なぜ負傷もないのに痛むのか。そして、どうやって痛みを取り除くのか──『痛み、人間のすべてにつながる | 新しい疼痛の科学を知る12章』 - 基本読書

基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

なぜ負傷もないのに痛むのか。そして、どうやって痛みを取り除くのか──『痛み、人間のすべてにつながる | 新しい疼痛の科学を知る12章』

この『痛み、人間のすべてにつながる』は、文字通り人間が抱える「痛み」について書かれた一冊だ。著者はオックスフォード大学医学部のリサーチ・フェロー、皮膚科医で、既訳に『皮膚、人間のすべてを語る』がある(こっちもおもしろい)。

で、著者が皮膚の次に選んだテーマが「痛み」だ。人間であれば誰であっても多少の痛みを経験しながら生きていくもので、これが人生最大の悩みである人も多いだろう。胸や腰が痛むのに、病院に行っても「全部正常ですね」としか言われず、原因のわからない継続的な痛みに苛まれる人もいる。アメリカでは鎮痛薬として用いられるオピオイドの需要は高まるばかりで中毒死者数が急増し社会問題化しているが、痛みがこれほどまでに問題なのに、あまりその本質的な原因は広く知られていない。

本質的な原因ってどういうこと? 骨折をしたらその箇所が痛むように、原因が身体のどこかにあってその結果として痛みが発生しているだけではないのか? と思うかもしれない。だが、痛みに関する研究が指し示すのは、「痛みとは身体にくわえられた障害の程度を測る正確な尺度ではなく、保護の仕組みだ」という事実だ。

一切怪我がなくても人間は痛みを感じるし、逆に大怪我があっても状況によっては人間は痛みを感じない。僕自身、先日胸に痛みを連日感じたので循環器科を受診しレントゲンやら心電図やらをとってもらった結果「全部大丈夫そうですね。強いて言うなら背骨がめちゃくそに曲がってるのでそれかもですね。ハハハ。」と言われて帰ってきたばかりなので(ちょうどその待合室で読んでいた)、本書は役に立つ内容だった。

痛みは保護の仕組みであって、感知のシステムではないってどういうこと??

さて、最初に大きなテーマである「痛みとは保護の仕組みであって、感知のシステムではない」とはどういうことなのか、から紹介していこう。

とはいえ、これは文字通りの意味だ。人間は、はたからみたら大怪我をしているように見えてもケロッとしていたり、怪我をしていなくても思い込みで凄まじい痛みを訴える、といったことがよくある。たとえば、建築作業員の男性が一枚の板の上に飛び乗ったところ、左のブーツを15センチの釘が貫通したのだという。その男性は足に凄まじい痛みを訴え、鎮静剤にくわえて強力な鎮痛薬のフェンタニルが投与された。釘が貫通したのだから痛いのだろう──と思いきや、医療チームが男性のブーツを切り開いてみると、釘は足の指の間をすり抜けていて、本人はまったくの無傷だった。

痛みは、何か原因があって、その結果として生じているもので、痛みが強ければ強いほど損傷も重大なものになると考えられているが、こうした事例をみると、それがすべてではないことがわかる。実際、皮膚には痛みを引き起こす刺激を感知する侵害受容器が存在し、それが多くの場合は痛みを引き起こすのだが、それは痛みのほんの一例にすぎない。結論だけ書けば、痛みとは「脳でつくりだされるもの」なのだ。

つまり、痛みは損傷や危険の尺度ではなく、私たちの身体がダメージを負ったか否か、危険が迫っているか否かについて脳が示す無意識の見解なのだ。視覚とは「ものを見ること」をはるかに超えた機能だし、同じように痛みも「感知すること」をはるかに超えている。(p.28)

先の例でいえば、靴を突き抜けた釘をみた男性は、釘が自分の足を貫通したと思い込んだ。視覚情報を通して、脳は「危険が迫っており、防護を要する」と判断し、痛みを生じさせることで意識に危険を知らせ、何らかの行動を起こすように仕向けた。その結果、実際には傷が発生していないにもかかわらず、脳内には痛みが蔓延する。

どうしたら痛みをなくせるのか?

さて、痛みとは脳がつくりだしているものならば、脳の認識を変える、あるいは騙すことで痛みを消すことができるかもしれない。本書は広汎な痛みに関する研究を扱う本なので(たとえば第二章はさまざまなタイプの無痛症の人々を扱っている)、痛みへの対処はメイントピックとはいえないのだけれども、記述はたくさん存在する。

たとえば近年有望視されている方法のひとつに「バーチャルリアリティ」がある。ある研究では、やけどをおった患者が逃げ込むための雪と氷だらけの世界「スノーワールド」をつくられた。そこに、火傷を負った兵士を送り込むと、処置中の痛みは35〜50%軽減したという。これらは単に自己申告だけでなく、fMRIを使った脳スキャンで、痛みに関する脳活動が小さくなっていることからも裏付けられている。

痛みと関連しておもしろいのが、想像以上に大きいプラセボの効用だ。プラセボとは見た目や味が本物の薬と同じでも薬効成分を含まないものを示す言葉で、ランダム化比較試験などで使われる。薬効を試したい薬を飲ませる人々と、何の効果もない薬を飲ませる人々に分けてその差異をみるのだ。プラセボ群と比べて効果があれば、良い結果といえる──が、実はプラセボ群でも改善がみられるケースが非常に多い。

たとえば、2000年代のはじめ頃、整形外科医のグループが実施した「プラセボ手術」実験がある。当時整形外科でよく行われていた手術に「関節鏡視下デブリドマン」という手術があった。これは膝を切開して炎症を起こした組織を取り除く手術なのだが、当時なぜこれに効果があるのか誰ひとりよくわかっていなかった。そこで、痛みを伴う膝関節症患者180人を、実際に施術をするグループと偽の手術を行うグループに分けたところ、プラセボ手術の効果は本物の手術にまったく劣らなかったという。それどころか、二年にわたる追跡期間中、プラセボ群は手術群を上回る改善があった。

2014年の論文によると、本物の手術をプラセボ群と比較した53の試験のうち、偽手術の効果が本物の手術と変わらなかったものは半数にもなった。実際、プラセボ治療者をPETスキャンを用いて脳内の鎮痛に関係するオピオイド受容体の活動を測定した研究では、プラセボ治療は痛みに関わる一連の脳領域でオピオイドの放出を増加させることを報告している。また、カンナビノイドなど天然の痛み止めの放出が起こることも報告されている。「痛みは脳がつくりだすもの」という理屈からいえば、「手術や特別な薬で治そうとしてくれた」こと自体が、痛みを実際に減らすのだろう。

おもしろいのが、「これはプラセボの薬ですよ」といってオープンに表明して渡された薬もプラセボ効果を発揮する事実があることで、この理由についてはまだわかっていない。ただ、テッド・カプチャクという研究者は、意識的な思考(これは偽の薬だから効果がない)よりも、神経学的な事象が治療の儀式的な行為(実際に薬を飲むという動作)が優先されることがあるからではないかと語っている。

おわりに

本書は他にも痛みにたいする催眠術の有用性についてであったり、快感と痛みの関係性であったり、人種間、移民など文化的な差の中で生まれる痛み、信仰と痛みの関係性、米国で進行中の鎮痛剤中毒についてなど、幅広いトピックが扱われている。

人為的に決められた医療の境界、製薬業界の力、そして痛みをめぐる誤った理解のために、私たちはいまや大多数の人が持続痛は薬で治り、組織は手術で解決できるものと期待する状況に陥っている。p.272

生きていく上で痛みからは決して逃れられないから、一度読んでおくと良い一冊だ。最低限「痛みは必ずしも傷や病から発生するわけではない」ことを知っているだけで、痛みとの向き合い方は大きく変わってくるだろう。医者の中でもいまだに「痛みとは患部があるからこそ発生するものだ」という考えは根強いから、痛みにたいしていたずらに不安感を煽られることで、思い込み自体が痛みの発生源になりかねない。