劇場に「La Muette(かもめ)」を観に行くことになり、大急ぎで予習をしたのだった。
読んですぐに、なんだか最近似たような話を読んだ気がした。似たようなというと乱暴だれど、ラ ミゼラブルだった。
結局、わたしがわたしであるために、という話ではないだろうか。
あまりに予習が直前すぎて、あらすじを読むだけで精一杯だったのだけれど、舞台を見てなんだか、ほうけてしまった。
わたしがどこにでもいる。誰にでもなりうるという感覚だ。
チェーホフファンの方々は読み取り論議をすることが多いらしく、わたしなどあらすじを読んで外国語でざっくり理解しただけで、なにかを語るのは恐れ多いのだけれど。
観劇後、すぐの感想を残しておこうと思った次第。解釈が間違ってるかも知れないけれど。
(ネタバレ及び個人的解釈がありますのでご注意。)
だれもが、なにかを抱えて生きているのだなぁ。
憤りや不安、衝動や後悔、
閉塞感の中で、暴れて、わめき散らし、子供のように泣く、そんな心が潜んでいる。
ボタンひとつの掛け違いどころではない、あちこち少しずつの掛け違いが重なって、それは解けないほど複雑に絡まってしまっている。自分の中でも、人との関係も。
チェーホフが描くのはありがちなわたしたちだ。
有名舞台女優の母親は、息子との関係が気になりながら、距離をとっている。自分の老いも気にしている。
そんな母は、舞台脚本家志望の息子の舞台を流行りのデカダンスと嘲笑する。(中二かよって感じで)息子舞台を投げ出し逃亡。
息子はメンヘラで、ママは子供の頃僕のことどうでもよかったよね、舞台の方が大事だったんだよね、とか今でも引きずっている。
最初のシーンではラブラブだった恋人に死んだかもめ投げつけ、俺はこうなるんだーと叫ぶ自己中ぶり。
おまけにずーっと離れていたのに、再会すると自分と同じ位置にいることを期待して、拒否され絶望。
叔父は都会から田舎に来たことが嫌で、周囲に馴染まず、ヤダヤダ言ってる爺さん。独身で家族が欲しかったと嘆いている。
健康に悪いよと言われてもすぱすぱタバコを吸って、そんなんどうでもいいんじゃい、と言いながら生きることへの執着がある。(これはわたしの解釈)
息子に片思いしてた女は、辛い恋を忘れると好きでもない男と結婚し、家庭放棄して酒に溺れる。
人気脚本家の母親の恋人は、人気人気って言っても文学界に名前を残すわけでもなく、似たようなもん書いてるだけのつまらない作家と自分を貶める。
恋人の息子の恋人に悪びれもせず手を出す。
なんだかひとつひとつ書き出していくと、確かに悲劇が喜劇だな。
わたしはだれもの考えに自分を重ねてしまう。
息子を大事に思っているけど、うまくいかないこともあるし、うまく伝えられないこともある。
女優母だってそうだったんじゃないかな。同業だからこそ厳しくなってしまうこともあるだろう。女がキャリアを積んでいく中で、子供にこっち見てくれていない!と思われることもあるだろう。
それだけじゃなく、叔父さんみたいに自分の場所はここじゃない、って思ったり、自分や自分の仕事をつまらないと感じたり、卑下したり。
みんながどこかもがいて、喘いでいる。
みんなが湖にとどまる かもめなのだと思う。
「わたしは、かもめじゃない」という言葉に胸がつまった。
わたしが わたしであることを自分が認められるまで もがきながら生きること。
昔も今も変わらない課題なのかもね〜と美しい劇場で思った夜でした。