「ホープパンク」の代表的作品と目される、希望とあたたかさに満ちたロボットとの旅路──『ロボットとわたしの不思議な旅』 - 基本読書

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「ホープパンク」の代表的作品と目される、希望とあたたかさに満ちたロボットとの旅路──『ロボットとわたしの不思議な旅』

この『ロボットとわたしの不思議な旅』は、多文化を乗せた宇宙船の長い旅路を描き出したスペースオペラ『銀河核へ』などの著作がある、ベッキー・チェンバーズの最新邦訳作だ。中編相当の二部作で、「緑のロボットへの賛歌」はヒューゴー賞、ユートピア賞を受賞。「はにかみ屋の樹冠への祈り」はローカス賞を受賞をしている。

賞的な意味で高い評価を受けている本作だが、その内容的な特徴といえるのは近年のSFの中でも「ホープパンク」と呼ばれる作品群を代表する作品と目されている点にある。ホープパンクとは希望(Hope)に満ちた世界観を描き出す作品群(暗い出来事が次々起こる現代にあっては、あえて希望を持つこと、世界はこれからもっとよくなると思うことはむしろ反抗的=パンクであるという意味もある)を指していて、献辞も「ちょっと休憩が必要なすべての人に捧ぐ。」と、あたたかい言葉が添えられている。

作品を読んで受ける印象も、この表紙と献辞から伝わってくるもの印象から外れるものではない。思わず微笑んでしまうコミカルなロボットと少しだけ疲れてしまった人間のふれあい、その旅路、語りが描き出されていて、悲惨な未来や出来事をつきつけてくることはない。未来がこんな状態に至るのであれば、時の経過も悪いものではない、と思える世界が広がっている。ただ、その世界は、現代やその延長線上にあるものではなく、一度文明が今の状態から「変化」した後なのだけれども──というあたりが次第にわかってくるのが、本作におけるSFとしての魅力だ。

ハラハラ・ドキドキの冒険から本作は遠い場所にいるが、そのかわりに個人の感情の機微によりそい、変容してしまった世界の情景をじっくりと丹念に楽しませてくれる作品だ。そういう意味では終末✗日常もののロードムービーや漫画に読後感としては近い。それは僕の大好物でもあるので、たいへんおもしろかった。

世界観など

物語の舞台は、われわれが生きている現代が「工場時代」と呼ばれるようになった未来。この世界では〈目覚め〉が起こった結果、ロボットたちは理由もわからぬまま意識を持ち、工場を出て大自然を目指し、人間とは生活環境が分離した状態にある。

ロボットが姿を消したのでこの物語の社会には高度なAIやロボット労働者も存在せず、資本主義も一度崩壊し、既存の人間のテクノロジーは後退するか別方面へと伸び、太陽光をエネルギー源として活用し腐敗をあらかじめ設計に組み込んだ建造物など、持続可能、循環に重きを置くライフスタイルに切り替わっている。人類は移住したロボットに対して、自由市民として人間社会に再度参加しないか、と呼びかけたが、返答は「何も設計されていない、人跡未踏の大自然を見てみたい」だった。

地球に人跡未踏の自然など存在しないだろ、と思うかもしれないが、ここは地球ではない別の惑星の月パンガで、〈目覚め〉以後、人類はパンガの大陸の50%を人類の居住用に、残りの50%は自然を残したうえで、人類以外用に割り振っている。

あらすじ

物語の中心となるのは、そんなパンガ唯一の都市〈シティ〉で暮らす修道僧のシブリング・デックスだ。シティは美しい曲線が多様され、あらゆるベランダや中央分離帯が青々と茂る葉に覆われる、緑で再生可能な都市であり、人間は製造や成長、挑戦を続けている。しかし、デックスはそうしたものにうんざりし──具体的には、ある時「シティでは、コオロギの声が聴こえない」ことに気がついてしまい──、修道僧という職を辞し、あらたにあちこちの村を回る喫茶奉仕をしたいと申し出る。

痛切なもどかしさは、デックスの暮らしのあらゆる面にまで広がっていた。空に向かってそびえる超高層ビルを見上げるとき、デックスはもはやその高さに驚嘆することはなく、その密度に絶望した──合成カゼインの骨組みを覆う蔦のつるでがっちりとつなぎあわされている、人間の営みの果てしなき積み重なり。シティのなかに封じ込められているという痛烈な感覚が耐えがたいものになっていた。デックスは上ではなく外へと広がっていく場所で暮らしたかった。(p.16)

喫茶奉仕とはなんぞやと思うかもしれないが難しいことはなく、お茶を入れますよーといって待ち、人がきたらお茶を入れる、というだけだ。デックスは独立当初こそ客がこなくて絶望しかけるも、茶への愛と訪れる人の話を丁寧にきく接客、その二つが功を奏したのか二年後にはパンガ一の喫茶僧とまで言われるようになっている。

多くの人に求められ、褒められ、仕事的には充実している。しかし、何かが満たされない。朝目覚めても、よく眠れていないと感じる日が増えてくる。問題は、村々を旅していても最初に芽生えた動機のコオロギの声が聴こえないことだ。それもそのはず、どうもパンガの人間の居住区域では、コオロギは絶滅しているようなのだ。

コオロギの声を聴きたいのなら、ロボットが暮らす人間の居住区域外に足を踏み出すしかない。散々迷った末にデックスは森へと足を向け、そこで「人間は何を必要としているのか?」を聞くために旅に出たと語る、ヘンテコなロボット「モスキャップ」と出会うことになる。〈別離の誓い〉以後、人間とロボットが接触した例はない。

はたして、ロボットは現在どのような生活を送っているのか? また、激変した人間文化が再度ロボットと出会った時、何が起こるのか──? といえば、先に書いたように何も劇的なことは起こらず、対話とコミュニケーションがあるだけなのだが。

たとえば、デックスは何を必要としているのか。使命なのか、具体的なものなのか。使命とはそもそも、意識のある生物に必要なものなのか、日常的なことから哲学的なことまで、モスキャップはデックスに質問を重ねていく。モスキャップは哺乳類も鳥類も昆虫も両生類もすべて好きだし興味があると語る変なロボットで、愚直に何度でも相手の気持ち、やりたいことを掘り下げいくので、その過程を通して、少し休息を必要としていたデックスも、ゆるやかに回復していくことになる。

廃墟の美しさ

長い年月の果てに、〈工場の時代〉の遺物はもはや廃墟となったり緑に覆われ忘れ去られており、旅の過程でそうした情景が挟まれていくのも魅力のひとつだ。たとえば下記は、かつての世界を思い出させる、金属製の工場に入った時の描写だ。

建物はとんでもなく大きく、洞窟のようで、天井にはI字形とL字形の鋼材が無限に並んでいた。床については、以前はどんな素材だったかわからない。森に食い尽くされているからだ。崩れかけた天井のあちこちに開いた穴の下に、シダやキノコやもつれたイバラが濃密に生い茂り、穴から日光がまだらに注いでいる。(p.110)

パンガにも巨大なビルや建造物は存在するが、カゼインと菌糸体の透明ブロックを組んで施工されていて、作られた時点で腐敗が組み込まれている。そのため、この時代の人々からすると腐敗せず残り続ける金属製の工場は異質な存在なのだ。

おわりに

物語の第二部「はにかみ屋への樹冠への祈り」ではいよいよモスキャップはデックス以外の人間たち──中には電気の使用といった基本的なテクノロジーの利用を拒否する人たちもいる──と出会うことになる。そうした多様な価値観の人々も、デックスやモスキャップによって否定されることはなく、ただみな「そこに当たり前のようにいる人々」として描き出されていくのが心地よい。

デックスの茶を飲んで、緊張がゆるりとほぐれていく。そんな作中の登場人物たちの状態を、追体験させてくれるかのような物語だ。