感情と科学を管理した政治
政権が8年近く続いた理由をボンヤリと考えていた。
すごく冷徹に経済だけで見れば国力は落ちていったとしても、株高、円安、失業率の解消。新卒の求人倍率がある程度あったなど、穏やかな時代であったと見る人がいてもおかしくない。そしてそれが主因かも知れない。
見えない格差や問題を除いて、世の中は平和だったのだ。
わたしは今、感情史を集中的に勉強していて、しかしながら、一見無関係なこの長期政権の理由と符号するものを感じた。
まずは感情の管理だ。
もしかすると、ネットの過激な保守の言説を思いつくかも知れないがそうではない。
むしろ「がんばる人を冷笑する」「得ではない」という、感情の管理だ。
政権が意図して行ったかはわからない。が、一方で右派が一方で左派が過激な言説を使いすぎるにあたってすっぽりと収入や生活は置いておいて、政治的には何も発言しない「中道」が生まれた。そしてこれは上手くいっていたのではないかと思う。政治に触れるとまずい、あるいは政治への無関心は政権の安定の基礎となる。そしてそれは経済の(表面的な)穏やかさと同時に効果を発揮したのではないか?誰しも社会的に損はしたくない。
そして、科学の管理だった。正確に言うと学術分野において役所がかなり管理権限を持ったと言うことである。人文社会科学は無駄で、サイエンスの基礎研究も無駄で、出来るだけ成果の見えやすいものに投資というか予算配分をした。
結果として、人文科学の批評研究能力は目に見えて落ちたし、目先のサイエンスが流行した。それによって、国力が落ちるかも知れないと言う長期視点は文部科学省の行政からは抜け落ちたろう。学問は多様性の担保でもあるわけだが、それは失われた。
それらが政権がグランドデザインとして考えたものなのか、それとも結果的にそうなったのか、検証はしたいと思っている。noteになるか、何か分からないが結構前から資料は集めだしている。
宮台真司氏の言うように「感情の劣化」だけでは説明できていないと思う。そこはおそらく、ミシェルフーコーの「健康な管理社会」に通じる、「感情や科学ロジックの管理社会」というものが見えてくるのではないかと構想している。
そして、それが最善の形で実現できているのは中国政府だろう。今のところではあるが。
そこそこの生活とそこそこの自由で、多くの人民の感情をコントロールし、それが統治に活かされているのではないか。
自由や可能性より、ある程度の不自由を享受する世界。
COVID-19の下で見えて来た「帝国」は私にとってはだが、嫌な意味で「最大多数の最大幸福」を自由も、貧困も、格差も、なかったことにして実現されるのかも知れない。