ここに生まれてきたことの不思議。この蒲団の中で息をしていることの不思議。やがてここに没していくであろうことの不思議。この不思議! そう。 この「不可 思議」がいい!
思議することの不可能な、 この「不思議(不可思議)」な世界がいい。人知を越えた、世界の大きさ、広さ、深さ、豊かさ、おおらかさ。
本当のことを知りたい、分かりたい、つかみとりたい、結論を得たいと思う。しかし、結論を得てしまったら、その後何が残っているというのでしょうか。
真実はこれだと性急に結論を得れば、きっとそれに縛られて生きていくことになるでしょう。結論を得れば、その結論が判断の基準となり、自分を束縛し強制します。自分の人間としての価値も可能性も、その基準によって決定されるでしょう。それに束縛されるでしょう。
自ら束縛し、自ら自分の自由や可能性を限定することはないのです。もし真実があるとするならば、真実はそのようなことは、きっと望まないことでしょう。「みずから限定 するなかれ」(「ヘルマン・ヘッセの雲」下記リンク)と言うに違いありません。
真実はこれだと性急に結論を得れば、獲得した真実の基準によって、判断したり、命名*したりしたりして、強引にものごとを決め実行していくでしょう。判断や命名には、本来このような「強引さ」が伴います。
人間は相対世界に生きていますから、生きていく上で判断することも、命名することも、もちろん必要です。ですから、判断や命名には、このような「強引さ」があるのだということを承知した上で、それを使っていかなければならないのだと思います。個人的な判断はもとより、社会における判断はなおさら。
ですから、個人的な判断も、社会における判断も、だれにも「本当のことは分からない」のだということを承知の上で、この「不可 思議」を承知した上で、あえて判断していく謙虚さが必要になるのだと思います。
しかし、大胆な決断を早急にしなければならないという事態が発生することも、時にはあるでしょう。その時は、大胆に決断していくことになります。人間はこの「不可 思議」の世界に生きているのだということを承知した上で。
承知した上で行うのと、承知しないで行うのとでは、雲泥の差がありますから。
真理を究めたい、真理を知りたい分かりたいと思っても、本当のことはだれにも分からない。だからこそ、自由であるのかもしれません。
人間が「分かった」と思う世界は、限られた狭い世界なのではないでしょうか。分からない世界だからこそ、広い。分からないからこそ、自ら限定する必要はなく、広い世界へ出られる。より自由になれる。世界はそれを望んでいるのではないでしょうか。
坂道の陽差しは赤し蕎麦の花 いろは
さかみちの ひざしはあかし そばのはな
この不可思議を味わいながら生きていく。この太陽の光に照らされていればこそ、坂道を歩んでいける。不思議を楽しみながら、不思議を明らめ深めていく。
以前このブログで「人は詩人として生きる」というような言葉を紹介しましたが、それはここでいう「この不可思議がいい! 」ということにも照応しているかもしれません。
「 何という不思議な 晴れやかさが、わたしの心を満たしていることか、・・・」
-「ゲーテ『若きウェルテルの悩み』の思い出」-
またしても、いつの間にか、「いろは」の妄想のおもむくままに、わけの分からないことを書いてしまうことになってしまいました。軽くスルーしてくださいね。
(2023年10月2日早朝、蒲団のなかで「ふと」心に浮かんでできたことをメモしてみました。後日、何か書き足して、再構成することになるかも知れません。今朝は一応ここまで。 ※後日、書き足し書き改め、更新してみました。)