チェーホフの「かもめ」を観た - インネの日記・うたかた

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チェーホフの「かもめ」を観た

劇場に「La Muette(かもめ)」を観に行くことになり、大急ぎで予習をしたのだった。

かもめ (チェーホフ) - Wikipedia

読んですぐに、なんだか最近似たような読後感の話を読んだ気がした。似たようなというと乱暴だれど、ラ ミゼラブルだった。

結局、わたしがわたしであるために、という話ではないだろうか。

 

あまりに予習が直前すぎて、あらすじを読むだけで精一杯だったのだけれど、舞台を見てなんだか、ほうけてしまった。

わたしがどこにでもいる。誰にでもなりうるという感覚だ。

 

チェーホフファンの方々は読み取り論議をすることが多いらしく、わたしなどあらすじを読んで外国語でざっくり理解しただけで、なにかを語るのは恐れ多いのだけれど。

観劇後、すぐの感想を残しておこうと思った次第。解釈が間違ってるかも知れないけれど。

(ネタバレ及び個人的解釈がありますのでご注意。)

 

だれもが、なにかを抱えて生きているのだなぁ。

憤りや不安、衝動や後悔、

閉塞感の中で、暴れて、わめき散らし、子供のように泣く、そんな心が潜んでいる。

ボタンひとつの掛け違いどころではない、あちこち少しずつの掛け違いが重なって、それは解けないほど複雑に絡まってしまっている。自分の中でも、人との関係も。

 

チェーホフが描くのはありがちなわたしたちだ。

有名舞台女優の母親は、息子との関係が気になりながら、距離をとっている。自分の老いも気にしている。

そんな母は、舞台脚本家志望の息子の舞台を流行りのデカダンスと嘲笑する。(中二かよって感じで)息子舞台を投げ出し逃亡。

息子はメンヘラで、ママは子供の頃僕のことどうでもよかったよね、舞台の方が大事だったんだよね、とか今でも引きずっている。

最初のシーンではラブラブだった恋人に死んだかもめ投げつけ、俺はこうなるんだーと叫ぶ自己中ぶり。

おまけにずーっと離れていたのに、再会すると自分と同じ位置にいることを期待して、拒否され絶望。

叔父は都会から田舎に来たことが嫌で、周囲に馴染まず、ヤダヤダ言ってる爺さん。独身で家族が欲しかったと嘆いている。

健康に悪いよと言われてもすぱすぱタバコを吸って、そんなんどうでもいいんじゃい、と言いながら生きることへの執着がある。(これはわたしの解釈)

息子に片思いしてた女は、辛い恋を忘れると好きでもない男と結婚し、家庭放棄して酒に溺れる。

人気脚本家の母親の恋人は、人気人気って言っても文学界に名前を残すわけでもなく、似たようなもん書いてるだけのつまらない作家と自分を貶める。

恋人の息子の恋人に悪びれもせず手を出す。

 

なんだかひとつひとつ書き出していくと、確かに悲劇が喜劇だな。

わたしはだれもの考えに自分を重ねてしまう。

息子を大事に思っているけど、うまくいかないこともあるし、うまく伝えられないこともある。

女優母だってそうだったんじゃないかな。同業だからこそ厳しくなってしまうこともあるだろう。女がキャリアを積んでいく中で、子供にこっち見てくれていない!と思われることもあるだろう。

それだけじゃなく、叔父さんみたいに自分の場所はここじゃない、って思ったり、自分や自分の仕事をつまらないと感じたり、卑下したり。

みんながどこかもがいて、喘いでいる。

みんなが湖にとどまる かもめなのだと思う。

「わたしは、かもめじゃない」という言葉に胸がつまった。

 

わたしが わたしであることを自分が認められるまで もがきながら生きること。

昔も今も変わらない課題なのかもね〜と美しい劇場で思った夜でした。