トランペット・プレイヤー Arve Henriksen(アルヴェ・ヘンリクセン)とノルウェ―の少数民族 Kven (クヴェン) |
Arve Henriksen(アルヴェ・ヘンリクセン)はノルウェ―のトランペット奏者として '90 年代初期より数百枚のアルバム・リリースに参加していることで知られる。
そのトランペット奏法は本当に独特で、聴いてすぐ彼だとわかるほどだ。どこか非西洋的で、静的な雰囲気で深く沈んで漂うようだが、決して落ち込むような音ではない。2001 年、彼がノルウェーの Rune Grammofon レーベルから出したアルバムに "Sakuteiki"(作庭記)- 世界最古の庭作りの書物 - というのがあるが、文字通り平安時代の日本の庭を少しだけ感じさせるような音楽だった。後で、トランペットをマウスピースを使わずに吹いた音だと知ったが、20 年以上たった今でもその音は色褪せない。
その頃、なぜノルウェーからそのような音楽が生まれるのか不思議だったが、その理由の一端を最近知ったような気がした。それは Klassenkampen (クラッセンカンペン - 階級闘争)というノルウェ―の日刊紙に載った、Martin Bjørnersen (マ―ティン・ビョルネシェン) による Arve Henriksen のインタヴューに基づく 3/14 (Kvenfolket's Day - Kven 人の日の前々日)記事だった。Arve はルーツをノルウェ―の少数民族 Kven (クヴェン)に持つという。
以下、記事より一部和訳する。わかり難い部分は補足した。
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Arve は 1968 年、ノルウェ―の Stryn(ストリン)に生まれた。家族のルーツは Nord-Troms(北トロムス)の Hansinkenttä(ハンスィンケッタ - フィンランド語)/Storslett(ストーシュレット - ノルウェ―語)などにある。元 Trondheim (トロンハイム)音楽院、現 NTNU ジャズ部門に 1986–1989 年学ぶ。ECM や Rune Grammofon からソロ・アルバムをリリース、アヴァンギャルド・トリオの Supersilent に参加している。最も最近のリリースは 1 月の Harmen Fraanje (ハルメン・フラーニェ、オランダのピアニスト)とのデュオで ECM レーベルのものだ。
Hansinkenttä/Storslett 市
Kven 人は現在ノルウェ―で少数民族として認められている五つのグループの一つで他に Roma (Vlach Roma という 150 年ぐらい住んでいる民 - ジプシー)、Romani(ジプシー、移動してきたロマニ、8年ぐらいいる)、Skogfinn(森のフィン人)とユダヤ人がいる。これらの人たちには共通した運命があった。それぞれの文化の大部分が積極的に消された。姓名、食物、音楽の伝統、言語と生活がなくなってしまった。人々は捕まり、ロボトミー手術を受け、不妊手術をされ、殺され、ナチのデス・キャンプに送られた。 これらのことは教えられなかった。我々の親は他のことで頭が一杯で、ノルウェ―の学校システムではサーミのことを社会の勉強で数ページ教えたぐらいで何も教えていない。ノルウェ―の「ノルウェ―化」を知らなければならない。国を作る上で政府による残酷な圧政があったことを知らなければならないと Arve は言う。
Kven 人のことは伝説や西暦 800 年の Ottar(オッター)首領の説話や、Bothnia(ボットニア)湾や Tornedalen(トルネダーレン) のフィン語を話す地域に見える。16 世紀の北部での国の調査でフィンランドの言葉と文化的背景を持つ居住者について qwæn と quæn としている。それは最初から外部の、少数民の、現在の Kven 人の人口のかなりの部分が特別なフィンランド系ノルウェ―語( Meänkieli /メアンキエリ 或いは Tornedal/トルネダル・フィンランド語の親戚語でスウェーデンの公式少数言語)だった。現在の Kven の人口はこれらのフィンランド・スウェーデン地域からの移民の子孫だ。 18 世紀から 19 世紀の終わりにかけて、いくつかの流れによって、Finnmark(フィンマーク)や Nord-Troms (北トロムス)に移り住んだ。Vadsø(ヴァッスー)のような町では Kven は人口の大勢を占めた。しかし、中心のノルウェ―当局からは離れて、20 世紀初頭には 30 棟もの(フィンランドに特有の)サウナ・ハウスがあった Kvenby (クヴェンビー)内外に住んでいた。そここそ、自分のはっきりした起源についてあいまいであった祖母を通じて、私が家族のルーツを持っていた場所だ。こうして私自身も、大人になってから突然、自分たちの家族のクヴェンの歴史、時には「フィンランド語」を話す曽祖父のこと、Kola (コラ)半島の海岸の Ura-Guba(ウラ・グバ)で生まれた曽祖母のことを発見した多くの人の一人となった。曽祖母は Vadsø(ヴァッスー)出身の Kven 商人の娘で、教会ではノルウェー語、学校ではロシア語、家では Kven 語を話していた。
Arve も、まったくの偶然で Kven の背景を知った。系図調査をしていた義理の兄弟は、Jukkasjärvi(ユッカスヤルヴィ - フィンランド語地名)(以下 Kiruna - キルナ)に遠い親戚がいる Kven とのいくつかの違いを発見した。Arve はたくさんの本を買い、近親者に尋ねた。父親は「Kven」について何も聞いたことがなかったので、これはナンセンスであり、話すことではないと考えていた。しかし、最終的には、両親(つまり Arve の祖父母)は、自分たちで何かについて話すときに、子供たちが理解できない言語を話していたことが判明した。Arve は、今もノルウェー北部に住んでいる叔母に、ここでのことについて何を知っていたのかと尋ねた。「もっとコーヒーはどう?」が答えだった。叔母は興味はなかった、と Arve は言う。
やがて、彼は自分の音楽作品にも Kven の匂いを感じるようになり、プロの分野で最初に Kven と関わった一人、Halti Kvenkultursenter(ハルティ・クヴェン文化センター)の Pål Vegard Eriksen(ポール・ベガー・エリクセン)は、これは典型的な「新しいクヴェン」の物語だと語った。 次の世代はこの物語が一体何についてなのか知りたがる。それ以来、私は自分と同世代の多くの人々に会ったが、その多くが近年徐々にこのことを話題にし始めており、彼らも同じことをよく言う、と Arve は言う。
私(Martin Bjørnersen /マ―ティン・ビョルネシェン)自身、長年親しい音楽仲間である Sinikka Langeland (スィニッカ・ランゲランド)や Stian Carstensen(スティアン・カシュテンセン)とのインタビューの余談で、Arve の Kvenでの経歴を聞き、音楽の旅を始めた。家族の歴史における私自身の「Kven の旅」は、最終的に Arve のこれまでで最も明確な「Kven の記録」であるユニークな写真/詩/オーディオブック/音楽プロジェクト ”Merimies Muistelee"(2021年)を探すようになった。これは、世界で初めて Kven 語で小説を書いた Kven の作家、Alf Nilsen-Børsskog(アルフ・ニルセン=ボースコグ)(1928-2014)の詩に基づいている。 "Merimies Muistelee" は、Nilsen-Børsskog の詩の英語とノルウェー語の翻訳が載った本と、Arve が同じ詩のために音楽と音声を制作した CD で構成されており、その CD はもともと Nilsen-Børsskog がサーミの出版社 Iđut のためにオーディオブックに読み上げたものである。それは彼が亡くなった翌年に刊行された。
私(Arve)はいつも、音楽のテキストの内容よりもテキストのサウンドを使って仕事をしてきた。そして、"Merimies Muistelee" を録音したとき、私は Alf Nilsen-Børsskog が何を言っているのか全く分からなかった。Arve は、翻訳を読んだのは後からだと言った。彼は音楽としての言語を扱うことに慣れており、楽器奏者として、またステージ上でボーカルの即興演奏をしながら、「擬音(オノマトペ)的詩」または言語を模倣した音で遊ぶのが好きだ。しかし、Kven の場合は違う。"Merimies Muistelee" の作業中にいくつかのことが起こった。
私(Arve)はそこに座って、スウェーデン語に関係あること - 全く分からなかった - に共感しなければならなかったが、同時に深い敬意を払わなければならなかった。そして、すべてがノルウェー語で行われ、Kven 語が禁止されている学校に入れられた Kven の子供たちがそうしなければならなかったように、自分の本当のルーツを取り除かれた日常生活に対処しなければならないことについて考えた。Arve は同時に、もちろん、彼の状況ではそれがまったく異なることを明らかにした。
彼にとって、日本語や他の言語に対処する経験と同じように、知らないことに対処しなければならないことはエネルギーの補充だった。つまり、彼はトロンハイム・ジャズ音楽院で一緒に勉強していた頃、Stian Carstensen(スティアン・カシュテンセン)がブルガリアとジプシーの音楽を大音量で演奏しに来たときのこと、あるいは、別の音楽家、ベルゲン出身のピアニスト、Knut Kristiansen(クヌート・クリスチャンセン)が、ジャズ音楽院の生徒たちに、ケニアの Kuria(キュリア)の人々との活動から得た素材を出したときを覚えている。
Arve - Finnskogen (「フィン人の森」という地名のノルウェ―内の地域 - フィン人が移住した)とカンテレ(北欧伝統楽器)の伝統を持つ Sinikka Langeland (スィニッカ・ランゲラン)や、Stian Carstensen が Elias Akselsen(エリアス・アクスルスン、ノルウェ―在住タタール人)と行ったことなど、少数民族の文化に光を当てる機会を作ってくれた人々が私の周りにいたことをとてもうれしく思う。世界のどこにいても、Kven やその他の少数派グループを扱う資料をどんどん出版すること自体が重要だ。それほど頻繁に使用する必要はないが、少なくとも存在することは知っておくべきだ。
Arve は、芸術や音楽に携わっているとき、この興味は少し奇妙であるか、または求められているものとして認識されやすいと信じている。彼は、ほとんど失われてしまった古い「オリジナル」への敬意からも、「これを破壊」しないように注意してきた。Arve によれば、そのような素材に芸術的に移行するには限界があるという。そこに足を踏み入れて自分自身を台無しにするだけでなく、他の人も台無しにすることになる。
私(Arve)は、家では得られなかった文化の匂いを嗅ぎ、味わい、大人になってから徐々にその文化を取り入れ、理解を深めている Kven の人々に会った。彼らは徐々に、そして非常に敬意を持ってこれに対応する。彼らは自分たちがその言語を完全には知らないことを知っている。彼らは、何と言うか、真実の断片しか持っていないことを知っている。そして、異なる重みと異なる警戒心を持って行動することになる。
私 (Arve) が Vadsø(ヴァッスー)の Ruija(ルイヤ)女性博物館の開館式典でダンサーの Astrid Serine Hoel (アストリ・セリーヌ・ホール)と一緒に演奏したときのように、Kven に興味がなければ彼女には会わなかった。彼女は現在、クヴェン・ダンス・パフォーマンス "Karhutanssi"(クヴェン語で「熊の踊り」の意味)を創作しており、このパフォーマンスは春にオスロ市のオペラハウスとライヴハウスの Riksscenen(リキセネン)で上演される予定だ。
Kven ルネッサンスで重要なプロジェクトは、Arve をソリスト兼共同主催者として迎えた北ノルウエー・ジャズ・アンサンブルによるクヴェン・ジャズ・コンサート Kaipu(カイプ)だ。 Kaipu は 1月 31日に Tromsø(トロムソ)で初上演され、熱狂的な反響を呼んだ。その写真展を開催した Bente Nordhagen (ベンテ・ノードハーゲン)が客席に座り、その後Arve のところにやって来てレセプションに招待したのはそこだった。 Kaipu の背景は、Halti クヴェン文化センターと協力した北ノルウェ―・ジャズ・センター主催による「Kven キャンプ」であり、音楽を含む Kven 文化についての知識が補充された。
私(Arve)たちはコミュニティで講義をしたり、物語を語ったりする多くの刺激的な人々に会った。 北ノルウェ―・ジャズ・センターは、これをプロジェクトにできないかと考えた。Kven の賛美歌や古い歌を見つけた。その素材を使ってどんな音楽を作ればいいか?そう、ここでそういうものを探して使用することができるが、同時に、私たち自身が現代の人間であり、ミュージシャンである必要がある。この素材を取り入れて、たとえば電子機器を使って少し色を付けてみよう、と Arveは言う。
私(Martin Bjørnersen - マ―ティン・ビョルネシェン)自身も当初はコンサートを観に行って、翌日 Bodø(ボーデ)で Arve とインタビューする予定だった。しかし、Ingunn(イングン)の嵐がその計画全体を中止させた。コンサートは 6月に Bodø で再び上演され、11月には Mo i Rana (モ・イ・ラーナ)市の Smeltedigelen(スメルテディゲン/坩堝)ホールで演奏される。しかし今のところは Arve の説明で間に合わせなければならない。それ自体は十分興味深いものだ。とりわけ、彼はサウンドアーティストの Louisa Palmi Danielsson(ルイーザ・パルミ・ダニエルソン)が作品の中で果たした役割について語る。彼女は、とりわけアンビソニックスとクアドロフォニック サウンドを使って作品を制作しているが、これらは音響的にだけでなく、表現の重要な部分となっている。