生まれおちる
なり、七歩歩まれて「天上天下唯我独尊」といわれたという。ただ、そう言われただけ
ではない右の手の人差し指で天を指し、左の手で地をさしている。天と地をさしている
。ここに意味がある。天にも地にも、我ひとり尊しと言われた宣言の意味がある。~~
~信心の手は善になる。不信心の手は悪になるの。
~~
相手の心を聞く。---合掌の心は、やがて自分への合掌になる。向こう向いての、
合掌やなしに無事に今日あるが有り難い、父母が有り難い……この社会の恩を自覚し
たら合掌の世界になる。心の合掌いうたら;姿のないのが心やからね。手をあわせずと
も、合掌の心になったら、有り難いという思いになる。この思いがゆき届いたら、人間
の世界は極楽になる。そのままが極楽やの。
{合掌の心は敬愛、信頼、感謝、仏教で言えば念ずる心、頼む倍、願う場合が合掌}
こういっておられます。手と言うと一番に思いだすのが、島崎藤村の詩です。
今の場合に合いませんね。でも 好きな詩なのです。わたしも その昔このようでした。
よく手を眺め「ふうー」とため息したものでした。このとき合掌すると良かったのですね。
今はなんでもかんでも、合掌の心で合掌しています。そして「極楽じゃ、極楽じゃ」と、ひ
とりごとです。「有り難い。極楽じゃ。幸せ」
藤村の詩の中から
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
じっと手を見る
何もかも行く末の事みゆるごとき
このかなしみは
拭ひあへずとも
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