ウルフ、早すぎた死 元横綱・千代の富士の歩み
大相撲で史上3位の優勝31回を誇り、昭和から平成にかけて一時代を築いた元横綱千代の富士の九重親方(本名=秋元貢=あきもと・みつぐ)が31日、膵臓(すいぞう)がんのため東京都内の病院で死去した。61歳だった。
史上3位の優勝31回、国民栄誉賞も
北海道福島町生まれ。1970年秋場所で初土俵を踏み、81年名古屋場所後に第58代横綱に昇進した。度重なる肩の脱臼などに耐えつつ、小兵ながら豪快な上手投げで土俵に君臨しファンを魅了。「ウルフ」「小さな大横綱」などと呼ばれた。
89年9月に角界で初めて国民栄誉賞を受賞。91年夏場所限りで引退した。同場所で当時18歳の貴花田(現・貴乃花親方)に敗れたことがきっかけとされ、引退会見では「体力の限界」と涙を浮かべた。通算1045勝。
元横綱千代の富士の九重親方が死去(8月1日)初の通算1000勝、輝く足跡
182センチ、120キロの体で優勝回数は史上3位の31回。1988年夏場所から53連勝を記録し、89年には角界初の国民栄誉賞に輝いた。90年には史上初の通算千勝に到達、一時代を築いた。
若いころは、100キロに満たず、横綱に昇進したのは26歳と遅咲きだった。30代での優勝は19度を数える。元大関琴風の尾車親方は31日、「年齢は2つ上、まさに戦友だった」とコメントした。
元横綱大乃国の芝田山親方は「調子が良くないとは聞いていたが、こんなに早くとは」と悲しんだ。88年九州場所の千秋楽、千代の富士の連勝を53で止めた一番については「優勝がかかった一番ではなかったが、負けっ放しで自分のプライドもあった。何とかしないとと思って臨んだ結果だった」という。「体重は圧倒的に自分のほうが多かったが、力が強かった」と当時をしのんだ。
初の通算1000勝、輝く足跡(8月1日)八角理事長「あまりにもショック」
同じ部屋の弟弟子だった日本相撲協会の八角理事長(元横綱北勝海)は落胆の色が濃く、そのせいか取材対応もなかった。
春日野広報部長(元関脇栃乃和歌)によれば「あまりのショックでコメントのしようがない。落ち着いてからにさせてほしい」と言葉を詰まらせたという。
あまりにもショック(8月1日)貴乃花親方「激励の言葉、忘れない」
元横綱の貴乃花親方は、九重親方(元横綱千代の富士)の訃報に、「下積み時代に早く上に上がってこいと激励のお言葉をたまわったことも忘れてはいません。鋼の肉体に額を恐る恐る当てたことも忘れてはいません」などとコメントした。
貴乃花親方は、西前頭筆頭貴花田だった1991年夏場所初日、千代の富士に初挑戦して金星を挙げた。
「激励の言葉忘れない」 貴乃花親方(8月1日)小さな大横綱、故障越え鋼の肉体
小さな交通事故から、念のための検査で「膵臓(すいぞう)がん」が見つかった。昨年7月に手術、それは「早期発見で全く心配ないよ」と言っていたのに、これほど早く、北の湖理事長(昨年11月)に続き、相次いで角界の"巨星"を失うとは思いもよらなかった。
少しやんちゃの度が過ぎるくらい元気な親方だったが、1月の理事選出馬を断念(前回は落選)し、かつてナンバー2の事業部長を歴任しながら日本相撲協会にあって、無気力相撲を監視する一委員にすぎなかった。自らを奮い立たせるように九重部屋は親方の激しい怒声が響き、焦りのようなものも感じた。
豪快に肩越しから上手を取ってぶん投げた相撲で幾度も肩を脱臼し、そこから左の前みつを一気に引いて根こそぎ直線的に寄り切るか、上手投げで豪快に決める相撲に変えた。これも試練のたまものだ。
力士生命にかかわる脱臼癖を一日500回の腕立て伏せで克服、みごとな筋肉のよろいをまとった。「だれにも負けてたまるか」という意地と根性が、時代を変える直線的なスピード相撲を発明した。
8歳下の北勝海を横綱に引き上げようと、体力の限界まで、二人で激しいぶつかり稽古を絶やさなかった。いつの間にか、北勝海も息も切らさず、リズムに乗り、まるで軽快な音楽で踊るように見えた。そこまで二人は鍛え上げたのだ。それ以来、あのようなぶつかり稽古はどの部屋でも見たことがない。
ウルフ 小さな大横綱(8月1日)早すぎる死悼む
九重親方は31日午後8時10分すぎ、東京都墨田区の九重部屋に無言の帰宅をした。死去の一報を受けて集まった大勢の関係者が見守った。
ストレッチャーに乗せられた遺体が車の後部から降ろされると、玄関前で待っていた数人の力士たちが無言のまま周りを囲んだ。遺体はゆっくりと部屋に運び込まれ、遠巻きに見ていた近隣の住民らが手を合わせた。
早すぎる死悼む(8月1日)